序章




「こんなところに隠れていらっしゃったのですね」


 水面に雫が落ちるかのように。静かに落とされた言葉はひどく凍てついていた。侮蔑ぶべつの混じるそれは、あざけりの微笑を伴って、震える男を刺し貫く。

 暗闇に沈んだ寝室に、廊下の灯りが洩れ入っていた。影を床を這う。陽炎の如く揺れる影は、尻餅をついた格好で無様ぶざま後退あとずさる男の脚に絡みつき、容赦無く侵食してゆく。

 男の心臓は怯えに駆逐くちくされ、掌で鷲掴みされたかのように、速い鼓動を刻んでいた。頰は引き攣り、口許くちもと戦慄わななき、見開いた目は血走っている。

 赦しをう震えた掠れ声が、男の恐怖に渇いた喉から絞り出された。


 ――なんて滑稽なざまだ。


 矜持プライドを投げ捨て、地に伏せるなど、心底嗤える代物である。


「今更、何をゆるし願おうとうのか」


 不気味な薄笑いに男の肌は粟立ち、計らずも身震いした。呆れと憐憫の篭る声に、背筋が凍る。


「悪には悪の鉄槌を」


 朗々とそらんずる言葉は、二人が演出する舞台を絶頂クライマックスへと導く。

 尚も逃げおおせようとする男は、此の期に及んでなんと諦めの悪い輩なのだろうか。

 つるぎが男の頬を叩き、顎を持ち上げる。白刃が夜闇やあんの中で妖しくも、しかし艶やかに鈍い光を反射し、血を吸いたがっている。


 嗚呼。また一人、身のうちを巡る血を枯らし、命を喰われる者が、此処に。


 歩みを進める度、仄灯りに濡れ、徐々にあらわになったその姿を見て、男が驚愕の表情を浮かべる。


「……ダ、ダウズウェル……伯爵」


 紅い唇が、ゆるい弧を描く。それは甘い、甘い、婀娜あだなる愍笑びんしょう


「さて。余興の時間は終わりだ、子爵」


 ひどく緩慢な所作で、伯爵は剣を振り上げた。男はただただ、その鋒の行方を呆然と眺めることしかできない。

 なんと哀れで、儚く、醜悪な命か。


「チェックメイト、だ」


 またひとつ、舞台から駒が落ちた。

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