第32話 皇后の日々(2)
午前の陳情、会食を愛想よくこなしたテオドラは、一度皇宮の皇后自室に戻った。
「まぁ〜たくっ」
人目のない空間にきた途端、愛想良い笑顔を疲れた顔に変え、髪留めを乱暴に取って豊かな黒髪をばさっと解く。
「旦那の浮気とか、姑のイビリとか、自分でなんとかしろっての。なーにが国家の一大事だよっ」
「あの奥方にとって家庭の平穏は、何にも勝る重大事なのでしょう」
そうフォローに回る女官房長アンナも、多少の苦笑が隠せない。
「旦那が蛮族の娘に入れ込んで、国家情報を漏えいするかもしれないって……。あんたの旦那はそんな情報を扱えるほどの大物じゃねぇっつーの」
誰も見えない空間とはいえ、かなりストレスが溜まったのか娼婦時代の口調が出るテオドラ。
「ですが、あの奥方は皇后陛下が親身に話を聞いてくれたことで感激しておりました。あの家は中堅の緑党ですから、うまくこっちに引き寄せられるきっかけになるかもしれません」
「あの奥方じゃ、望み薄だけどねぇ」
緑党は反皇帝派、保守派の総称である。緑党に連なる貴族の正妻から陳情が来た時には、その意図を疑った。カウンタースパイとしてこちらの内情を探りに来たのでは、とも勘繰った。
だが、そんな疑った時間を返してくれぇと思ってしまうほどたわいない内容だった。あれが演技なら脱帽だが、テオドラもまた男の前で散々演技して生きてきた女だ。女の涙が本物かどうかはすぐに見抜ける。
「あと、あの香水はあたしには合わないから、女官たちに下げ渡しといて」
「商人の献上品ですね。かしこまりました」
南方の珍しい香料を使っているというのが売りだったが、テオドラには匂いがきつすぎた。独特の匂いなので、女官たちの中で気に入った者がいれば使うだろう。
「まあいいわ。次よ次」
切り替えが早く後に引きずらないのがテオドラの特質だ。
「御前会議は?まだ時間ありそう?」
「宦官たちによれば、皇帝陛下はまだ執務中のようです。会議参加者たちはぽつぽつ参集しているようですが」
「湯浴みする時間はありそうね。化粧も汗も一旦洗い流すわ」
「準備はできております」
そう言って軽くアンナは頭を下げる。
この時代、明確な時刻は意識されず、御前会議という国家最高レベルの会合であっても、日時と午前、午後ぐらいしか決まっていない。だからある程度集まったら始まるというアバウトなもので、皆がその意識だから始まり時間は後ろにずれ込むことがほとんどだ。
だが皇帝ペトルスは、ああ見えてせっかちな性格で無駄な時間を好まない。十分に人が集まっていなくてもどんどん始めてしまい、五月雨式に到着した者が追加参加していく。あまりに遅いともうすでに会議は終わっていることもあり、何も意見が言えず、何がどう決まったかもわからない。
遅れたからといって叱責されるわけではないが、皇帝に気に入られようとするならそのペースについていくしかない。保守派貴族からの評判はよくないやり方ではあるが。
「あたしが遅れると、アイツ
アイツとは皇帝ペトルスのことだ。いい歳なのに子供っぽいところがある。
「言葉遣いにお気をつけください」
独り言のような下町言葉のつぶやきにもアンナの指摘が入る。
「わかってるわよ〜。この場ぐらいは許してよお」
「わかってらっしゃるならよろしいのです」
そう言ってニコリとするアンナ。
この部屋に入った時にはもっと酷い言葉で悪態をついていたが、テオドラの気持ちを慮ってかその時は見逃し、精神的に落ち着いた今に口調を改めさせる。細々とした事に口うるさいアンナではあるが、そういう一面もあるのだ。
「じゃあ、ちゃっちゃっと支度してしまいましょう」
湯浴みすればさっぱり汗臭さも取り払われる反面、髪を乾かし一から化粧もすることから時間もかかる。皇帝より遅れる事ができない以上、とにかく早めに準備するしかないのだ。
♢♢♢
女官一同の努力もあり、一分の隙もない服装で控えの間に来たのはテオドラの方が早かった。
少し遅れて、ペトルスが官房長官を引き連れて現れる。
今日の彼は豪奢な正装だ。宝石を散りばめた冠には真珠が連なる飾りが何本も繋がっている。ゆったりとしたチュニックを覆い隠すのはパンダメントゥムといわれる黒いマントだ。左肩の大振りなルビーをあしらったブローチで止められたそれには、細かな紋様が施された四角い黄金の金刺繍が縫い込まれており、黒い下地との対比もあって輝きが増している。
いわゆるこれが帝衣である。
「その服装をしてると、15、6歳は若く見えるわよ」
近づいてきたペトルスにかけたテオドラの言葉にお世辞はない。もう50歳になったはずだが背もしっかりとし、化粧も施された顔からすれば30代後半と言われても頷ける。
「ありがとうな。そういうドーラも20代そこそこに見えるよ」
「女は20歳から歳を取らないのよー」
そう軽口で返すテオドラも、ばっちり化粧をきめ、皇后として恥ずかしくない豪奢な装飾を身体中につけている。
もともと外見を取り繕うのは得意な方だし、皇帝皇后らしい威厳ある服装でないと人々の信頼を繋ぎ止めるのは難しい。なんだかんだ言って人は見た目で感情が左右される事が多いからだ。
個人の好みに関わらず、派手な服装で人前に出ることは公務の範疇なのだ。
2人の準備が整ったのを見て、カランカランと鐘が鳴らされる。間もなく謁見の間に皇帝が臨席するという合図だ。御前会議出席者はその鐘の音で襟を直し、皇帝陛下を待ち受ける。
やがて下仕えの手によって両開きの扉が外に向かって開かれると、ペトルスとテオドラは揃って謁見の間へ。
一段と高い玉座の後ろから現れた皇帝皇后を見て、直立して迎えていた男たちは一斉に跪拝をしてしゃがみ込んだ。
高価そうなパンダメントゥムをつけた貴族、軍装の将軍、ダルマティカを法衣として身につける聖職者。いずれも今日の御前会議に参加する者たちだ。他にもそれぞれの書記官や副官、補佐役がこの謁見の間にいるが、かれらは奥の壁際にまとまり、深く頭を垂れている。
「御苦労、皆の者。楽にしてよい」
ペトルスの一声で男たちは立ち上がる。そしてペトルスが玉座に座ると、背後の書記官たちが椅子(と言っても背もたれもなく、小ぶりな細長い床几のようなものだ)を持って駆けつけ、参加者たちもそれぞれに座って車座になる。2つほど座る者がいない椅子があるが、これは遅刻している出席者のためだ。
一方、テオドラの座る場所は玉座より右後方に設えた皇后専用の椅子になる。
それまでの御前会議には、皇后に限らず女性が参加することはなかったため、新たに加えられたものだ。高貴な女性が身内以外の男性に顔を晒すことは良いこととはされず、また邪視(悪意ある視線には呪いがあるという思想)を避ける意味もあり、黒い
「では、始めよう」
はきはきとしたペトルスの声により、御前会議が開始される。
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