疑いと風邪

 昨日はいろんなことがあった。あの後、指導室に入るところを見ていた下級生の女子にラブレターをもらうとは思わなかった。彼女がいるからと断る前に、「すみません」と足早に去っていった。近くにいた別の女子が、それを追いかけていった。

 さすがに、ごめんなさい、と大声で背中にぶつけることはできず、持ち帰ってしまった。やっかいな宿題だ。

 寝る前に開けると、一目惚れ云々と書かれていた。

 一目惚れというのは動物的に正しいと思っている。直感的で、知識とか金とかいった付属的なものがない。DNAだけを求めている。だが、現代ではそれだけではいけない。お互い不幸になる。だから俺は初恋の相手と別れた。いや、それは違うか。俺は彼女をできるだけ傷つけたくなかったし、自分の欲に我慢できなかっただけのやつだ。

 とりあえず俺はラブレターに書いてあったメールアドレスにフリーメールから断りの返事をした。彼女がいるから、ごめん。それだけだ。もし友達からでもといったメールが来ても、それは無視する。宵月を裏切ることは俺のルールに反する。宵月が俺のルールに反するのはどうでもいいが。

 案の定、メールは返信されてきた。ただ、わかりましたと物分かりがいいものだった。もし宵月と別れたらと考えもしたが、俺よりもいい男を捕まえてほしいものだ。DNAだけが恋愛ではない。

 正直に言うと、タイプではなかった。

 翌日、6限目が終わり、担任からの連絡事項を聞き終えると、俺は本を返しに向かった。田中には、おつかれ、とも言わず、宵月の放課後デートのお誘いも断った。言い訳探しに手こずったが、最終的に体調不良ということにした。嘘ではない。鼻水がひどくなっている。

 冬の空気はさほど冷たくなく、歩くのは苦ではなかった。ただ、あいつの家に近づくにつれ、本を入れている紙袋が重くなっていく感じがして指が痛かった。俺ではなく、文庫本にあいつが憑いているのではないかといった馬鹿げた考えも浮かんだ。

 例の蔵が夕闇の中に見えると、俺は一呼吸置くために足を止めた。あいつの首吊りのイメージが、見てもいないのに脳裏に浮かんでは消えた。

 俺は嫌なものを消すように何かを言おうと思い、やめた。

 何も考えるな。行こう。

 呼鈴を鳴らすと、玄関が開き、おじさんとおばさんが一緒に出てきた。

「本を返しに来ました。遅くなりました」

 謝ると二人とも首を振った。

「寒かったでしょ。お茶でも一杯飲んでいきなさい」とおじさんが言い「さあさあ」と招いてくれた。

 断ることも考えたが、なんとなく上がることにした。二人が俺に話したいことがある気がした。

 前回と違い、俺は和室に通された。おじさんが前に座り、おばさんは「母さん、お茶を」と言われ、出ていった。

 まるで面談しているかのようだった。おじさんは教師だっただろうか。おそらく違う。たしか、薬品関係の仕事だ。何をやっているかは思い出せない。聞かなかった気がする。進路を決めなければいけない今頃に、お前がいたら俺は聞いただろうな。

「これ、遅くなりました」

 改めて本を渡すと、おじさんは両手で紙袋を受け取った。

「どうだった? 本は」

「恋愛系の小説でした。意外でした」

「そうか。そういった話はしなかったから、私も意外だな。連織くんにもそういったこと話さなかったの?」

「全く」俺は小さく首を振った。「正直な話、なぜそんな話をしなかったのか分かりません。音楽とかテレビでやってたニュースとか事件とか、そんな話ばかりでした」

 おばさんがおぼんに急須と湯飲みを乗せて戻ってきた。俺はお茶の準備ができるのを待たずに続けた。

「自分に彼女がいたときも、別れたときも何も言われませんでした。気を使ってくれたのかもしれません。実際、楽でした。だから、自分もいろいろ聞きませんでした。それが……」

 いやいや、俺は何を言おうとしている。恋愛が原因か分からない。

「もっと、話しとけばよかったと思うし、話したいのに、と思っています」

 おばさんがお茶を出してくれた。澄んだグリーンで、細かなかけらとなった茶葉がわずかに舞っていた。

「他に思いあたることはあった?」

 おばさんは自分の分のお茶は注がずに聞いてきた。

「何も」俺はさっきよりも大きく首を振った。「自分以外と連絡をとっていた香月くんと、宵月さんという女子もいたんですが、夏休み頃から二人とも連絡が途絶えたそうです。理由は不明です。最後に話した友達はおそらく、自分ですが、思いあたるところは本当にないんです。だから、いろんな話をもっとしていれば何かに気付けたんじゃないかと」

 後悔しているとは言えなかった。言葉の先に深い渓谷があるようだった。自分が何を言いたいのか、何を思っているのか分からない。

「香月くんか」

 おじさんはそう呟いた。

「その宵月さんって子は、どんな子なの?」

 おばさんはまだお茶を注いでいない。

「宵月さんは中学一年のときのクラスメイトです。香月くんと同じように、仲良くしている友達です」俺は逡巡したが続けた。「恋愛感情とかはお互い持っていなかったと彼女は言っていました」

「そう。他には何か分からなかった?」

「何も。交友関係の範囲は知った限りでは狭かったです。自分も同じようなものだから、仲良くなれたのかもしれません」

 おばさんは急須から手を離した。お茶は注がなかった。

「私たちが悪かったのかしら」

 おばさんの表情は暗く、何かを失っていた。それは息子一人分ちょうどな気がした。

「母さん、何かお茶受けでも持ってきてくれない?」

 おじさんが言うと、おばさんは「そうね」と立ち上がった。

 再び二人きりになると、ひとり言のようにおじさんは話し始めた。

「あの子は優しい性格だっただろう。穏やかで。でも、母さんとは結構やりあってたんだよ。勉強とか片付けとか、些細なことで。年取ってできた子だから、母さんはきちんと躾けなきゃと思ってて、私は私でかわいくて甘やかして。性格が私と似てるというのもあるかもしれないな。夏くらいに母さんと大喧嘩してね。進路のことで。あの子は音楽関係の専門学校に行きたかったみたいで、でも母さんは大学に進学しろと。暴力はないけど、壁をおもいきり殴って、皿も割れて。私も珍しく叱ってさ。その激しさが自分自身に向いたのかな。もし進路のことが死を選んだ理由なら申し訳ないことをした。後悔している」

 俺は黙って聞いていた。湯飲みの底が少しずつ濃くなっていく。

「でも私は違うと思っている。ただの自己弁護に聞こえるかもしれないけどね。あの子は…」

 何だろう。

 おじさんは口を閉じ、頭に何か巡らせているようだった。それでも機会は逃すべきではないというように、俺の目を見て言った。

「あの子は、連織くんに告白したかい?」

「告白?」

 俺は脊髄反射的にその予想外のワードを口に出した。

 おじさんは頷いたが、俺は理解できなかった。

 告白といえば、俺が女性にしたり、されたりしているものだろうか。それをなぜ俺が受けるのだ。いや、そういう混乱はやめろ。そのまま受け止めろ。

「告白はしていません。つまり、されていません」

「そうか」

 おじさんはようやくお茶を飲んだ。それを見て俺も口に含んだ。

「もしかしたらと思っただけだ。女の子の気配がなかったし。この話は忘れてほしい」

 俺が返事をする前に、タイミングよくおばさんが帰ってきた。置かれた平皿には包装されたクッキーやチョコレートが乗っていた。

「あの子がこのクッキー好きでね」

 そう言うおばさんの目は充血していた。

 それからは友達の子供の頃のエピソードを聞かされた。すべり台が好きで、いろんな公園に行きたいと言っていたこと。料理はカレーだけは得意だということ。俺もそれは聞いたことがあると伝えた。食べたいとか、食べさせてあげるとか、そういう会話はなかったと思うが、今になって食べたくなった。

 お茶を飲み終えると、俺は線香をあげさせてもらった。仏壇にある写真の中の高校生は、もういない。つまり、俺には友達がいないのだと改めて突き付けられた。田中は、友達とは言えない。いいやつだが、物足りない。

 俺は二人に見送られ、玄関を出た。残ったお菓子は全部おみやげに持たされた。また来てね、と言っていたが、どのタイミングで行けばいいのか分からない。一周忌だろうか。俺はまたここに来られるのだろうか。振り返ると蔵がまだ見えた。怖さは薄らいでいたが、それは体調の悪さが原因かもしれない。

 動きたくない。たぶん熱がある。緊張したせいで、風邪が悪化したのかも。緊張していたから気づかなかったのかも。

 俺はとぼとぼ歩くしかなかった。途中、杖をついた老人とデッドヒートを繰り広げた。親子連れには追い越された。

 家の近くの信号で捕まると、悪寒がした。歩道の端で横になりたかった。赤信号が憎い。

 今にも雪が降りそうな寒さだ。太陽は沈み、たくさんの雲が出ている。街の光のせいで雲の表情もよく見えた。だから何だ。苦しい。

 かじかむ手を宵月からもらったマフラーで包み、進むしかなかった。体の節々が痛い。

「熱だな」

 俺は、しんどい、の代わりにつぶやいた。菌かウイルスが僅かに外に出たような気がして、一瞬だけ安らいだ。しかし、それよりも早く侵入者は増殖しているようだ。

 家に着く頃にはくたくただった。俺はダウンジャケットと制服を脱ぎ捨てて、新しいシャツとジャージになんとか着替えた。親は残業で帰ってきていない。頼れるのはしっかり者の弟だけだ。

 しかし、そんなときに限って弟は来ない。彼女でも連れ込んでいるのかと思ったが、それはないだろう。いや、なぜないと言いきれるんだ。あり得る話だ。俺はきっと弟のことをきちんと知らない。それは、だめなことだ。

 俺はうなりながら体の痛みに耐えた。眠りについても、起きたのは数十分後だった。

 俺はベッドから降り、這いつくばって部屋を出た。壁に寄り掛かりながら廊下を歩き、キッチンに出て薬箱を漁った。解熱剤を一発で引き当て、それを飲んだ。コップに水を注ぐのさえ一苦労だった。

 俺は脱衣所に寄り、タオルを持って部屋へと戻った。

「大丈夫?」

 ようやく弟が出てきた。

「だめ。熱。近づかない方がいい。あ、水だけ持ってきてほしい」

「風邪?」

「たぶん」

 弟はすぐにペットボトルの水を持ってきてくれた。さらにゼリー状のエネルギー飲料みたいなものも置いていった。さすがだ。

「いいお嫁さんになるな」

 すぐに酷い冗談だと思ったが、弟は気にしていないようだった。

「俺、彼女いるから、なるなら主夫かな」

 そう言って出て行った。

 やはり、知らないことは山ほどある。

 俺はその後、二度、シャツと下着を替えた。何度も熱に起こされた。しかし、その感覚は徐々に長くなり、深夜2時半の後は、6時まで起きなかった。一度、母親が様子を見に来て、飲み物を置いていったことをなんとなく覚えている。

 しんどさは残ったが、熱は下がった。それだけで俺は自分の体を褒めてやりたい。死ななくてよかった。大袈裟だと直後に思ったが、いやいや、死ななくてよかったよと思い直した。

 その日は学校を休んだ。熱は上がらなかったから、病院には行かず、家で過ごした。昼はもらったお金で蕎麦を頼んだ。それ以外は寝るか、ネットサーフィンで時間を潰した。昨日分の日記も書いた。一日はあっという間で、いかに学校がつまらないものになったか分かる。

 宵月には風邪をひいたことをお知らせした。お見舞いに来るということはなかった。その代わりに、治ったらデートに行くことになった。美術館に行きたいらしい。宵月は予想外にも文化系女子だ。そう考えると、本当に俺のことを好きなのかもしれないと思ってしまう。申し訳ないことだ。

 俺はなんとなく自分が弱くなっていることに気付いた。それが風邪のせいだと分かっているが、それでも孤独を感じずにはいられなかった。他の誰からもメールは来ず、つまりは誰からも必要にされていない。死にたくはないが、昔の楽しかった思い出が走馬灯のようによみがえり、苦しくなった。

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