第30話 パン配給場にて 〜皇后エウフェミアの場合〜(3)

 エウフェミアの葛藤を知ってか知らずか、テオドラは話を続けた。

「私は、ある意味エウフェミア様とは逆です」

「逆?」

「一度結婚していたため、実子がいます。2人。ですが、離婚した時に旦那側に預けてきましたから、もう会うことはありません」

「……そう。それは、寂しいわね」

「いえ全然」

「全然?」

 思わずテオドラの顔を見つめてしまう。だが、彼女の表情は穏やかで、口元には笑いをたたえたままだ。負け惜しみを言っている様には見えない。

「上の娘は、産まれてすぐ旦那側の両親に取り上げられましてねえ。下の息子に至っては、出産後2ヶ月で離婚でしたから。もう顔も覚えてないくらいで」

「………」

 明るくヘビーな話をするテオドラにエウフェミアは言葉が出ず、あんぐりと口を開けてしまう。歯を見せない様に手を口前に置くのも忘れて。


「なので、実子と言ってもあんまり自分の子と思えないんですよ。もともと血の繋がりに拘りがないんで、なおさらですね」

「……で、でも、半年以上もお腹にいたわけだし、出産の時だって」

「あー、確かにキツかったですねー。もう2度と妊娠なんてするもんか、なんて心に誓ってしまうくらいで」

 あははと笑って返すテオドラ。言葉使いも崩れたものになってきている。

「人それぞれでしょうけど、私には辛い体験したから愛おしく思うという感性はないですね。子供であっても大人であっても、時間の長さとか考え方が合うとか、そちらの方が重要ですかねぇ」

「……そういうものかしら」

「付き合いの時間は大事ですよ。その時間の長さに比例して、愛情も深くなるというか。まあ一目惚れっていう場合もあるでしょうが、付き合った時間が愛を補強しますよねー」

「なんか、親子の情から男女の仲に話が移っている気がしますが」

「同じ様なものじゃないですねー。親の愛も兄弟愛も、さらに言えば友情も。相手を好きになるという点は変わりませんよね」

 ですから、とテオドラは話を続ける。

「エウフェミア様はお腹を痛めた子ではないからと、また15歳までは育ててないからと、ご自身は母親としての資格がない、と思ってるんじゃないかとペトルス様が言ってました。が、引き取って30年ですよ?倍の年数エウフェミア様の元にいるんですから」

「……あの子が、そんなことを?」

「素晴らしいじゃないですか。互いに相手を思い合っているんですから。血の繋がりなんて小さい事だと思いません?」

「でも……」

 お母さん、と呼んでもらってもいいの?と思う反面、私なんて、という思いも消えない。

 ルキピナ時代の、最悪な記憶がフラッシュバックする。


 自分でも、自分の気持ちがわからない。母親と呼ばれたいのか呼ばれたくないのか。

 今日初めて会った孫ほどにも若い女に、後押ししてもらいたいのか否か。

「でも……、元娼婦の私を、母親と呼ぶことになるのよ?あの子だって……」

 その自信のなさが、弱々しく否定的な言葉を紡ぐ。

 だが「何言ってるんですか」と、目の前の若い女性はそんな言葉を遮るように、力を込めて言う。

「私という、現役バリバリの娼婦と結婚しようとしてる男ですよ?そんなことを気にすると思いますか?」

 皇后の言葉を遮った事に、今まで黙って聞いていたコミトが「テ、テオドラッ!」と顔を蒼くし、横の侍女アンナも「無礼者っ‼︎」と怒鳴りつけるも、当の本人は「これは失礼を」とゆったり軽く礼をするだけで、顔を上げた時には変わらぬ笑顔だ。

 エウフェミアは「いいのよ」と片手を上げてアンナを止めると、テオドラに向き直る。

「あなた、娼婦という職業に否定的感情を持ってないのね?」

「ですねー。そもそも、なんで娼婦がダメなのかよくわかりません」

「なぜって……。当然でしょう?」

 驚きながらエウフェミアが答える。彼女にとり、太陽が東から登るくらい当たり前のことだ。それを疑うという感性自体が信じられない。

 だが、この娼婦の女性は違うらしい。


「もちろん、世間の多くの人が娼婦を淫楽の象徴の様に見ているのはわかってます。でも、娼婦のほとんどが快楽を得たくてなっているわけではない事は、エウフェミア様もご存知ですよね?」

 そう言われれば、エウフェミアは沈黙するしかない。彼女もまた、売られて娼婦に落とされたクチだからだ。

 周りの娼婦も、生きるために売春していた。決して性を貪っていたわけではない。

「確かに正教会は売春を激しく糾弾します。『汝、姦淫するなかれ』ってね。

 でも、これって男目線ですよねぇ。だって女性が姦淫して困るのは、産まれた子供が自分の子かどうか自信が持てない男性ですから。だから奥さんを『不貞禁止!』と家で囲って、自分だけのモノにしておきたいでしょーねー」

「あなた……、神の言葉を疑うの?」

「疑う、というより、世の男たちが自分達に都合のいい解釈を押し付けてるっていうとこですかね。教会もガチガチの男性社会ですし。

 だって姦淫を禁じられているのは、事実上女性だけじゃないですか。男性は愛人を何人も持っても『男の甲斐性』って、ある意味尊敬されるくらいですから。

 第一、男が買春しなければ娼婦は成り立たないんですよ?なのに男の買春は見過ごされて、女の売春は厳しく責められるって……。これじゃ、男に都合いい解釈と言われても仕方ないんじゃないですかねー?」

「テオドラッ。ここは教会の礼拝所なのよっ」

 横のコミトの慌てた声が飛び、妹の代わりなのか、両手を組み神への謝罪が小さい声で唱えられる。当のテオドラは「おっと、いけねぇ」と言いつつも悪びれた感じもなく、小さく舌を出す。


 そのちぐはぐな対応に、思わずエウフェミアから笑顔が溢れる。

「あなたたち、姉妹でも性格はかなり違うのね」

「失礼な妹で、申し訳ありませんっ」「かなり違いますねー」

 かしこまるコミトに比べ、テオドラはあっけらかんと笑って返す。

「でも、仲は良さそうでいいわね」

「まあ尊敬できる姉ですから」

 と、妹はあっさり答えてニカっと笑う一方、姉の方は多少躊躇いながらも

「こう見えて、わたしなどより多くの人望を集めている妹です。根は優しく面倒見はよく、わたしも頼るところがあります。確かに行状では好ましくない面もありますが……」

「コミ姉、長いって。それに真面目すぎ」

 そんな2人の掛け合いにも、思わず笑い声が出てしまうエウフェミア。


「テオドラさん」

 歯が見えない様に口元に手を当て、ひとしきり笑ったエウフェミアは、改めてテオドラに向き直る。

「はい」

 テオドラ、そしてコミトも姿勢を正す様に座り直す。

「あなたは自由なのね。そして強い。そんなところがあの子に気に入られたのでしょう」

「さぁ〜、どうなんですかねー」

「わたしには、皇后という立場は重く、気鬱なものでしたが……、あなたならうまく乗りこなせそうですね。コミトさんも、これからは皇族の1人としてあの子を支えてやってください」

「は、はいっ」「エウフェミア様、それじゃあ」

 コミト、テオドラの順で声が上がる。

 しかし、エウフェミアは笑みを浮かべながら言う。

「結婚には反対します」

「え……」「今の流れ、完全に結婚を認めるって雰囲気でしたよねぇ⁉︎」

 目をしばしばさせるコミトに、抗議の声を上げるテオドラ。

 だが。

「愛しい我が息子が若い女に取られることを、両手をあげて喜ぶ母親はいませんよ」

 涼しい顔で答えるエウフェミア。

「でも、それは」

 と言いかけるコミトを制して続ける。

「わたしも、あなたたちを見てもっと自由になるべきかもと思ったんですよ」

 正教会は嫉妬の情、とくに姑が嫁に辛く当たることを固く戒めているが、逆に言えばそう思う母親が多いということだ。教会の教えを忘れたわけではないが、娼婦の何が悪いと、言い退ける嫁に対してはこのくらいの我儘は許されるだろう。

 そして、ペトルスを『我が息子』と呼ぶことも。


「それに、どうせわたしの了承を得なくても、あなたたちは結婚するつもりでしょう?」

「まぁ、そうなんですがねぇ」

 人差し指で頬を掻きながら、悪びれる感じもなく答えるテオドラ。

「でもリッ……、と、ペトルス様は多分、エウフェミア様に祝福してもらい、挙式に参列してもらいたいんだと思うんですよねー。なので、その気になるまで説得させてもらいますねぇ」

「やってみてご覧なさい。わたしもそう簡単にはなびきませんから」

 テオドラの挑戦的な言葉に、対抗するかの様なエウフェミアの笑みだ。

「1年後?2年後かしら。まだ説得する時間はあるでしょうから、皇宮に訪ねてきなさい。今度は居留守しません」

「そうさせてもらいますねー」

 かなり砕けた態度でテオドラが答える。これが彼女の素なのだろう。

 それを顔を顰めながらも黙ってみていた侍女のアンナが、不敵な笑いを口元に浮かべる。皇宮に来たなら徹底的にマナーを教える気だろう。それこそ小姑の様に。


 結婚と一言で言っても、大国である帝国の、次期皇帝後継者の結婚式だ。それは第一級の外交案件となる。

 周辺諸国はこぞって言祝ことほぎの使節団を送ってくるだろうし、帝国としては壮麗壮大な式をして彼らをもてなし、度肝を抜く必要がある。婚礼外交、情報収集も活発に行われるだろう。

『それどころか、もしかしたら交戦中のメディア帝国の使者も呼んで、和平のきっかけにしたいと思ってるかもしれないわね……』

 我が子ながら、ペトルスは抜け目がない。一つの行為に複数の効果を持たせようと考えるところがある。この時期に急に結婚を言い出したのも、戦争を早期に切り上げたい考えが後押ししているのかもしれない。

 メディア人とて膠着している戦線を一時休戦して、敵国内部で大手を振って情報収集できるなら乗らないはずがない。

 そうなれば、準備や日程調整、さらには法律改正も考えると、結婚式までに最低1年は見る必要がある。


『……わたしもいつまでこうしていられるか、分からないけど』

 夫であるユスティヌスにも言ってないが、最近胸に鈍い痛みがある。宮廷医師の見立てでは死病、おそらくカルキノスで、余命1年と言われている。

 エウフェミアもいい歳であり、この悩み多き一生を幸せのまま終えられそうな事に感謝しかなく、その死を受け入れている。強いていえばペトルスの結婚式はれすがたに立ち会えないかもしれないことぐらいだが、それも運命だ。そのために式を早めさせる気はない。

『それに……、最後の日々をこの生意気な女と、嫁姑の舌戦で過ごすのも楽しいかもしれないわね』

 万事控えめなエウフェミアには、これはという貴族の友人がいない。ひっそりと神の御許に行くのもわるくはないが、今までの人生の回顧を話す相手としてはテオドラは最適かもしれない。何言ってもうまく返してくれそうだし、罪悪感も感じない。

 これも、神の思し召しかもしれない、とエウフェミアは思う事にした。


 ♢♢♢


 1年と3ヶ月後、ペトルスとテオドラはハギア=ソフィア大聖堂で壮大な婚礼式を挙げた。

 各国の使節団も見守る中、帝都大司教の立ち会いでミトラが被せられ、婚配機密が取り行われた。

 この場に皇妃エウフェミアはいない。式の半年前に天に召されたのだ。その喪もあって予定より3ヶ月伸びたのだが、式そのものは盛大に行われた。


 気落ちした皇帝ユスティヌスはこの結婚式から1年足らずで愛妻のいる天に昇り、ペトルスが皇帝となった。

 この際、ユスティニアヌス(ユスティヌスの子の意味)を名乗ることになり、世界的にはこちらの名前の方が有名ではあるが、この物語ではペトルスで通すことにする。







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