Ⅰ.壊れた玩具
I.
真っ白な手袋の端を引っ張り、軽く身だしなみを整えると、彼は自室を出た。
「おはよう」
廊下に敷き詰められた深紅のカーペットを、磨き上げられた革靴が踏んだ時、背後から声が掛かった。振り向くと、同様の格好をした同僚が立っていた。
「グレン」
色素の薄い茶色の髪に、陽光を浴びて凛々しく燦く黄金の瞳。名を呼ばれた男グレンは、微笑を浮かべながら軽く片手を挙げた。
「寝不足?」
二人は肩を並べて歩き出す。首肯するギルバートを見て、グレンはくすり、とまた淡い笑みを零した。よく笑う男である。
「また新しい
「困ったお人だ」と口にしながらも、グレンの表情はどこか柔らかい。主人を愛おしげに呼ぶ彼の様子に、ギルバートも片笑んだ。
「じゃ、後で」
目配せし合った二人は、途中で行き先を
対して、グレンは廊下をそのまま直進する。絵画が掛けられた廊下の突き当たりを右に曲がり、その先にある部屋の扉を開けた。
「おはよう、グレン」
沢山の食器に囲まれて、もう一人の同僚が厨房の真ん中で、布を片手に銀食器を磨いていた。手にしていた銀のスプーンを置いて振り返った彼は、薄い唇から白く輝く歯を覗かせる。
「俺こっちやってるから、紅茶をよろしく」
「わかった、やっておくよ」
グレンは厨房を後にし、そこから程近い紅茶の保管室へと向かった。足を踏み入れた途端、幾重にも織り混ざった芳香が、抱くように全身を包み込む。
壁沿いには天井まで届く棚がずらりと並び、小さな引き出しがぎっしりと付いていた。この引き出しには、各国各地から取り寄せた、何千にものぼる種類の高級紅茶が、所狭しと保管されている。大の紅茶好きな主人によるものである。
グレンはそれを眺めながら暫く逡巡した後、立て掛けてあった脚立を掴むと、奥の棚の上段から茶葉を引っ張り出した。
部屋の更に奥には、円形のテーブルとそれを取り囲む幾つもの大きな棚。この棚にはティーセットが仕舞われている。
グレンは紅茶の準備を一通り揃えると、ワゴンに積み、懐中時計を確認した。ワゴンを押して、ティールームを出る。ゆったりとした傾斜のスロープを上って、向かうは主人のベッドルームだ。
ノックをすると、返事はすぐに返って来た。鈍い金を放つ真鍮のドアノブを、そっと回す。
上げた視線の先には、ソファに身を預ける、我が主人。投げ出されたすらりとした脚は、傍に跪いたギルバートの腿の上に置かれていた。その陶器のように白く細い足首をそっと掴み、ギルバートが靴下を履かせている。
肘掛に気怠げに乗せられた頭が、ぐり、とグレンの方を向いた。目が覚めきれていないのだろうか。少々伏せられた瞼は、紫色の虹彩を半分ほど隠し、ゆっくりと
その仕草が、部屋の壁に備え付けられた大きな窓から、カーテンを抜けて差し込む光に照らし出されて、絵画のような優しいタッチで、彼の瞳に映った。
「グレン」
否応なしに引き込まれる、妖艶でありながらも少年のような声音。その声に導かれるように、グレンは彼の元へと足を運んだ。
主人が
「アールグレイか」
ええ、と頷いたグレンを見遣って、フィオナは綺麗に揃った白い歯を見せた。猫のようにその目を細めて、すん、と漂った香りをご機嫌で嗅いでいる。
ギルバートが片足ずつロングブーツを履かせ、身支度を終えたフィオナは身を起こした。グレンによって注がれる紅茶を眺めて、顔を綻ばせる。
「このベルガモットの香りは堪らないな」
歌うようにそう言って、早速カップに手をのばす主人は何を隠そう、正真正銘の女性である。そして。
「フィオナ様、熱いのでお気をつけ下さい。また火傷しますよ」
執事、ギルバートの恋人だ。
不慮の事故で、彼女が両親と死別して
「あちっ」
「ほら、言いましたでしょう」
呆れたようにそう言いながらも、ギルバートはフィオナの手から優しくティーカップを奪い取り、顎に手を添えて、口許を心配そうに見る溺愛ぶり。今に始まったことではないので、グレンは気にせずテーブルの横に膝をつく。フィオナのチェスの相手をする為だ。
ガラス細工のチェス盤と駒は、向こう側を歪みなく透かすほどに透明。ガラス細工で有名なブランドに、特注で作らせた一級品だ。
彼らは指先で交互に駒を進めてゆく。ナイトの駒を持てば、ひんやりとした冷たさと重みが、手に伝わってきた。既に、多くの駒が盤上で動いている。
「チェックメイトです」
「何!?」
「まだまだ詰めが甘いですよ、フィオナ様」
勿論、外部では彼女が女であるという事実を知る者は、この執事の三人のみ。屋敷の使用人も、誰ひとりとして気付いていない。
ちらりと視線を上げれば、「こうだったか」と、真剣に盤上を見つめるフィオナ。その髪を撫で、そして櫛で優しく解かすギルバートの姿。これも見慣れた光景だ。
「失礼致します」
扉からジャスパーが顔を出した。
朝食を乗せたトレー持って彼女の側に歩み寄り、駒の陣形が崩れたチェス盤をずらしてシルバーのクロッシュを取り、テーブルに置いた。名高いブランドの白いパン皿には、スコーンとそれに添えられたジャムとホイップクリームが乗っている。紅茶とスコーン。彼女のお気に入りの朝食の組み合わせだ。
チェスが終わったとあらば、グレンは立ち上がり、ジャスパーと共に彼女の傍に控える。
「フィオナ様、ご朝食はお気に召されましたか?」
ジャスパーが笑いかけ、彼女に問う。
彼の口調は少し執事にそぐわない。艶やかな声音なのに反し、執事にしては飄々として空気のように軽く、茶化しているようにも聞こえる。
朝食を口にしながら、「ふむ」と彼女は鷹揚に頷いた。口の端に付いたストロベリージャムを、グレンがナプキンで丁寧に拭う。
我が
忠義にとって代わって定義のしようがない愛が闊歩し、外界に深く干渉する割には、その存在は常識から逸脱しており、またそれを
彼女の声が、ギルバートを呼んだ。
「昨夜の件、調べはついたな」
紫の瞳が傍に立つ彼を見上げ、真っ直ぐに捉えた。ギルバートは返事にと、静かに頷き、懐のポケットから洋紙の束を取り出した。
「ここ数年で、マクマナス卿の会社の利益は、不自然なまでに急激に上昇しています。こちらは、その上昇率のグラフと収入源リスト、虚偽の財務諸表です」
彼女は彼から洋紙を受け取ると、すぐ様顔を顰め、紙面を指先で弾いた。
「やはり、穴があるな」
グラフ化した表には、収入の大部分が不特定な利益で覆われていた。それを彼女の背後から覗き込んで、ジャスパーが面相を歪めた。黒の瞳は楽しそうに爛々としている。
「そう言えば」と、人差し指を立てる彼の唇を、首を回してフィオナは見上げた。
「彼は麻薬に手を出したのではないかと、彼を知る者達の中では専らの噂ですよ」
「
呆れた口調で言う彼女も、その手の情報はいつもジャスパー頼り。口達者で根っからの役者、人の懐に易々と入り込む彼を、情報を得る手段として随分と
「やっかみ半分、面白半分だと思われているようですがね」
器用に片眉を上げて、ジャスパーは唄うように暢気な口調で告げる。
「実際はどうだか」
グレンが呟いた。
フィオナはその彼等の言葉に耳を傾けながら、細い指で洋紙のニ枚目をめくる。彼女が怪訝そうに、眉を寄せた。
「これは」
「彼の、過去の取引または収入の表です」
グレンとジャスパーも、文字が書き連ねられた洋紙の上に、素早く視線を滑らせた。
「随分と違いますね」
グレンは、手袋を嵌めた手を顎に当てた。右半分だけワックスで後ろに流された、色素の薄い茶髪が揺れる。
なるほど、と洋紙から顔を上げたフィオナも、脚を組み変えてうっそりと笑んだ。その様は実に優美である。
「まあ、奴が動いてからでも遅くはない。紅茶でも飲みながら、気長に待つとしよう」
「新しいものをお持ちして参ります」
彼女が空にしたティーポットを手に取って、グレンが柔和な笑みを浮かべた。
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