第13話 懐と喉元

 扉を開けて、僕は中に入る。

 妹はちょうど目を瞑っていたらしく、

「ん? お母さん、なんか用?」と僕を母さんと勘違いしているようだった。


 ネタバラシをしてもよかったが、悪戯心が生まれてきた。

 なにも言わずに妹の後ろを通り過ぎて、浴槽に浸かる。

 ……僕が入った時には浴槽にはなにもなかったはずだが。妹はわざわざ水を貯めたのか……、水道代がまだ暑いこの時期なのに高いのは、妹のせいだったのか、と謎が一つ消えた。

 ま、母さんが文句ないなら僕もないけどさ。


「お母さん?」


 洗顔の泡を流し切らずに、目を開けて状況を確認する妹。


 ばっちりと目が合った。

 気まずい時間が流れるが、とりあえず、ぽかんとしている妹の顔を見ていることに集中することに決めた。変化を見ているのが面白い。

 戸惑い。しかし状況が分かるにつれて、表情を崩し、息を大きく吸い込む――って、まずい。


 浴槽から上半身を出して手を伸ばし、口を塞ぐ。


「きゃ――むぐぅっ!?」


 妹の叫び声を途中で遮断。

 あの息の溜め方は、近所にまで響きそうなものだったのでひやりとした。

 浴槽に浸かっているのにかかわらず、ひやりとした――、

 本当にヤバいことを感じ取ったのだろう。


「むぐぐぐ」

 と、口を塞がれながらも両手を使って暴れる妹。


 その攻撃の一部が、こめかみに直撃し、僕の手が離れてしまう。

 妹は解放されて、言葉が撃ち出されてしまう――。


「ぷはあっ!」


 大げさに息を吐き、呼吸困難から脱出できた妹は、シャワーの音に負けない声で言う。


「な――なんでお兄ちゃんがここにいるのよっっ!?」


 叫びは両親を起こすほどではなかったが、浴室には響いた。


 僕しか見えていないらしく、妹は自分の髪――染めた茶髪――から、垂れてくる泡に意識が向いていなかった。なので泡が目に入ってから、初めて危険に気づいたらしい。


「うぅ」

 と、小さな子供のように目を押さえて、軽いパニックになっていた。

 全裸の姿でもがく姿は見ているのがつらくなる時もあったが、傍観を決め込んだ。


 一応、「シャワーを使って洗い流せ」と助け舟は出してあげたが。


 反抗する意思は持ち合わせていなかったらしく、妹はすぐにシャワーに頼った。


 髪はタオルで巻いて、まとめていたらしい。

 首元が見えて、すごく色っぽい。


 そして、首元はすぐに髪で覆われることになった。


 顔から被った水のせいで、タオルが落ちてしまい、

 まとめられていた髪の毛が自由になり、落下。

 二の腕までを包む髪の毛が、妹をガードする。


 なにから守るのか――、僕の視線からだとしたら、じっと見つめていたことがばれてしまっていたことになる。まあ、反省はしないけど。


「ふう」

 と一息ついた妹。

 

 どうやら準備はおーけーということらしい。

 残った泡も全て洗い流し、目も異常から抜け出したみたいだし。


 そうなると、妹の行動を阻むものはなにもなくなったわけなので、これから責められるのだろうなあ、と覚悟しておいた。

 次の瞬間にはもう言葉の連射がくると予想していたが、しかしこなかった。


 妹は俯いたまま、両手で体を包む。

 顔を真っ赤にしているのは、温度上昇のせいかと思ったが、違うだろう。

 僕と目を合わせないようにしている――見て分かるほどに照れている。


 ……なるほど。

 どうやらパニックから冷静になったことで、今の自分の状態のまずさを理解したらしい。


 それもそうか。風呂に入っている。――それはつまり、全裸ということなのだから。


 家族とは言っても男と女だ。

 しかも妹は年頃――、男に自分の裸を見られることを、良しとはしないだろう。


 体を包めるタオルがない状態では、自分の手で体を包むしかない。

 その状態が特別、色っぽく見えていることに、本人は気づいていないんだろうなあ……。

 無自覚で無防備過ぎる。


 僕の前だから良かったものの、

 他の場面だった場合すぐに襲われているだろうよ、この構図は。そしてその表情は。


「あ、あ……」

「あ?」


 妹はやっと僕の方に視線を向けてくれた――と思ったら、

 口は開いたままで、言語機能は、まともに動作していなかった。


「目、目……っ」

「目? 目がどうかしたのか?」


「じっと見つめてないで目を逸らしてよ馬鹿っ!」


 シャンプーの容器を投げられ、頭に直撃した。

 がん、と鈍い音がして、僕は頭を後ろに逸らす。

 そして妹は意図していなかっただろう――、

 僕は後頭部を壁にぶつけた。自動で二コンボ目を喰らってしまったわけだった。


 二発目は自爆だったけど、だがそんなことはどうでもいい。


 そして僕は脱力した――してみせた。

 演技で気を失ったようにみせた。


 すると妹が、「だ、大丈夫?」と心配そうに覗き込んでくれたので、

 計画通り、と口内で声を含ませた。そして覗き込んだ妹の手を掴み、引っ張る。


「きゃあっ」と悲鳴をあげて、妹が浴槽の中に飛び込んだ。

 そして両手を僕の肩において、密着してくる。

 顔の前――、ミリ単位で妹の顔が近くに存在している。


 確かに引っ張ったのは僕だけど、まさかここまで近づくとは思っていなかった。


 意外だが、取り乱すほどではない。

 体重が軽い妹の体を――下から上までを一瞬で見てから――持ち上げて隣に下ろす。

 その間、されるがままの妹は無抵抗だった。

 この無抵抗の反動が、今後、こなければいいのだが、と思った。


 狭い浴槽ではないので、二人で入ることは苦痛ではない。

 一人で入るよりは狭い、と言った具合。

 別に不満はない。僕にとっては満足でしかなかったが。


「――って、いやいや、なんか誤魔化されそうだったけど、なんでいるのよ!?」


 妹が今更な文句を突きつけてくる。――ちっ、そこに戻るか。


 もう忘れてもいいことだとは思うけど、無理か。

 忘れる事は無理か。今の状況、最大の謎だと思うし――妹にとっては。


「なんでって……親密になるため?」


「こんな姿を見られたら、好きになるどころか嫌いになると思うんだけど」


「嫌いになったのか?」


「…………別に」

 と、たぶん否定したのだろうなあ、と、妹を見てそう思う。


 はっきりと言わないところが妹なのだなあと最近は分かってきた。

 しかしはっきりと言わないところは、僕も似たようなものなので――、

 ああ、兄妹なんだなあとも思った。


「……それで、なんの用?」


 出しっぱなしのシャワーの中、妹の声がしっかりと聞こえる。


 理由がなければきてはいけないのか? と聞こうと思ったが、

 理由がなければきてはいけないだろうと気づいて、出しかけた言葉を引き戻す。

 この場所でなければ使えた言葉ではあったが、

 理由もなく妹が入っている浴室に飛び込むなど、殴られても文句は言えない。


 妹の裸を見たのだ。

 それ相応の理由がなければ、納得しないだろう。

 理由があったところで、妹は結局、殴ってきそうなものだったが、まあいいや。


 しかし――自覚していながらも理由は考えていなかった。

 いや、理由は親密になりたいから――だったが、

 思えば他にも方法はたくさんあった。

 わざわざ浴室で一緒になる必要性はまったくない。 


 だけど、こうして一緒になってしまったのだから、

 他の方法があったなどと、今更に後悔するのは無駄だ。

 ――というか後悔とかしていないし。


 もっと近づきたかった。


 そして今、こうして物理的には近づけたことになる。


 心の方はどうだ? 

 妹はさっき僕のことを――裸を見た僕のことを、別に嫌いではない、と言った。

(実際は、僕の質問に向けて「別に」と言っただけだったが)

 これは近づけている、と言えるのではないか? 

 少なくとも嫌われてはいない――これだけは確実だ、と言える。


 ならば――と。僕はここで選択をする。


 この質問をし――もしもその質問の答えを拒否された場合、後々に残るのは、暴くことの困難さだ。僕が妹を怪しんでいる――それが妹に知られた場合は、無意識に、妹は警戒のレベルを上げる。薄かったガードが、厚くなるだろう。


 だが、ここで聞いて、

 信頼を充分に得ることができていれば、妹は話してくれるかもしれない。

 心に抱える病のような悩みを、打ち明けてくれるかもしれない。


 これは賭けだ。


 有り金の全てを注ぎ込んだ、一世一代の賭けだ。


 乗るも降りるも僕次第――。


 そして僕は、


「なあ――遥」


 乗った。


 駆け出した声は止まることなく前に進む。

 核心に向かうレールの上を走る。


 ブレーキはかけないどころかそもそもで存在しない。

 この選択をしたところからもう既に、走り切ることは決定されているようなもので――、

 運命とでも言うのだろうか。


 運命は回り出す。


 妹は僕の声に反応し、僕を見る。

 見つめられていると話しづらいが、もう止まれないので関係なかった。


「……夕方、僕が死にそうな顔をしていたこと、覚えてる?」


 こくんと頷く妹。声を出してもいいのに、しかし出さないのは、空気を読んで全てを僕に任せてくれているから、なのかもしれない。頷いたのを確認し、続ける。


「あれは、さ――遥の事を考えていたからなんだ」


 ばしゃりと音を立て、隣で妹が、鼻まで浴槽に浸かっていた。

 息、できないだろうに……。すぐに気づいて鼻だけは出したようで安心した。


 ここから先は――、なんて悩む必要はもうないので、引っ掛かることなく言葉として出す。


 ここまで言って引き下がれるか。


 最初はほんの些細なことで、ここまで気になることではなかった。

 しかし積み重なった違和感は、おもりとして僕の心に圧し掛かる。

 そして、斬子とのやり取りで、妹の抱えるなにかの不穏にさに気づく。


 やはり、見て見ぬ振りとか、きっと大丈夫だろうとか――できるはずがなかった。


「遥は反抗期だから、と言った。反抗期だから様子がおかしいんだと言った。

 でも――おかし過ぎるんだ。違和感の塊なんだ。

 反抗期だと言われても、納得できないほどの、誤魔化せないところにまできているんだ。それを考えていて、どうにかしたいと考えていて、今日は意識が、現実から遠のいていた。

 たぶん、遥はその時の僕に出会ったんだと思う。僕にはその時の意識がないから、どうやって遥に会ったのか、とか、分からないんだけどね。それほど、考えていたってことなんだ」


 妹は黙って聞く。シャワーの音があって良かった。

 水道代のために止めておこうと考えなかった自分を、今日だけは褒めてやりたい気分だった。


 今の会話に、もしも音がなかったらと考えると、ぞっとする。妹から聞く答えが怖過ぎて、なにも言えなくなってしまうかもしれなかった――だけど、そんな最悪な事態は招かれない。


「――斬子にも相談した。

 遥の悩み事は、なんだろうって……、隠している事があるとして、それは一体、なんなんだろうって。……答えたくないからこそ、隠し事なんだろうと思うけどさ、やっぱり裏でこそこそするよりは、こうして聞いてしまった方が正々堂々としているし、一番、良いと思ったんだ。

 だから、裸の付き合いで今、こうしてここにいるわけだ」


 僕は妹の方を向く。

 妹は、水面を見ているままだった。


「遥は、一体なにを隠しているんだ?」


 ―― ――


 そして、結局、妹から答えを聞くことはできなかった。


 浴槽を無言で出て、シャワーの雨を通り過ぎ、浴室から出る時の妹の最後の言葉。


 僕のこの選択は、完全に敗北した――ということになる。

 首を絞めるを越えて、首を潰してしまったかのような、最悪の状態まで堕ちる。


 妹は言った。


 浴室の扉を閉め切る一瞬の時間――、その隙間に捻じ込むように発せられた言葉。


 僕は、よく覚えている――。



「お兄ちゃん――大嫌い」



 その言葉は、これ以上、探りを入れるな、という警告だったのか、それとも――。


 信頼している兄貴に疑われている――ということに、

 ショックを受けての、本気の感情だったのか。


 浴槽に浸かり過ぎてのぼせた僕の思考回路では、

 答えはいつまで経っても、出ることがなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る