I.
怖い。
そんな感情が掠め過ぎって、思わずバルトは自嘲的めいた表情を浮かべた。
「くだらない」
彼の傍を
「僕の愛しのフィオナ君。また、すぐ会いに行くからね」
肌に感じた
†
「お待ちしておりました。ダウズウェル伯爵」
そんな執事の出迎えに、瞳孔だけを一瞬動かして、「ああ」と答え、フィオナは大理石の階段を登った。後ろで、ギルバートが招待状を迎えの執事に渡している。扉をくぐれば、華々しい貴族の舞台稽古、社交界の会場だ。
眩しい程の煌々とした明かりと贅沢を尽くした派手な様相に、フィオナはその眼を細めた。豪奢なシャンデリア、ずらりと並べられた高級料理、振る舞われる一級品のワイン。着飾った男女は、会話や踊りに
「フィオナ」
声が掛かった。ジャスパーのように妖艶で、ギルバートのように落ち着いていて、そしてグレンのように優しげな声の正体は、見なくても分かる。フィオナは深く息を吐き出して、振り返った。
「カーティス」
にこやかな笑みで、「やあ」と近付いて来る彼は、カーティス・ハリントン・ギャロウェイ。食えない男の代表格である。物珍しい柄のスーツを上品に着こなし、紳士という言葉は彼の為にあるのだと思ってしまうような男前。
ギルバートよりか魅力に欠けるがな、と内心付け足したフィオナは、彼の視線を正面から受け止めた。
「最近の調子はどうだ」
返事とばかりに、フィオナの唇は緩い弧を描く。薔薇の荊の如く、フィオナを護るように傍に立っていた執事達は、突然蕾でも開くように、すっと彼から離れていった。
フィオナとカーティスは仲が良い。ならば、執事は大人しく身を引くのが礼儀であり、執事の定め。ギルバートとしては正直心穏やかでないが、無論そんなことはおくびにも出さない。
カーティスはそろそろ三十に差し掛かる年齢だが、フィオナとは馬が合い、加えて彼も裏社会の人間。闇を纏う人間が惹き付けるのは、同じく月光を浴びながら生きる者。所詮、太陽の下で暮らす人間とは相入れないのだ、とフィオナはよく口にする。
執事達は二人を残して、色鮮やかな人の波に紛れ込んで行った。それを見届けてから、カーティスが感心したように口を開く。
「彼等が毒牙と呼ばれる
フィオナはちらりと視線のみを、カーティスに向けた。
「触れても死。噛み付かれても死。言い得て妙だね」
「好きに呼ばせてやるさ」
そう鼻で笑って、フィオナは片手で、側を通った執事のトレーからシャンパンを二つ攫った。カーティスとグラスを合わせ、煌めく液体を喉に流し込む。「良い飲みっぷりですね?」と茶化すカーティスを小突き、フィオナは笑う。彼との間には隔たりを感じず、素直に話せる束の間の心地良さを味わうことができた。
それから二人は会話に華を咲かせた。時折声を掛けてくる人と当たり障りの無い世間話をして、またカーティスと話し込む。その間にもプログラムは着々と進んでいき、社交界も中盤に差し掛かった頃、彼等は人知れず広間を出た。広間とは打って変わって、灯りが少なく人気も無い廊下を歩いて行く。廊下に敷かれた深緑のカーペットは、彼等の靴音の吸い込んで、重々しい静寂を落としていた。
「あの、どちらに行かれるんですか? 会場は反対ですよ」
若い女の声が、彼等を呼び止めた。声音には
ランプの光にぼんやりと照らし出された彼等の顔を見て、彼女は息を呑んだ。首元を飾る
「ダウズウェル伯爵、ギャロウェイ伯爵」
フィオナがステッキをカーペットについて、悠々とした足取りで近付き、呼応するように数歩後ずさった彼女の背中は壁に当たった。
「レディー」
向日葵で染め上げたかのような黄色い生地の、鮮やかなドレスが暗闇の中で揺らぐ。驚きに見開かれた彼女の視界は、黒の髪で覆われた。彼女の耳元にそっと寄せられたのは、緩やかな弧を描く彼の艶やかな唇。頰と頰が触れ合ってしまうと思える程近くなった距離に、彼女の心拍数は途端に跳ね上がった。上流階級の貴族の中で名を馳せる伯爵に迫られて嬉しくない女が、この世にいようか。神話の悪魔だ。契約をと囁かれれば、思考など回らず、頷いてしまうだろう。
「ここは紳士だけの部屋ですよ?」
息が耳朶に触れた瞬間、離れて行った彼の顔をまじまじと見つめ、彼の視線を辿って振り返った彼女は、ぱっと顔を赤らめた。彼女が背を預けていたのは、ビリヤードルーム。紳士だけが出入りを許される場所であって、淑女は立ち入らない部屋だ。非礼を謝罪して駆け足で去って行く彼女を見送って、フィオナは今度こそドアノブを回した。
「待っていたよ。フィオナ、それからカーティス」
中には数人の男が、ビリヤードテーブルを囲んで座っていた。スモーキングルームとしても利用されるこの部屋は、既に紫煙に包まれている。奥のソファにゆったりと腰をかけるのは、狸爺こと、この社交界の主催者ドリューウェット公爵。ふくよかな体を革張りのそれに
「今のお嬢さん、ドリューウェット公爵のところの
カーティスが唇に指を当てて、くすりと
「わしの二番目の孫だ。聡い子だろう?」
「なるほど、いい女だ」
フィオナが口を挟めば、ドリューウェット公爵は自慢気だった表情を引かせて、駄々を捏ねる子供のように口をすぼめた。
「お前には嫁がせんぞ」
「安心しろ。あんたの内縁になるなんて、御免被る」
確かに、と男達が軽やかな笑い声をあげた。二人も、彼等がしているように一人がけソファに各々腰を下ろした。フィオナは早速、サイドテーブルに置かれていた皿から、チョコレートを一粒口に放る。カカオの香りと苦味が口の中に広がり、濃厚で上品な味わいに満足げに目を細めた。凝り性な彼の事だから、ベルギー辺りから仕入れたのであろう。
「久しぶりだな、フィオナ」
一人の男が黒いキューを持って立ち上がり、ビリヤードテーブルに沿うように歩いて来た。フィオナの近く立つと、ニッカリと豪快な笑みを浮かべてテーブルに片腕を乗せる。口が大きい所為か、口の端に覗いた金歯がやけに目立つ。彼も友人の一人だ。この部屋にいる者は、誰もが一度は耳にする名を馳せた豪商や著名人、又は権力者であり、正統な貴族でもある。
「カーティス、グレグソン男爵の件は片付いたのか」
「勿論。滞りなく、済みましたよ」
我々は闇に生きし者。互いに干渉せず、気儘に手を貸し貸され、上等な菓子を食み、ビンテージワインを酌み交わして、優雅に死へのトリガーを引く。それは、ゆっくりと、しかし、確実に。
「マクマナス卿を招待しておいた」
ドリューウェット公爵はシガーを吹かせながら、節くれだった太い指先でウィスキーの氷をカランと回す。どういう風の吹き回しだ、とフィオナはナッツの入ったホワイトチョコレートを歯で砕いて、彼を盗み見た。掴み所のない雲のように柔な笑みを浮かべる、狸爺。
「お前に貸しを作っておくのもいいかと思ってな」
毎度自己満足に浸るのは、よしていただきたいものだ。しかし、化かし合いなら負けるつもりは毛頭ない。
「おい。あれは高く付いた筈だが」
白く細い中指が紅い唇の上を滑り、彼は獲物を狙う
「言っておくが、これでツケが払えると思わないでいただきたい」
そんなフィオナに、周りの侯爵達は派手に
「こりゃフィオナに一本取られたな、ドリューウェット?」
「相も変わらずお前の舌はよく回る。仕方ない、いいだろう。わしのパーティーの手土産として受け取ってくれ」
彼はゆったりとグラスを傾け、余裕綽々とでも言うようにソファに深く沈んだ。糞狸なだけあって、奴はのらりくらり。相変わらず、鼻につく老獪である。
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