田中と先生

 三学期が始まるとノートの貸し借りがきっかけで、隣の席の田中と仲良くなった。彼はバスケ部だった。身長は一八八センチあるらしく、彼女は一個下のバレー部員ということを聞いていないのに教えてくれた。

「連織も彼女いるんだろ?」

 彼は顔も悪くない。割とモテるような気がする。

「いるよ」

「めっちゃ可愛いって本当?」

 おしゃべりをもう少し控えればさらにモテるだろうが、その気はないらしい。

「可愛いよ」

「写真か何かないの?」

 俺は見せるかどうか迷ったが、見せて得はないと判断した。

「ないよ」

「うそぉ」

 彼は大げさに机に倒れた。

「じゃあさ、今度、ダブルデートしようぜ」

 俺は笑った。突拍子もない。呆れるなあ。そう思いながらも愉快ではあった。

 そんな俺が珍しいのか、何人かの女子がこちらを向いた。紅根も目線をよこした。もちろん、あの件はどうなっていると言っている。進捗なしの報告は怒りの導火線に火をつけたようだった。導火線の長さは分からない。

「そういえばさ」と田中は声を抑えた。「紅根さんとデートしたって本当? 去年」

「したのかなあ? お茶しただけだよ」

「それは、どっちかが、つまり連織か紅根が」

 彼の言わんとしていることは分かった。

「お互い恋愛対象じゃない」

「じゃあなんで?」

「デートは冗談で、ちょっと人を紹介してもらっただけ」

「彼女?」

「違う」

 4限目の国語がもう少しで始まりそうだ。

「じゃあ、誰?」

「香月っていうやつ。男」

「ああ、そうなんだ」

 意外にも理由は聞いてこなかった。俺なら気になるが、彼は女にしか興味がないのかもしれない。

 国語の授業が終わると田中は購買へと走った。目標はメンチカツサンドかコロッケサンド、それがなければ焼そばパンだった。一度も取り逃がしたことはない、というのが彼の自慢らしい。持ってきた弁当は2限目と3限目の間に食べ終えていた。

 俺は料理に目覚めた弟が作った、オムライス弁当を食べた。ハート型のケチャップということはなく、兄と書かれていた。正直なところケチャップの量が足りない。

 田中は昼飯を食べ終えるとそのまま寝た。

 同級生のざわめきに蓋をするように俺はイヤフォンを付けた。あいつに教えてもらったパンクバンドの歌詞は、今もところどころしか聞き取れない。

 ああ、もうお前はいないのだ。俺はライブハウスに一人、取り残されている。思わず溜め息を吐く。空気は明るいのに、酸素は暗闇だ。

 どうだ、少しは歌詞っぽいか? ばかやろうが。

 その後も俺の気分は晴れず、早くも2月に入った。インフルエンザの予防接種をしたとかしないとか、田中とどこかに消えていくだけの話をしながら過ごしていた。そんなときに俺は担任に呼び出された。授業態度もよく、成績も悪くない。呼ばれた理由を見つけるとするならば、性生活か、友達のことだろう。

 放課後、担任は指導室へ俺を連れて行った。指導室に入るところを下級生の女子に好奇の目で見られたが、何もしていないという反論はしなかった。俺はどこか疲れている。最近は宵月とも会っていない。

 指導室には何か月ぶりに入っただろか。模様替えはされておらず、簡素な長テーブルと椅子しかなかった。なんとなく薬品臭がする。廊下よりも寒い。

 パイプ椅子に座り、担任と対面すると「元気か?」と、どうでもいいことを聞いてきた。

「はい。元気です」

「最近、田中と仲いいみたいだな」

「隣の席なので」

「そうか」

 俺と友達は席が離れていた。でも仲がよかった。

「実は、本を返してほしいと電話があってな」

 本? あ、本。あいつに本を返すのを忘れてた。いや、あいつじゃなくて、親か。

「ああ、借りっぱなしでした。返します」

 担任は頷いた。

「俺が預かって返してもいいけど、どうする?」

「自分で返しに行きます。いつがいいんでしょう」

「早めがいいと思う。でも、任せるよ」

 俺は本に未練があるだろうか。

 考えてみたが、もう調べ尽くしたはずだ。返さない理由はない。

「明日の放課後にでも返しに行きます」

「分かった。連絡しておく」

 会話が終わると一層、薬品が臭った。鼻水が出てきそうになり、鼻をすすった。

「何か分かったか?」

 思考力が低下しているせいか、風邪の症状を感じているせいか、担任が何を言っているのか、数秒分からなかった。

 ようやく友達の死の理由のことだと分かった頃には、先に話されていた。

「俺には分からなかった。何かに悩んでいる様子を少しも感じられなかった。たぶん、シグナルがあったはずなんだ。でも、分からなかった。亡くなってから、もっと話しておけばと思ったよ。調べたとまではいかないけど、いろんな人に話を聞いた。カウンセリングの医者に話も聞いたし、中学の頃の担任にも会った。おとなしく真面目な生徒で数学が少し苦手だったらしい。それは分かっていた。でも、得意科目は美術と音楽だったって知ってたか? 普通科にはその2教科はないから、俺は知らなかった。いや、言い訳だな」頭を掻いて、担任は続けた。「連織以外のクラスメイトにも何かなかったか聞いたけど……。分からんかった。連織と仲がいいと言うだけだ。お手上げだ」

 そう言いながら、手は上げなかった。テーブルの上に手を出し組んだ。ごつごつした指には婚約指輪があった。たしか学生結婚だったはずだ。何で知っているんだ。たぶん、授業の合間に女子の質問に答えたんだ。べらべらと個人的な話を喋ったんだ。田中みたいに、聞いていないことも話したんだ。馬鹿みたいに、秘密なんてないみたいに。なんで友達より、この人のどうでもいい情報の方が先に出てくるんだ。

「自分も分かりませんでした」俺は何も考えず話し出した。「なんで、あいつが死んだのか。何に悩んでいたかも、謎のままです。本を借りて、中学時代の友達に会って、話をして、結局、分かりません。つまり、あいつは自分の都合で死んだんです。俺たちが苦しむことなんか想像できなかったんです。そのくらい追い詰められてたんです。追い詰められてたのに、俺は何もできませんでした。何も気付いてやれず、あいつも俺に何も相談してきませんでした」

 そうなんだよ。

「友達なのに何もですよ。俺はそれが」

 目が熱かった。

「俺はそれが悔しいです。俺はあいつのために何もできませんでした。あいつの人生から、俺は外されたんです」

 俺は鼻を啜った。風邪か感情のせいか分からなかった。いつの間にかテーブルの表面を見ていて、ここから逃げ出したくなった。

 そんなことはない。

 そんな安易な言葉は飛んでこなかった。ただ沈黙があった。

 俺は恥ずかしさをこらえて顔を上げた。担任はハンカチを手に泣いていた。

「何、泣いてるんですか」

 目を赤くした大人を見て、俺は驚いた。この人は正直な人だ。先生としてはどうかと思うが、下手な言葉をかけられるより、助かった。

 俺は友達から梯子を外された。もしかしたら死んだのは俺の方かもしれない。死ぬのは悔しいな。なぁ、なんとか言えよ、友達だったんだから。俺は部外者にはなりたくないんだよ。

「明日、本返しに行きます」

 胸の奥から込み上げる感情を抑えながら、かろうじて言うと、先生は「わかった」と答えた。

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