第52話 夢のまた夢 (1)
テオドラは目を覚ました。
広い寝台にかかる、豪奢な天蓋が見える。
『あれは夢?だったのかなあ……?』
まだ半分寝ぼけているテオドラは、上半身を起こそうとするが、鈍い胸の痛みが息を詰まらせる。
「
思わず出た声で気がついたのだろう。
「ドーラ、起きたかい?」
との声と共に、寝台横の椅子に座っていた老人が立ち上がる。その顔を見て、テオドラは全てを思い出した。
その老人こそ、齢70を超えた皇帝ペトルスである。元々童顔ではあったが、さすがにこの歳になれば髪の毛も白くまばらと成り、顔には深い皺がいくつも刻まれ、年相応の風貌となっている。それでも皇帝として見成りは整えられており、威厳はそれなりに感じる。
「もしかして、またその椅子に座ったまま一晩過ごしたの?」
テオドラも50に手が届く歳になっている。病気持ちでもあり頬は痩せて皺多き顔になっているが、声にはまだ張りがあった。
「いやあ」
「いやあ、じゃない。確かにあたしは病気持ちでもう長くはないだろうけど、それでも明日明後日なくなるってわけじゃないんだから、しっかり身体を休めなよ。皇帝でしょ?」
「大丈夫だわ。ほれ、わしはちょっと寝れば睡眠は足りる体質なのはドーラも知っとるだろ?」
「何言ってんの。いつまでも若い体じゃないんだから、激務に耐えられないでしょうが。政治に終わりはないって言ったのは、リックスなんだからね」
テオドラが
「それは問題ない。ユスティヌスの奴も最近は1人で政務をこなせれるようになってきた。ナルサスもついているし、大きな事件さえなければ十分に回せる」
叔父である前皇帝の名前を受け継いだユスティヌスは、ペトルスの甥(妹の子)にあたる。テオドラとの間に子がないため、早い段階で後継者として帝王学を学んでいる。さらに、ユスティヌスの妃としてコミトの娘ソフィアが結婚しており、閨閥的にも基盤は揺るぎないものとなっていた。
「今日のドーラの寝顔は、いつにも増して楽しそうだったが、何かいい夢でも見てたのかの?」
「……今さらだけど、女性の寝顔を見るのはいい趣味じゃないからね?」
「それは本当に、今さらな文句だわなあ」
睡眠時間が短いペトルスは、ぐーすか無防備に眠るテオドラの顔をにやにや見ているらしいのは、すでに娼婦時代から知っていた。やめてと何度かが言ったが改まらないので、諦めてはいる。
「……昔の夢を見ていたわ。ニカの乱の頃の」
「ニカの乱か。懐かしいの」
「もう20年も前だからねぇ」
「思えば、あの頃が1番希望に溢れていた頃かもしれんの」
「そうねぇ」
うなずいて同意を表したテオドラは、当時のことを思い出す。
ニカの乱後、真っ先に決めたのがハギア=ソフィア大聖堂の再建だった。正教会の総本山が焼け落ちたままでは教会の威信にも関わるし、ペトルスは帝国復興のシンボルとすべく斬新な設計を採用、5年足らずという短期間で再建された大聖堂は、球形の天蓋をもつ巨大で唯一無二の建築物となった。
その威容は見た者の心を揺さぶり、それを他者に伝いたいという欲求にかられるらしく、噂が噂を呼んで一目見たいというお登りさんや国外の者も増え、今でいうインバウンドによって帝都の景気を支えることにもなった。
新土地税、いわゆる空中税の廃止も即刻決まった。さらに財務長官ヨハンネスはこの政策の提案者に加え、ニカの乱の時中立の立場をとったことから地方長官に左遷された。庶民がそれを歓迎したのは言うまでもない。
ペトルスが凄いのは、廃止された空中税に代わり相続税の厳格化を決めたことだ。
相続税自体は古来よりある税で、国家への奉仕心が強かった共和政時代には多くの貴族が進んで払ってもいた。沢山の税を払うことが貴族のステータスとなり、それが人々の支持と発言力の強化にもつながったから、十分に意味のある事だったのだ。
だが、皇帝独裁が強まる中で貴族たちは税を出し渋るようになり、財産を隠したり過小評価したり、さらには政府の監査も拒否して、この頃には有名無実化していたのだ。
それの復活、厳格化であるから、貴族や元老院の反発は当然あった。だが、ニカの乱で反対派を壊滅させた直後のペトルスにはそれを押し切ることが出来たのだ。
しかも政府の監査といっても、所詮は人間のやることだ。皇帝与党の青党貴族の査定は甘くなるし、反対派や中立貴族の場合は厳しくなる。家の財産を守るために多くの貴族がペトルスにひれ伏し、皇帝権力は格段に強化されることになった。
さらに変わったことと言えば、皇后テオドラの発言力だ。
皇帝ペトルスは彼女に
名実ともに帝国の権力者になり、以後の政治、外交に大きな影響力を与えることになったのだ。
「翌年のヴァンダル戦争にとってもいい影響を与えたよね。結果論だけど」
「ああ、先延ばしした分、調略に時間取れたからの。おかげで戦争はわずか半年で終わった」
「ベリサリウス将軍の功績も認めてあげなよ。『筋肉さん』でなければあんなにあっさりは行かなかったわよ、多分」
「それはわかってるんだがのう。あ奴、全てが自分の力で成し遂げたと吹聴し過ぎなのだ。若い頃はあんな奴ではなかったのだが」
「周りの人間が悪いのよ。太鼓持ちのようなおべんちゃらばかりだからさあ。書記官のプロコピオスなんかその筆頭でしょう」
「プロコピオスか……。あやつは文章がうまいから、ニカの乱の内通を不問にして使ってきたのだが、そういう温情を感謝する人間ではなかったようだの」
「逆よ逆。温情受けたことを屈辱と感じ、暗〜い復讐心をたぎらせるタイプよ、あれは」
「だが、そういう本質を見抜けず、側近として使っているのはベリサリウス本人だからの。ほんとにあいつは、戦場でしか役に立たんわ」
「それをうまく使ってこそのリックスでしょ?いい?『筋肉さん』の忠誠心だけは絶対に疑ったらダメだからね?あたしも、いつまでも忠告出来ないんだからね?」
死期の迫っているテオドラの言葉だ。そう言われればペトルスも「分かってるわい……」と答えるしかない。
「使えるというなら、ドーラの元旦那の方がはるかに使い勝手がいいわな」
「パウルスね。まあ、あたしの見る目もなかなかでしょ?」
テオドラの最初の結婚相手であるヘゲボロス家のパウルスは、離婚した元妻がなんと皇帝後継者に見染められて皇后になった事は聞いていたようだ。
当然驚いただろうし、それが良いことが悪いことかを判断しかねていたらしい。皇帝家と個人的な繋がりを持てた事は吉兆だが、追い出すように離縁されたことを恨みに思っていたら、家の破滅である。
結果、皇帝家や帝都には近づかず、息を潜めてやり過ごすことにしたらしい。
そんなパウルスの元に、皇帝からの召喚状がきたことでヘゲボロス家は混乱に陥った。ついに来たか、とパウルスは相当に腹を括って帝都に向かったと聞く。
だがそこで、皇帝ペトルスからはヴァンダル戦に向けてトリポニタニアの調略を命じられたのだ。
トリポニタニアはベルベル人と呼ばれる遊牧民が蟠踞し、統一された政治勢力はいなかった。だが、遊牧民たる彼らは隣国のリビアにも出没し、リビアの有力者であったヘゲボロス家とも親交があった。その縁を使って彼らと交渉をもち、来たるヴァンダル戦争の時に協力を求めよというのだ。
さらにパウルスを推薦したのは元妻のテオドラと聞かされ、皇帝の会見の後、「久しぶりねぇ」とテオドラとも親しく謁見したことで、パウルスは感謝感激、全身全霊を持って調略にあたった。
部族社会では何より『顔つて』=コネが大きい。知り合いのベルベル人を通じてトリポニタニアの各部族長に会い、交渉し、寝食を共にした。皇帝からも買収資金は存分に使って良いと言われていたこともあり、帝国金貨をばら撒いた。
結果、部族のことごとくが帝国の支配下に入ることを了承し、海路遠征する帝国軍はヴァンダル王国の首都カルタゴのすぐ近くに、安全な港と補給地を得ることになった。
ニカの乱で作戦は延期されたが、その時間をパウルスは無駄にしなかった。さらなる交渉を重ね、各部族から抽出された騎馬5000の兵を参戦させることを認めさせたのだ。
渡海遠征軍である帝国軍は輸送船の問題があり、10000の重装歩兵が主力で、大型動物である馬を大量に連れくる事は難しかった。その足りない騎兵力をベルベル人が補った形となり、戦争が半年で終わらせることができたのは、ベリサリウス将軍の軍才と共に、パウルスの調略、さらにはヴァンダル海軍を引きつけたサルディニアの反乱が大きかった。
戦後、パウルスは列臣の前で皇帝自らの激賞を受け、
その後もヴァンダル王国の残党の反乱鎮圧にも手腕を見せ、新興貴族でありながらアフリカ属州では並ぶものがいない青党有力与党に成長したのだった。
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