Ⅰ.

  †



「ようこそいらっしゃいました。カッセルズ伯爵」


 馬車から降りたバルトは、自分を迎えに出て来た黒い瞳の執事を見て、高尚こうしょうな笑みを浮かべた。彼に導かれ、見上げる程大きく豪奢な玄関の中へと、招き入れられる。

 バルトが足を踏み入れた屋敷は、整然とした外観とシンメトリーに整えられた壮麗な庭園を構え、所々配置された彫刻や噴水が芸術的なまでにその美しさを際立たせていた。夕陽を浴び、それは、更に燦爛さんらんたる様を克明に照らし出されている。

 しかし、気付く者は気付く。それは不気味な暗さを纏い、底知れぬ闇さえ垣間見せて聳り建っていることに。この家はいつだってそうだ。


「やあ。君達執事は相変わらずの嗅覚をしているようだね」

「恐れ入ります」


 予告なしの突然の訪問にも、さも当然の如く対応してくる執事達に、内心舌を巻く。にこりと一礼する彼らの笑顔は、バルトにとって最早、胡散臭いものでしかなかった。その食えない執事に挨拶を返して、バルトは大理石の床に、革靴を履いた足を踏み出した。冷たい音が木霊する。

 壁に嵌め込まれたステンドガラスを通して差し込んだ光によって、神秘的な模様が床に浮かんでいた。


 ここの主人は、あまり使用人を多く雇うのを好まない。実際のところ、彼の執事は優秀な者達だ。たった三人で、十分事足りる。

 玄関ホールは、時計の針が止まっているのではないかと錯覚する程に、静かな空間をとどめていた。広いだけあって、人が居ないだけでガランとした雰囲気が漂いそうなものだが、彼の屋敷は違う。

 何かが、違うのだ。


「何をしに来た」


 声が降ってきた。氷柱つららのハープを奏でたかのような、美しくも冷然たる調べ。

 両脇に二人の執事をはべらせて、この城の主人が踊り場からこちらを見下ろしていた。氷水の如き冷たい眼差しで、彼は容赦無くバルトを刺す。


「用件を言え。貴様のように、暇ではないからな」


 バルトは彼のことを気に入っているのだが、彼は非常に素っ気ない。愛想や情などという言葉は、知らぬ風情である。

 片手を挙げて、バルトは薄っぺらい笑いを返した。


「相変わらずつれないねー。これを届けに来たんだよ」


 眉尻を下げつつ、内ポケットから真紅の封蝋印が施された手紙を取り出し、器用に片目をつむる。その様子に溜息を吐きつつ、彼はバルトに背を向けた。


「茶を飲んだら、さっさと帰れ」


 客室に通すぐらいのもてなしはしてくれるらしい。

 彼の傍に控えていた執事の片方が、階段を降りて来て、バルトのコートを脱がせてくれた。本当、彼の執事は躾が行き届いている。


「ギルバート、久しぶりだね」


 嬉しそうに声を弾ませるバルトに、「つい先日お会いしたばかりですよ」と、彼は答える。

 「そうだっけ」と適当に笑い返しながら、ギルバートの翠色の瞳を見つめた。

 バルトも馬鹿ではない。グレンやジャスパーも油断ならない男だが、ギルバートはそこはかとなく危険な香りがする。

 何より、彼等の主人であるフィオナが纏うオーラが、バルトを引き寄せる。人としてフィオナという男に興味そそられるだけでない。彼のあやう気な佇まいと謎めいた雰囲気に惹かれたのも事実だ。

 誰だって、芳香の漂う花には手を延ばしてみたくなるものだ。例えその花が毒や棘を隠し持っているとしても、それが、抗うことのできぬ人のさが


 前に一度、今目の前を歩く優男の執事に、忠告を受けたことがある。

 もう、いつだったか、何処でだったか、ましてや何が原因だったかさえ、忘れてしまったが。


 "あの方は薔薇。無闇に近付かれると、お怪我なさいますよ。"


 この言葉は、バルトの脳裏にこびりつき、思い返せばあの時と同様に、耳元に囁かれているかのような錯覚を覚える。彼の纏った殺気がバルトを呑み込み、あの時はまるで、蛇に睨まれたかのように動けなかった。


 ──だから面白いんだよ、フィオナ。


 グレンが重厚な扉を開け、豪華絢爛な応接室に通された。フィオナが頬杖をついて座っているソファの向かいに、バルトは遠慮無く腰掛ける。にこにこと機嫌の良いバルトを、彼は厄介ごとそのもののように、目もくれない。


「手紙を寄越せ」


 眉間に深い皺を刻んで、フィオナが言う。ひらひらと舞う彼の手は、手紙を催促しているのだろうが、残念ながらバルトの神経の太さに敵うものはない。

 ジャスパーが銀のワゴンを押してやって来て、二人の横でハイ・ティーの準備を始めた。

 テーブルクロスの敷かれたテーブルには、ティーセットと、ケーキやサンドイッチの乗ったティースタンド。


「お茶してからにしようじゃないか。フィオナの家ではいつも美味しい紅茶が楽しめる」


 これみよがしに吐き出す溜息を聞かなかった振りをして、バルトは嬉々としてジャスパーが注ぐ紅茶を注視する。赤ともオレンジともとれる澄んだ色を放ち、爽やかでデリケートな香り。


「セイロンティーだね。良い味と香りだ。シルバーチップを含んでいるのか」

「左様にございます。良くお分かりで。ウヴァのストレートでございます」


 ジャスパーは優艶な笑みで答え、フィオナの傍にすっと寄り添うように立った。高級茶だ、流石に礼遇には抜かりがない。バルトは紅茶に口をつけながら、目線だけ上げて目の前の男を見る。彼のすぐ傍、彼を護るように立つのは、執事ジャスパー、グレン、そしてギルバート。何処へ行くにも、フィオナはいつもこうして彼等を侍らせている。


『ダウズウェル伯爵の毒牙』


 人々は彼等のことをそう呼ぶ。


「手紙を」


 フィオナが再度手紙を要求するので、観念して胸元のポケットから、それをゆっくりと焦らすように取り出す。グレンの手を通してフィオナの手に渡った手紙は、レターナイフで開封された。


「招待状?」


 頷きながら、バルトの視線は、紅茶に濡れた、フィオナの形の良い唇に釘付けになった。


「ドリューウェット公爵からのだ」

「何故お前がわざわざ渡しに来る必要がある」


 招待状に目を通しながら、フィオナが訊ねた。バルトが手紙を持ってきたという事実には、さして興味がないようだ。


「この前彼に会った時、これを君に出すって言うから」


 「俺が渡すって言って貰って来ちゃった」とペロリと舌を出して笑う。それを、ハンッと鼻で笑い飛ばして、フィオナは脚を組み直した。


「あの爺さん、随分君にご執心な様だけどな」


 にやりと笑うバルトに、「違うな」と返して、フィオナは続ける。


「酔狂な老いぼれにとって、私は只の暇潰しの道具だ」


 手紙にサインされた差出人の名前を、彼は忌々しげに指で弾いた。フィオナは、彼を煙たがっている様に伺える。しかし実際は、長いこと付き合いがあるようだ。これもまた、バルトのよく知らない彼の姿。

 差出人は、ヒューゴ・アイザック・ドリューウェット公爵。あらゆる業界に太いパイプを持つ、上流貴族界の重鎮だ。全世界に名の知れた高級レストランチェーン店、『アリババ』の経営者をも担う遣り手としても、名を馳せている。陰の権力者とも言わしめるその発言力や影響力は、国の経済や政治さえをも左右する程。

 そんな公爵と深い仲なのが、目の前で優雅に紅茶を嗜むまだ若い伯爵なのだから、当然疑問も抱こう。そして、彼の本性を疑うのも、また至極当然。今ちらりとバルトに晒されている彼の本性も、きっと一面の、更には末端の末端なのかもしれない。もしこれさえもフェイクならば、彼の俺に対する存在から瓦解しかねないが。


 その時、ふつ、と陽が沈んだ。それは、砂時計の最後の砂が零れ落ちたような、そんな感覚。カップの中で水面を揺らす紅茶もすっかり冷めてしまった。部屋の壁に掛かっていた時計が、夜の始まりを報せる。暗澹たる黒に呑まれた部屋に漂うは、光のあった先程の部屋と同じとは思えない、怪し気な雰囲気だ。ここからは目の前に座る、彼の時間。部屋を覆い始めた黒は、此処が彼等の場所であると、暗に主張しているようにさえ思える。彼の闇に紛れ込めない俺は、お暇しなければ。


 バルトが腰を上げると、タイミングを見計らったようにギルバートがコートを持って来て、着せてくれた。彼の瞳の翠は、薄暗い部屋の中で猫のように妖しい光を放っている。


「じゃ、帰りますよ」


 見送る気が微塵も無い友人を振り返って、にこりと吹けば飛ぶような軽い笑みを浮かべた。それでも尚、感情の断片すら顕れぬ、無機質な顔付きだ。そんな彼が居座る城から、バルトは逃げるように後にした。

 屋敷の雰囲気は、行きとは様相を呈した空気を纏ってそこに鎮座していた。バルトはコートの前をきつく閉じた。行きと同じように、玄関はジャスパーが開けてくれる。


「お気をつけてお帰り下さい」


 そう言って腰を折る彼は、美しい顔にまた笑顔の仮面を貼り付けてバルトを送り出す。三日月の形をした片目が、卑しい色気を纏っていた。この世で、これほど当てにならない笑顔が他にあるだろうか。

 玄関から続く低い階段をおり、玄関前まで迎えに来た馬車のステップに足をかけた。振り返れば、悪魔の館と揶揄出来ようかとも思われる、彼の城。そこから視線を剥がして、馬車のシートへと腰を沈めた。石畳の上を車輪が転がる音を立てて、バルトは屋敷から遠ざかって行く。

 窓のカーテンの狭間から再度屋敷を覗いた彼は、刹那にして勢い良く顔を背けた。バルトは思わず、服の上から心臓に手を当てる。鼓動が早鐘を打ち、冷えてゆく指先に反して血が体中を巡るのがはっきりと感じられた。


「今」


 今、目が合った。

 はっ、と浅い息を吐き出した。

 馬車から玄関までの距離は既に随分離れていたのに、閉まり行く扉からジャスパーの黒い瞳が此方を見ていたのだ。

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