第44話 卒業式 その2

「な、なんですかもう!?」

「いや」


 でも、風邪じゃない。だって俺も似たようなものだから。


 妹も緊張してる……、そう思うと、ふっと自分の熱が下がっていく気がした。


 冷静になると、今の状況は悪くない。

 遠回りして自宅に戻ってきたのは、住宅街なので人目につきにくいし、閑静な場所だから、とも言える。偶然の産物だが、ここを逃せばもう、タイミングなんてないかもしれない。


 だから、


 覚悟を決める。


「天色……、俺は、お前のことが――」



 ガサガサッ、と隣の家の庭の方から、茂みを揺らす音と共に、塀を乗り越え、覆面黒服の男が俺たちの前に現れた。

 目が合う。手には包丁、一振り。


 そして再び茂みを揺らす音。

 塀を乗り越えてきたのは、男を追っていたのだろう、警察官だった。


「チッ」


 男が近くにいた妹の肩を掴んで引っ張る。


「待っ――」


 手を伸ばすが、指先が妹に触れる前に、視界が赤く染まった。

 ぐちゅ、と体内がかき混ぜられる感覚。灼熱が、全身を駆け抜けた。


 腹部を見ると、深々と包丁が突き刺さっている。


「……え」


「――兄さんッッ!!」


 膝が落ちる。

 かろうじて手をつくと、ぴちゃ、と水溜まりがあった。


 こんなところに水溜まりなんてあったっけ?


 さらに広がっていく水溜まりは、空の青さを映さないほど、真っ赤だった。


 俺の……血?


「兄さんっ、兄さんっっ、兄さんッッ!!」


 妹の声が聞こえる。

 でも、段々と遠ざかっていく。


「黙れガキ! いいからおとなしくしろ!!」


「その子を離せ! すぐに増援がくる、お前は逃げられない!!」


「クソがァ!!」

「待てっ、そっちは――」


 落ちかけた意識の中で最後に見えたのは、飛び出した覆面黒服の男が、道路に飛び出した際に通り過ぎた車に、撥ね飛ばされたところだった。


「……天色……?」


 男に抱えられていた妹も、一緒に。


 しばらくして、警察官が屈み込んで、俺の瞳を覗き込む。


「……妹さんも、君も……本当に、すまなかった……」


 警察官のそんな声が聞こえ、俺のまぶたが、ゆっくりと下ろされた。


 ―― ――


「揃って死んじゃったね、兄さん」


 目が覚めると、目の前に真っ白な装束を身に纏う妹がいた。

 ……天国? と勘違いしてもおかしくない、真っ白な世界だった。


 大きな湖があるものの、それ以外は地平線の先までなにもない。


 妹は湖に足をつけ、ぱしゃぱしゃと遊んでいる。


 ……元気そうに見える。


「天色……怪我は……」

「だから、死んじゃったの、わたしたち。怪我なんてしてないよ」



 怪我どころじゃないって、と妹は笑う。


 俺も腹部に痛みがあったはずだが、見れば傷口もない。

 妹と同じく白い装束を着ているようで、赤色なんて見当たらなかった。


「ここは……?」


「天国じゃないみたい。あ、でも地獄ってわけでもないよ?」


 それはそうだ、俺はまだしも、妹が地獄に落ちるはずもない。

 天国でも地獄でもなければ、じゃあ本当に、ここはどこだ?


「神の世界です」


 と、背後から声をかけられた。


 振り向くと、すぐに顔をぐいっと元に戻された。

 乱暴な手つきだけど、果物みたいな甘い匂いと柔らかい指の感触で、女性だと分かる。


 一瞬だけだが、姿もはっきりと見えた。


 ただほんの一瞬なので、俺の見間違いの可能性もある。


 輝く肩までの金髪と、肌が透けて見える、レースの衣服を纏っていた……、下着をつけていなかったので、隠すべきところが上下ともに見えていた気がするけど……見間違いだろうか。


「神様……ですか?」


「正確には女神、です」

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