第23話 ずっと好きだったから 3


 掃除道具を片付けて音楽室を出る頃には、とっぷり日が暮れていた。


 じゃんけんで負けた俺は焼却炉までゴミを運ぶ羽目になり、とぼとぼと校舎の外周を歩いていた。


 煤塗れの焼却炉にゴミ袋を放り込み、なんとか任務を終える。


 一人きりの校舎裏は静かだった。雑音がないここにいると、ひどく心が安らぐ。俺は両腕をあげて体を伸ばすと、深呼吸をして、空を仰いだ。


 頭上には夕暮れ空が広がっていた。その下に屋上のフェンスが見える。ふとフェンス際に人影を見つけ、俺は驚きに目を見開いた。


「え……天野さん?」


 長い髪が屋上の風になびいている。天野さんはフェンス越しにじっと街並みを見つめていた。


 一人きりで、こんな時間に屋上で——何を?


 そんなことあり得ないはずなのに、恐ろしい想像がよぎる。俺は急いで、スマホを取り出した。


 メッセージアプリの音声通話ボタンを押す。屋上の影が何かに気づいたように、手元を見た。


『あ……もしもし? 水無瀬くん?』


「ご、ごめん、急に。天野さん、もしかして今、屋上にいる?」


『えっ、どうして分かるの?』


「下見て。焼却炉のあたり」


 天野さんはフェンス越しに眼下を覗いた。そして俺を見つけ、ひらひらと手を振った。


『わ、偶然。そっか、掃除当番だっけ』


 明るい声に安堵の息を吐く。どうやら俺が心配していたようなことはなさそうだ。


「そんなところで何してるの?」


『えっと……ちょっと黄昏れてた。あはは』


 口調に空元気が混じっている。俺はついに見て見ぬ振りができなくなり、思い切って言った。


「あの、的外れだったら、あれなんだけど。天野さん、何か悩んでる?」


『え?』


「それって……俺が聞けること?」


 しばしの沈黙が流れた。そして天野さんは小さく呟いた。


『あのね』


 電話越しにも、躊躇いが感じられる。


『水無瀬くん、あのね……』


 天野さんはそれきり喋らなくなってしまう。それでも俺は辛抱強く次の言葉を待った。


 すん、と鼻を鳴らす音が聞こえた。天野さんはやがて絞り出すように言った。


『もし良かったら、今から教室で会えないかな。聞いて欲しいことがあるの……』


「分かった、すぐ行く」


『ごめんね、水無瀬くん。ごめんなさい……』


 消え入りそうな声を残して、通話は途切れた。俺は掃除の疲労も忘れて、昇降口へと駆け出した。




 誰もいない教室は、空虚な音で満ちていた。差し込む夕日は傾きが強く、もうすぐやってくる夜の予兆を感じさせる。


 天野さんは教室の真ん中でぽつんと佇んでいた。俺は荒い息を整えながら、まるで薄氷を踏むように、教室へ足を踏み入れた。


 足音に気づいた天野さんが俯きがちだった顔を上げる。夕日に照らされた表情は今にも泣き出しそうだった。


 ちょうど机二つ分の間を開けて立ち止まる。何か言わなければと思い、口を開く。


「天野さん、あの……」


 続く言葉が出てこない。すると俺が戸惑っているのを察した天野さんが、精一杯の微笑みを浮かべた。


「ありがとう、水無瀬くん……。迷惑かけてごめんね」


「迷惑だなんて、そんな」


 気まずい空白が俺と天野さんの間に横たわる。何も言わなくても天野さんの迷いが手に取るように感じられる。


 これから天野さんが何を語るのか、怖くないと言えば嘘になる。けれど俺には聞く義務がある。こうして彼女に頼られた以上は。


 伏し目がちだった視線を天野さんに戻す。天野さんもまた俺を真っ直ぐ見つめていた。


「……これから言うこと、気を悪くしたらごめんなさい」


 その一言でなんとなく想像がついた。


 やっぱり天野さんが俺に親しくした理由は……。俺は気づかれないよう、拳を握りしめる。


「本当に、ごめんなさい。許してなんて言わないけど、謝らせてほしいの」


 固唾を呑み込むと、喉が酷く痛んだ。呼吸が浅く早くなるのを止められない。馬鹿野郎、と俺は自分を叱咤した。天野さんの方が辛い。きっとそうなる。だからせめてその気持ちだけは受け止めないと。


 天野さんはぎゅっと目を瞑った。そして開いた瞳には何かを覚悟したような光が灯っていた。ひたむきで真剣な表情は見惚れるほど美しい。


 やがて自分の心臓の音が強く響きだした頃、天野さんは言った。



「水無瀬くんは、御子柴くんと付き合ってるんだよね……?」



 ——不意に、夕日が翳った。


 暗く閉ざされた視界が、ぐらりと揺らぐ。


 この世の終わりのような強い耳鳴りが聴覚を遮った。けれど、耳を塞ぐことを許さないと言わんばかりに、一瞬にして通り過ぎる。


 どくどくと脈打つ鼓動。遠くから響く運動部員の声。天野さんの言葉。


 そして、自分の血がさあっと引いていく音を聞く。


「え……?」


 やっと絞り出したのはそれだけだった。


 天野さんは自分自身を奮い立たせるように、胸の前で手を握り合わせた。


「ごめんなさい、私、あの日——御子柴くんが倒れた日、どうしても気になって……御子柴くんのことが心配で、みんなが帰っても待ってたの。みんないなくなってから、一人だけなら、お見舞い、できるかなって……思って……」


 息を吸って吐く。そんな簡単なことすら、今の俺は忘れてしまっている。


「日が暮れてから、保健室に行ったの。明かりがついてて、まだ誰かいるんだって思って……でも学校医の先生に怒られたらどうしようって、しばらく扉の前で、迷ってて……」


 聞きたくない、聞きたくない。できればこの場から今すぐにでも逃げ出したい。けど、足どころか全身が動かない。


「聞いてしまったの、二人の言葉……」


 好きだ、と俺は何度も言った気がする。御子柴は俺もだよ、と返事した。


「本当に、そんなつもりじゃなかった。ごめんなさい、水無瀬くん、本当にごめんなさい」


 俺の脳裏に、あの日の記憶がまざまざと甦る。


 保健室を一旦出たとき、確かに何かの音を聞いた。


 あれは、あれは——


「私、秘密にするつもりだった。自分一人の心に留めておこうって……。でも、でもね、私、辛くて。どうしても堪えきれなくて。二人に悪いことしてるのが、耐えられなかった。この一週間ずっと悩んでて……。言わなきゃいいって分かってたのに、どうしても。それにね、私……私っ……」


 ぽろぽろと。天野さんのすべらかな頬から、大粒の涙が零れる。深く俯いた顔を、小さな両手が覆う。


「御子柴くんのこと、ずっと好きだったから……!」


 ——ああ、俺は。


 何を、どこで間違えたのだろう。


 どうすればこんなにも人を傷つけずに済んだのだろう。


 何度も何度も、謝らせて。彼女は何も悪くないのに。


 ただ無垢で、心優しいこの人を欺いた。


 それは、まるで——


 やめろ、と自分の中の誰かが叫ぶ。ここで立ち止まるな、逃げるな。自分勝手な言葉を吐くな。それだけは、絶対に。


「……このこと、御子柴には……」


 戦慄く唇で尋ねる。天野さんが首を振る度に、ぱっと輝く雫が宙を舞った。


「言ってない。もちろん他の誰にも。水無瀬くん、あのね、お願いがあるの。最低なのは分かってるんだけど——」


 天野さんは子供のように手の甲でしきりに涙を拭った。


「私、御子柴くんに想いを伝えたい。結果は分かってるし、それ以上は何も望んでない。けど、せめて、自分の気持ちに自分で決着をつけたい。もちろん水無瀬くんが嫌なら絶対にしない。でも、でも……もし、少しでも考えて、くれるなら」


 つやつやとした黒髪がさらりと下に流れる。


「許して、くれませんか——」


 俺は一瞬だけ目を閉じた。きつい西日が瞼に透ける。


 ゆっくり視界を開き、無理矢理口の形を笑みに歪めた。


「……頭を上げて、天野さん」


 しばらくそのままだった天野さんがようやく顔を上げてくれる。そこには泣き腫らして真っ赤に染まった双眸がある。半ばそれを見ていられなくて、俺は深々と頭を下げた。


「俺の方こそ、嫌な思いさせて本当にごめん」


「そんな、あれは私が——」


「いや、俺達が悪いんだ。許して欲しい」


 天野さんはただしゃくりあげている。俺は気力を振り絞って、笑顔を浮かべる。


「さっきのお願い、もちろん聞くよ。俺は全然構わないから」


「水無瀬くん……」


「結果さ、どうなっても受け止めるよ。っていうかそれしかできないし。それと、こんなこと言う資格ないのかもしれないけど——」


 痛いほど握っていた拳をほどく。不思議と体の強張りがなくなっていた。


「とても勇気の要ることだと思う。その……頑張って」


 天野さんの目から再び涙が溢れた。何度も頷く彼女を、俺は黙って見守るしかなかった。

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