第19話 戦争の影(1)
テオドラは目を覚ました。
天窓からは四角い朝日が差し込み、広いベットの一角を明るく照らしている。
テオドラは半身を起こし、う〜んと背伸びをする。何もつけずに寝る彼女のこと、白く美しい裸体が惜しげもなく朝日にさらけ出される。
寝起きはいいほうだ。1人だけで寝た広い寝台をぼんやりを見ていた時間は短く、「よしっ」と自分で気合いを入れると、部屋の隅にある銅鏡を見ながら髪を手櫛で整え、編み上げる。置いてある紅や白粉で軽く化粧もする。
娼婦にとって化粧は武装だ。
家庭内ならまだしも、人前に出るときの身だしなみに気をつけるのは、娼婦でなくともそれなりの家の女性なら誰でもやっている。
美貌で売る娼婦ならば、たとえ店から家に帰る短い行程であっても、手を抜くことはしない者の方が多い。テオドラもまたその1人で、化粧のない間が抜けた顔を晒すことを、彼女の自尊心が許さない。
産まれたままの姿で手早く顔を整えると、
同衾したお客がいるときは、この時にお客を起こしてお見送りするのだが、今日、というか最近はやらなくなっていた。
『でも、リックスは朝早いんだよねぇ……』
今は帝都にいない、太客である執政官のことを思い出す。
結構酒も飲むのに、一緒に寝床に入るテオドラが起きる時には起きていなくなっている。一足先に皇宮に帰ってしまうのだ。仕事が忙しいというのもあるだろうが、どうも睡眠を長く取らなくても大丈夫な体質らしい。
「ちょっとウトウトすれば、あとはすっきりなんだよな、俺は。羊飼いのころはそうでもなかったんだが、帝都に来てからはだんだんと睡眠が短くなっていって、こうなってしまった。まあ、昼寝も多いんだが」
「寝付きはいいよねえ。さっきまでぺちゃくちゃ話していたら、急に『寝るわ』といって、すぐに半眼白目で寝息を立ててるんだもの」
「え。俺って寝てる時、白目になってるのか?」
「多いわね。まぁ寝てる姿は自分じゃわからないからねぇ。いびきも時々」
「……なんか、恥ずかしいな。自分のくせを知られるってのは。まあでも、今さらか。ドーラならむやみに噂広げたりしないだろうし」
「執政官の情報が欲しがってる人は多いけど、さすがに寝てる時の癖は、ね。金にはならないわねぇ」
「たとえ需要があっても、やめてくれ」
そんなたわいもない会話をしたことを思い出す。
部屋を出て、下の階へ。
一階の酒場部分や奥のステージには一切の窓がないので、朝でも暗い。そこを横切って厨房へ足を進める。
一方で、厨房からは明るい光が漏れている。女子たちのぺちゃくちゃさえずる声も聞こえる。
「おはよう」
「あ、おはよ〜」「テオドラ様、おはようございます」「姐さん、先にいただいてるわー」「おはよーございまーす」
厨房で朝食を取っていたアナスタシアやクレーテー、数人の女子が顔をむけて挨拶してくる。
彼女たちの多くは細長い厨房の真ん中にある、これまた細長い作業台に椅子をくっつけて麦粥を食べている。
「ああ、自分でやるからクレーテーは座ってて」
立ち上がってテオドラの朝食を用意しようとするクレーテーを手で制して、かまど上の鍋から粥をよそう。
比較的治安のいい帝都であっても、女性が夜の街を出歩くのは危険だ。特に娼婦となれば、暴漢に襲われたと当局に訴えても「夜出歩く方が悪い」「そんな仕事をしてるからだ」と、まともに取り合ってもらえない。
男尊女卑が強い時代だ。姉のコミトもやられた事があるし、他にも生命の危機と悔しい思いをしたスタッフは少なくない。
だから、よほどのことがない限り昨晩仕事をした女性スタッフは、そのまま店に泊まり朝に帰る。
テオドラみたいに個室を与えられている者は客がいない部屋でそのまま寝るが、アナスタシアやクレーテーなどは、空いている個室に数人で泊まる。店が大盛況で、空いた個室がないときなんかは、舞台裏の控室に毛布を持ち込んで雑魚寝してたこともある。
また店の用心棒も何人かは泊まって、深夜のトラブルに備えてくれており、彼らも厨房の隅で粥をかっこんでいる。
実のところ、この時代に朝食は一般的ではない。
照明となる油や蝋燭は庶民が気軽に使えるものではなく、夕飯を食べて夜の
結果、起きてもそんなに空腹を感じないのだ。食料が充分にない時代でもあり、1日昼夜2食という習慣が帝国では普通である。
蝋燭をふんだんに使える貴族は、美食に金をかけるため饗宴で夜通し飲み食いする。その結果朝はお腹が減らないので、彼らも朝食はあまり食べない。
だが、夜間労働をする娼婦は当然お腹が減る。
ならばと、昨夜の調理班が翌朝用の麦粥を作っておいてもらい、昨晩の残りものをおかずに皆で朝食をとるとともに、昨日の「成果」をスタッフ間で話し合う時間となっていた。
食べる前に神に感謝の言葉を述べるのが正教徒の習わしだが、その正教会から断罪されているのが娼婦だ。テオドラ自身、教会は大嫌いなので祈りの言葉も唱えず食べ始める。
もっとも、娼婦であっても敬虔な正教徒というスタッフもいるし、習慣的に聖句を唱えて食べ始める者もいたりする。
「今日も残り物が多わね」
人肌温の粥(この時代、熱すぎる粥やスープは「舌に鍛冶屋が来た」などと揶揄され嫌われる)を木匙で口に入れながら、左手で鯖煮込みの切れ身を手づかみする。本来なら店で出される料理の残り物で、一晩置いたことで
「昨日のお客は4名でしたから。さらに泊り客は2人でした」
そう答えたのはクレーテーだ。「売り」もせず、酒も飲まない彼女は、来店した客、注文された料理や酒、やりとりされた金などを管理してくれている。店内スタッフでは最年少の部類に入る彼女だが、計算ができる彼女はどんぶり勘定の多い娼婦の中で重宝されている。
「そうだったわね。これじゃ商売上がったりだわ」
テオドラは軽くため息をつく。
「あたしらは朝からこんな美味しいもの食べれて、嬉しいけどねぇ」
とは、別の娼婦の弁だ。昨晩の残り物の焼き鯖の切り身を粥の中に入れて、身をほぐしながらにこにこ顔で食べている。
「最近、余り物が多いじゃない?うちの子たち、あたしが持ってくる料理に慣れちゃって、口が肥えてさあ」
「あんたんちとこ、子供3人だっけ」
「4人よ。1番下は乳飲み子だから料理は食べられないけど」
「持って帰るのはいいけど、鯖は足が早いから気をつけなよ」
「大丈夫だって。ゾエさんの料理は奪い合いだから」
そう言って笑う娼婦たち。
話が暗くなりそうなのを察して、あえて軽い話題に変えるのは娼婦の習いともいえる。
そうやって、少しでもテオドラの悩みを軽くしようとしてくれる心遣いが嬉しい。
「これでも、昨日は仕入れを減らしたのですが」
と、気配もなくスッとテオドラの横に立ち、杯に水を注ぐ老人。
「ああ、爺やがそんなことしなくてもいいのに」
「これも習い性です。お気になさらず」
と、にっこり笑う小柄な老人はヨハネスという。
白いヤギ髭と、温和でしわが刻まれた細い目、生え際だけ白髪が残る禿頭。『青玉の酒場』の仕入れから支払い、給料管理まで、会計の元締めをしている老人で、酒場一階に一室を構えている。
またその部屋は金庫も兼ねており、酒場でクレーテーが取りまとめた金は老ヨハネス(同名で同じく会計士をしている息子がいるので、「老ヨハネス」「若ヨハネス」などと呼ばれる)の扉に取り付けられた郵便受けような場所に入れられる。夜は弱い老ヨハネスだが、逆に朝はとてつもなく早い彼は、金庫兼郵便受けの中をまさぐり昨晩の収益を確認する。その後、店内管理を司るクレーテーと情報交換、それをテオドラがいる日はこの朝食場で昨晩の収支報告をして、今後の仕入れやスタッフの数を決めるのが毎朝のルーティーンだ。
老ヨハネスとの付き合いは長い。テオドラたちの父親アカキオスが曲芸団を率いていた頃から団の会計を担当していた。
父親の急死と共に母につけ込んで団を乗っ取ろうとした団員がいたが、その際姉と一緒に団を解散させ、狙われていた団の資産を団員全てに平等分配できたのも、子供の頃からの知り合いであったヨハネスが協力してくれたからだ。
「アカキオス様には、返し切れない恩がありますので」とは彼の弁で、今は会計面でテオドラたちを支えてくれている。テオドラが全身で信頼している、数少ない人間の1人だ。
「先月までは売り上げがかなりありましたが、今月は客足が遠のいています。昨今の社会情勢を鑑みれば、仕方ないとは思いますが」
「戦時下、だもんね…」
「それもありますが、教会の手の者が港口や港通りの入り口で、辻説法をしているのが大きいかと。『この非常時に娼館に行くことが、主の思し召しにかなうとお思いですか?』などと、歓楽街に向かおうとするお客に語りかけているらしく」
「営業妨害じゃん!それ!」
他の娼婦からも突っ込みが入る。
「……ほんと、あの腐れ坊主ども」
「教会は、この戦いを聖戦と位置付けてますから。彼らからすれば、この非常時に不埒な行為に
「だから、言わんこっちゃない……」
「何のことですか?」
「何でもないわ」
テオドラはごまかしたが、2カ月前のペトルスとの会話を思い出していた。
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