3人と糸口の消失
土曜日に、宵月とデートをした。印象派の絵は響かなかったが、彼女のきれいな顔を見られたのはよかった。そんなことを言うと、「ありがとう」と照れられた。その顔もかなりかわいかった。
だんだんと宵月のことが好きになっているかもしれない。いつかフラれるのに、俺はバカだ。しかし、感情に嘘はつけない。傷付く準備はまだできていないが、覚悟はしている。もしくは、この感情も風邪の後遺症だろうか。
久しぶりに恋人と寄り添ったわけだが、その日はキスだけで終わった。舌を絡めるくらいに、お互い性欲がなかったわけじゃないが、俺はまだまだ本調子ではなく、彼女は少し風邪気味だった。
次に会うのはバレンタインデーにして、夕方前には駅で別れた。手作りのチョコをくれるらしい。
俺は寂しさと虚しさを感じながら、駐輪場に自転車を取りに行った。そのまま家に帰るのは、酷いことになりそうだった。例えば、泣いてしまうとか。
仕方なくショッピングモールへと向かった。ノートと何か特段、必要のないものを買いたかった。ショッピングがストレス解消になるという人の気持ちが分かる。得ないと失ってしまう。
マフラーに唇まで埋めながら、自転車を漕いでいると、少し気分がよくなった。かさぶたや角質が、ぼろぼろと落ちていき、きれいになった気がした。頭も軽くなり、突然、世界が冷静になった感覚を覚えた。方程式が分からなくても答えが分かり、顔に張り付く冷たい空気は運命だった。
香月くんに会わなくては。
考えずとも、次の選択肢が出てきた。
俺は口から熱い息を吐き、ペダルを漕ぐ力を強めた。
ただ、彼が今日、アルバイトをしているかは分からない。アルバイトを続けているかも分からない。でも、探さなければいけないし、待つ必要があれば何時間でも待つ。
俺は自転車を停め、一目散にハンバーガーショップに向かった。フードコートにある、その店のカウンター前には多くの人が並んでいて、店の奥は見えにくかった。彼はカウンターにはいなかった。でも彼がレジを打っているのか、ハンバーガーを作っているのか、俺は知らない。俺は待たなくてはいけない。
紅根とお茶をしたカフェで待とうか考えたが、見失うといけなかった。
俺が来たときがピークだったのか、5分から10分も経つとだんだんと人はまばらになり、店のキッチンスペースまで見通せるようになった。しかし、香月くんはいなかった。
もしかしたら、もっと奥にいるかもしれない。何か頼んで、店員さんに聞いてみるか。いや、教えてくれるだろうか。とりあえず、聞いてみるしかない。
そう思って一歩踏み出したが、自分がバカなことに気づいた。
そもそも香月くんはバックヤードを通って、従業員入口から出るだろう。
世界の全てが分かったつもりだったが、そんな時間はもう過ぎ去ったようだ。俺は通り道だろうカフェの前まで急いで向かった。
カフェの入り口には、クローズドの表札がかけられていた。張り紙もあり、そこにはマジックで黒々と臨時休業と書いてあった。店内の照明は消えていて、休んでいるというより、死んでいるようだった。
そこに突っ立って、俺は待った。通り行く老若男女が怪訝な視線を送ってくるのは気のせいだろうか。
さすがに30分も立っていると足が辛くなった。だが、周りにベンチはない。携帯電話で時間を確かめるのも苦しくなってきた。目の前を通る人に香月くんはいない。
立ち続けて40分、45分、50分になる頃に、俺は諦めた。駐輪場に向かって歩き、途中にある本屋をなんとなく横目で見た。
香月くんだった。香月くんが紺色のコートを着て、そこにいた。
俺はほぼ直角に曲がり、足を早めた。邪魔するものは何もないのに、人垣を掻き分ける気分だった。
「香月くん」
俺が呼びかけると、読んでいた本から顔を上げた。髪は少し長くなっていた。
彼は俺の目を見た。しかし、何かを逡巡し、本を平棚に戻して無言のまま立ち去ろうとした。
「ちょっと話したいことがある」
俺は側頭部に話しかけた。香月くんは歩き出していた。
「聞きたいことがある」
香月くんはそれを無視して、本屋の出入口に向かう。
怒っているのか、聞かれたくないことがあるのか。どちらにしても俺はうざったい存在だろう。何がいい。何が彼を立ち止まらせるだろう。
通路を歩き、もうすぐ建物から出る。冬の寒さが前からやってきている。俺は彼の後頭部を見ている。
駐輪場に来て、彼は自転車の鍵を開けた。ホイールの回転を止める輪っかが外れた。
「付いてくんなよ」
吐き捨てられた。警戒されている。当たり前か。しかし、糸口でもある。だしにするのは嫌な話題だが、香月くんの興味をそそる事柄はこれしかない。
「宵月さんのことだけど」
ようやく、俺の顔を見てくれた。間を空けるのはよくない。
「別れると思う」
俺は心の中で、いつか、と付け加えた。嘘じゃない。俺たちは、いつか別れる。
「だから?」
ごもっともな意見だ。
「宵月さんは、俺に隠し事をしていて、それが気になるんだ。でも、話してくれない」
「それがなんだよ」
分かる。分かるよ。意味のない会話にイライラするよな。俺が知りたいことはひとつなんだ。
「なんで、あいつは自殺を選んだ?」
真っ直ぐに見られた。外灯のおかげで彼の輪郭までしっかり見える。目の中には怒りか驚きか、悲しみがあるように感じる。いずれにしろ俺を見てくれている。
「知らない。それが実季と何の関係があんの?」
「友情という本は誰が教えた?」
「友情?」
「読書家でもない、あいつの部屋に珍しくあった本のタイトルだよ。初恋とかウェルテルとかもあった」
「それ、あいつが買って読んだの?」
「たぶん。宵月さんが教えたと思ったんだけど、違うらしい。その質問したら、俺は部外者だと言われたよ」
ハンドルを握ったまま、香月くんは下を向いた。瞬きもせず、考えていた。
風が舞う駐輪場は長く居続けるのには辛かった。病み上がりにとってはいたくない。香月くんは、見た目は大丈夫そうだが、内面は分からない。宵月と俺のせいで苦しんでいるのかもしれない。
「香月くん。香月くんは死ぬなよ」
「え?」
「自殺なんてするなよ。助けが必要なら誰かに言った方がいい。俺はあいつを助けられなかったし、助けも求められなかったから。まぁ、だから部外者なのかもな」
香月くんはまた黙った。だが逃げようとはしていない。
「お前は実季を……。いや、俺は実季にフられた。お前を恨んでいないと言えば嘘になる。お前さえいなかったらと思う。でも、遅かれ早かれ実季はいなくなったかもと今では思うし、結局は俺がだめだったんだ」
香月くんは唾を飲んだ。
「別れ話をしにきて、俺をフった実季のことはそもそも恨んでいない。因果応報な気がしてさ」
「因果応報って?」
香月くんは首を振った。
「お前は部外者だよ。だから俺も何も言わない」
「俺は友達だ。部外者じゃないだろ」
「どっちだよ。さっき部外者かもって言っただろ。とにかくお前は部外者だよ。お前は外見もいいから人の心を読むことを蔑ろにしてきたのかもな」
そうだろうか。
「図星かな」
黙っていると、ナイフのようにも見える彼の言葉と視線が、俺に向けられた。
「とにかく、部外者だよ。もっと優しく言うなら、部外者であってほしいんだよ」
香月くんは自転車に乗った。
「お前は友達だよ。でも、俺と実季はもう違う」
人の心を読めない頭で考える。やはり、3人の間に何かあったんだ。
「もう俺に近づくなよ。実季も俺とは関係ない。終わったんだ」
彼は自転車に乗って去っていった。一度も振り返らなかった。俺も背中にかける言葉はなかった。
糸口がひとつずつ消えていく。あいつとの接点が消えていく。あいつが少しずつ消えていく。
この世の理は、頭の中からなくなった。最初からなかったのかもしれない。
俺はショッピングモールに踵を返し、フードコートに向かった。途中、親に晩ご飯はいらないとメールをした。
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