第31話 皇后の日々(1)

 テオドラは、目を覚ました。


「……ん」

「お目覚めですか、皇后様」

 聞き覚えがある声が、現実へと引き戻させる。

「夢か……」

「昨晩はあまり眠れなかったですか?」

 呟いたテオドラの言葉を、マッサージしていたクレーテーが拾う。

「いや……、そんなには遅くないはずだけど」

 全裸で風呂場付きの石台にうつ伏せになっているテオドラは、その姿勢を崩さず答える。

「それにしても長く感じた夢だったなあ……。5年前の、あたしとリックスが出会ってから結婚までをダイジェストで夢見たわぁ~」

「ここでウトウトされてた時間は短いものでしたが。5年前の夢ですか」

「そうそう。夢の中のクーはまだ少女の面影があったわ。落ち着きはあの頃から変わらないけど」

 テオドラは半身を起こして、揉みほぐしてくれたクレーテーの顔を見る。

 正確な歳はクレーテーが話さないのでわからないが、20歳前後であろう彼女は体つきも大きくなり、ぐっと女性らしくなった。だが、皇后付き侍女となった今でも、5年前と同じく誠心誠意テオドラ姉妹に仕えてくれている。

 その一方で、表情はずいぶん豊かになった。喜怒哀楽も自然と出るようになったし(怒はほとんど見たことはないが)、その成長が嬉しい。


「皇后陛下は5年前とほとんど変わりませんね。肌などは若返ってる気がします」

「嬉しいこと言うじゃない」

「お世辞じゃありませんよ。それこそ5年以上も前から皆様のマッサージしてますからね」

「まあ確かに、娼婦時代よりは健康的な生活をしてるからねー」

 毎晩遅くまで起きている必要がなくなったし、酒量も抑えられるようになった。

 それに、なんといってもこのお風呂だ。

 ゆったりとした空間に、5〜6人は入れる浴槽が大理石で作られている。ゴテゴテとした彫像や彫刻はないが、壁一面には帝都の鳥瞰図がフラスコ画で書かれており、帝都を我が手にしたかのようだ。

 その反対側のオープンテラスに続く大きな窓からは、海峡が見える。朝日で海面が煌めき、忙しなく通り過ぎる商船や漁船がいいアクセントを加える。

 ここガラタ離宮は帝都北にある金角湾を挟んだ対岸にある。城壁に囲まれている帝都内にも皇帝所有となる離宮はあるが、テオドラはこの浴室が気に入ってガラタ離宮を貰い受けた。高い城壁に囲まれた帝都内では、絶対に望めない眺望だ。

 風呂好きのテオドラにとって、朝起きてすぐにぬるめの風呂に入り、日が昇るにつれ刻一刻と表情を変える海峡を見ながらゆったりと過ごすのは、至福の時間だ。

 この朝風呂が、肌や髪にいい影響を与えているとテオドラは思っている。


 申し上げます、と浴室の入り口で女官が声を上げる。

「そろそろ朝食の用意ができ上がります。皇后陛下におかれましては、身支度を整え食堂においでいただきたいと、女官房長様のお言葉を頂いてます」

「もうそんな時間か〜」

 テオドラはクレーテーに「ありがとねぇ」と声をかけ、石台から降りる。

「もう一回温まってからいくから、アンナにはそう伝えておいて」

「姐さーん。アンナさんにいびられるのはわたしなんだからねー」

 テオドラに合わせて、くだけた口調になったこの女官はメッサリーナである。

 皇后となって『青玉の酒場』を解散した時、娼婦の過半数を皇后宮の女官や侍女、下使えに取り立ててテオドラの身の回りを任せていた。

 元々高級娼婦として、大抵の者は宮中でも無礼ないような立ち振る舞いが出来るし、この5年で宮中独特の言い回しも学んだ。だが、皇后テオドラがざっくばらんな物言いを好むこともあって、身内だけの場所では、娼婦時代の雑な口調が出ることも多い。

「筆頭女官なんだから、小言言われるのも業務のうちでしょ?」

「こんな時ばっか肩書きを盾にするんだもんなあ……」

「もーちょい温まらせてよ。すぐ行くからってアンナ官房長には言っといて」

「はいはい」

 肩をすくませながら、メッサリーナが下がる。

 彼女との会話に出てきたアンナは、前皇后エウフェミアの侍女をしていたアンナである。皇后崩御の際には宮廷を辞す気でいたのをテオドラが頼み込んで、女官房長になってもらった。

 彼女は決してテオドラを歓迎していたわけではないが、公私混同せず職務に忠実な点を買ったのだ。テオドラたちに宮中の礼儀作法を教えてくれる人も欲しかったし、40代中頃という年齢もそれなりの威厳が必要となる女官房長には向いている。

 ややもすれば放縦しがちな元娼婦たちを、アンナの小言が引き締めているとも言えた。


 とはいえ、メッサリーナを困らせるのは本意ではないので、ある程度温まったら浴室を出る。

 隣の部屋に行くと待機していた侍女見習いの少女たちが張りのあるテオドラの裸体に取り付き、体から髪から水分を拭き取ってくれる。さらに服を着付けていく。

「あっ、すすすいません〜」「いいのよ、そんなに慌てなくても」「あと謝罪は『すいません』じゃなくて『申し訳ありません』でしょ?」「あっ、すすみま、じゃなくてもも申し訳ありません〜」「そんな時まで吃らなくてもいいから」

 この間、テオドラはただ立つのみだが口は動く。侍女たちも失礼ではない程度にしゃべりながら手を動かす。まだ慣れてない侍女見習いの言動を軽くからかいながら、温かく見守る。

「今日の服、誰のチョイス?」「アンナ官房長でございます」「あのばあさん、センスいいんだよなあ」「じゃあこのイヤリングも?」「左様でございます」「だよねぇ。服によくあってる」

 こういう貴族の着付けの際、静謐を好み声も音も立てないのが一般的らしいが、テオドラのしょうには合わない。主がそうならば侍女や女官たちもそれに倣い、礼を失しない程度に賑やかな空間が出来上がる。

 着付けが済むと椅子が差し出され、座ったテオドラの顔に専門の化粧師が紅を塗り、背後からは髪結師がまだ濡れた髪を手早く結い上げていく。


 身だしなみが終了する頃には、浴槽着から侍女服に着替えたクレーテーが先導し、食堂へと向かう。

 食堂では侍女たちが並び、軽い黙礼でテオドラを迎える。たったひとつしかない椅子を侍女が引くと、優雅にテオドラが座る。目の前の大きな卓には食べきれない量の皿が並んでいる。

「今日もアナは起きてないの?」

 テオドラの問いに、クレーテーが表情を変えずに返す。

「『まだ寝てるぅ〜』だそうです」

「あの寝坊助ねぼすけめ。酒場時代はそんなことなかったのに」

「昨晩は遅くまで踊りの練習をしてましたから」

 この離宮でテオドラと共に朝食を囲めるのは、身内であるコミト、アナスタシア姉妹か、皇帝であるペトルスしかいない。だがコミトは離宮に同居せず、ペトルスも離宮に泊まった時だけだ。必然的に朝食を囲むメンバーはアナスタシアだけになるのだが、最近は朝起きてこないことも多い。

 テオドラが皇后になるとともに彼女も皇族の1人となり、あくせく働く必要はなくなった。だが、ある意味テオドラ以上に自由人である彼女に皇族の生活は堅苦しいようで、ほとんど公務には参加していない。テオドラの皇后即位式後のパーティーにはフォーマルな服装で参加したこともあったが、未婚の皇后の妹ということで貴族の男たちが群がり、強烈な求婚争いをした事が男嫌いのアナスタシアを辟易させたことも大きかった。

 なんだかんだ言っても、アナスタシアには甘いテオドラだ。公務もせず彼女の好きな踊りの練習ばかりしていることも、かつ時には身分を隠して人前で踊ることさえ黙認していた。

 最近では同性愛者であることを隠しもせず、恋仲であるクレーテーといちゃついていることも多く、常識人のクレーテーを困らせている。

 クレーテーも男嫌い(というより、男性恐怖症)の同性愛者で相思相愛なのだが、アナスタシアがところ構わずしだれかかってくる事もあるし、第一同性愛は正教会から忌み嫌われている。このことをあまり公にしたくないクレーテーからすれば困惑することも多いようだ。


 アナスタシアがいないとなれば、1人で食卓に着くしかない。

 元々、朝食の習慣は根付いていない帝国ではあったが、娼婦時代からの慣れで朝飯を食べるクセがテオドラにはついている。とはいえ、朝弱く朝風呂も長いテオドラの朝食は、今でいうブランチに近いものと言えた。

 もそもそと、パンをスープにつけながら食べ始めたテオドラに、「おはようございます」と張りのある声を上げた初老の女性が近づく。女官房長であることを証明する青紺の女官服を一分の隙なく着こなしたアンナだ。

「本日のご予定を確認させてもらってもよろしいですか?」

「お願い」

 誰かと会食している時に仕事の話をするのは無礼にあたるが、1人で食事を摂っている時ならセーフだ。もちろん宮中の有職故実に精通しているアンナはそれが分かって話しかけてきている。

「この後、皇宮に向かい3件の陳情を受ける予定になっています。最初が服飾の商人、あと2つが貴族奥方の陳情です」

「それぞれの陳情前に相手名前を教えて。今言われても覚えられないから」

「承知いたしました」

 皇后の公務の1つが人々からの陳情を聞くことだ。

 共和制の残照として、為政者が人々の意見を聞く事がこの帝国では奨励されている。

 実際には、各方面からの『付け届け』をうけて皇帝や皇后への謁見を経て、願いを『聞き置く』程度だが、それでも皇帝皇后陛下が直々に話を聞いてくれることで感激することも多いし、他の貴族への顔繋ぎともなる。

 その立場上、皇帝は貴族、上層民の男性から、皇后は女性の陳情を受ける事が多いが、公的な場での女性の発言権がないこの帝国においては、充分なガス抜きになる。

 商人は服や装飾、豪奢な小物を『献上』することで、上流層への売り込みを図って謁見を申し出る。皇后に身につけてもらう事が何よりのPRになるからだ。

「その後は昼食を取りつつ、会食となります」

「ご飯くらい落ち着いて食べたいんだけど」

「申し訳ありません。陳情件数が多く、会食で数をこなさねば捌ききれず」

 会食と言っても結局は『公務』といえる。陳情を望む者は多く、アンナや女官たちが選別、あるいは代行でうけたまることも多いが、皇后との面会をぜひにと、横やりを入れてくる大貴族もいる。

 加えて、テオドラはお飾りの皇后ではない。

 政治にも積極的に口出しし、実際に陳情の情報が発端となり新たに法律が作られたこともある。

 皇后が、さらに言えば女が、『男のもの』である政治に口出しする事に伝統的な貴族は眉を顰めるが、皇帝ペトルスが面白がってそれを認めている。

 この5年の治世でそれが知れ渡り、テオドラへの陳情は引きも切らない。


「まあ、いろんな人と会って話すことは楽しいこともあるからいいんだけど」

「そう言っていただければ、私どももやり甲斐があります」

 結局、テオドラは他者との交流が好きなのだ。性格的に合わない者も当然いるが、そういう手合いとの付き合いかたは娼婦時代にマスターしている。

 しかも今は皇后であるテオドラの方が立場が上だ。所詮は女性とみて侮る輩には慇懃無礼に謁見を切り上げ、出禁させることも少なくない。

「会食後は?」

「午後は御前会議があります。ですのでその後はいつもの宴会になるかと」

「今日がそうだっけかあ。じゃあ、女官たちもこの後おめかしだ」

「はい。時間を見計らって皇宮に向かわせます」

「風呂も存分に使わせてあげて」

「かしこまりました」

 先ほどまでテオドラが入っていた風呂は、その後女官や下使えが使う事になる。今日は宴会で皇后付き女官たちも接待に出ることから、入念に身体を洗う事になるだろう。

 ちなみに女官入浴後は皇后付き宦官や離宮警護の兵士たちも入浴の恩恵にあずかる。さらに残った風呂湯は洗濯水に回される。大都市である帝都では水は貴重なので無駄なく使われるのだ。


「今日も予定が目白押しだわ〜……」

「それが上に立つ者の責務です」

 テオドラのぼやきのような独り言も、アンナは拾う。

「こんな時はアナがうらやましく覚えるわ」

「無理ですね」

 アンナは切って捨てる。

「テオドラ様は、なんだかんだ言っても責任からは逃げないお方です。アナスタシア様のような生き方は暇すぎて出来ないと愚考します」

「‥‥それって、あたしを褒めてる?」

「最大限の賞賛でございます」

 そう言って深くお辞儀をするアンナ。

 テオドラに使えて5年、かつては『前皇后様は』と言ってエウフェミアと比較して暗に非難することも多かったアンナも、最近はテオドラを認める言動も増えた。

「女官房長にそこまで言われちゃあねぇ。頑張るしかないわね」

「ありがとうございます」

「じゃあ、ちゃっちゃっと仕事するかあ。ご飯はもういいわ」

「かしこまりました」

 アンナの言葉と共に、控えていた侍女たちが大量に余った料理を下げていく。

 元々食べきれない量を作って、余りは下の者に下げ渡されるのが貴族のマナーなのだ。ここでもできるだけ無駄はでないようになっていた。

 その動きを横目に見つつ、テオドラは席を立つ。先ほどの衣装部屋に戻れば外出用の装飾が準備され、落ちた化粧やほつれた髪がチェックされる。

 皇后たる者、人前に出る時には一分の隙もなく身だしなみは整える。これはアンナもテオドラも同じ考えだ。娼婦や貴族、庶民であっても、人が見た目で左右されるのは変わらないからだ。

 それに化粧をすることで人前に出る気構えもできる。


『さあて、今日も立派な皇后様を演じようかねぇ』

 テオドラはこの5年、自分に言い続けた言葉を胸の中で呟いた。





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