第24話 ずっと好きだったから 4


 帰宅した途端、胃が引き絞られるように痛み出した。


 ああ、よくないな、と思っているうちに痛みは増し、俺はベッドで蹲ることしかできなくなっていた。


「ハルくん、ゆたんぽだよ」


 美海がレンジで温めるタイプの湯たんぽを持ってきてくれた。俺が受け取る前に、美海は布団をまくり、慣れた手つきで俺に湯たんぽを抱かせた。


「あとこれ、いつものお薬ね。お水も置いとくよ」


「ごめん、美海、今日のご飯……」


「うん、レトルトカレー食べとくね」


「悪い」


「なんで? 美海、カレー好きだし」


 美海はにっこり笑って、俺の部屋を後にした。幼い妹の気遣いに自分が情けなくなる。俺は一度起き上がって胃薬を水で飲み下すと、再び横になり、あたたかい湯たんぽを抱きしめた。


 それからどれぐらい経ったのだろうか。薬が効いて少しうとうととしていた。暗い部屋に細い灯りが刺して、人影がベッドのそばに膝をつく。


「晴希、大丈夫?」


「母さん……うん」


 母さんはスーツ姿のままだった。横になった俺の肩を優しくさする。


「今日は何も食べられないかな。ちょっと久しぶりだから辛いね」


「慣れてるから、平気」


「そっか。何かあったら言ってね」


 そっと俺の頭を撫でて、母さんは出て行った。幼な子のように扱われると、遠い昔の記憶が蘇りそうになり、俺は暗闇の中で目を瞑る。


 脳裏には御子柴と天野さんの姿が映っていた。二人は互いに向かい合って、何かを話している。会話の内容までは聞こえない。でもどちらとも真剣な顔つきだった。


 暗がりでスマホのディスプレイが光った。メッセージの送り主は御子柴だった。


『今から会えない?』


 どうなったんだろうか、天野さんの告白は。そう思い当たった途端、胃壁をつねられたような痛みが走った。


 脂汗を流しながら、俺はのろのろと指を動かした。


『ごめん、ちょっと腹壊して、寝てる』


 ややあって、返事が来た。


『大丈夫か?』


『よくあるから。一晩寝れば治る』


『明日、学校来る?』


『多分、行ける』


『じゃあ、家まで迎えに行くから、待ってて』


 了解の旨を送り、そこで力尽きる。


 またしばらくうつらうつらして、起きた頃には、大分腹痛は治まっていた。


 部屋の照明をリモコンでつける。闇に慣れた目に光が痛い。ベットサイドの目覚まし時計を確認すると、時刻は夜十時を回っていた。


 ベッドの上で半身を起こし、コップに残っていた水を飲み干す。せめて風呂には入らないと、とベッドを抜け出ようとした時、スマホが鳴り出した。


 天野游那——その名前にどきりとする。


 でも出ないわけにはいかない。俺はまた痛み出した鳩尾をさすりながら、スマホを耳に当てた。


「もしもし」


『あ……ごめんね、水無瀬くん。こんな時間に』


 天野さんの声はどこか気の抜けたように聞こえた。俺は事態の成り行きを計り損ねたまま、答える。


「いや、いいよ。気にしないで」


『今、少しだけいい?』


「うん」


 わずかな沈黙の後、天野さんは堪えきれなかったように笑った。


『ふふ、あのね、綺麗にフラれてきたよ』


 どこか吹っ切れた口調だった。


 途端、胃の痛みが嘘のように消え、全身を安堵感が包んだ。告白の結果になのか、天野さんが晴れ晴れした様子だからなのか、分からなかったが。


「そっ、か……」


『水無瀬くん、本当にありがとうね』


「そんな、俺は」


『ううん、だって水無瀬くんが許してくれたから、私、きっぱり諦めることができたんだよ』


 辛くないはずがない。御子柴の連絡から時間差があったのは、きっと気持ちの整理をつけていたからに違いなかった。けれど天野さんは気丈に続けた。


『あ、そうそう。御子柴くんにも打ち明けたの。保健室のこと、立ち聞きしてごめんなさいって。そしたら私の告白も冷静に聞いてたのに、急に怖い顔されて』


「……は? 御子柴が?」


『そう。水無瀬にも言ったのか? って聞かれたから、うんって言ったらすっごい目で睨まれた。あんな御子柴くん初めて見たよ』


 俺は呆れて物が言えなかった。御子柴がここにいたらぶん殴っていただろう。


「なんだそれ……あいつに怒る資格ないだろ。天野さん、本当にごめん」


『あはは、まぁ、ちょっと怖かったけど。でも……水無瀬くんのことが本当に大事なんだなぁって思ったよ』


「いや、関係ない。絶対、土下座させるから」


『ええ? いいよぉ』


 天野さんはころころと笑っている。そのあまりの人の良さに、彼女の行く末を勝手に心配してしまうほどだ。


『私ね、水無瀬くんと友達になりたい』


「え、俺と?」


『うん、最初はね、こんな話、急にできないなって思って……もう少し仲良くなってからって、そういう打算? みたいなのがあったんだ。ごめんね』


 突然、連絡先を聞いてきたのはそういう理由だったのか。俺は首を振った。


「いや、そんな」


『共通の話題もないから御子柴くんの話ばっかりしてたよね。……でも、実際の水無瀬くんってとても優しい人だったから。話を聞いてもらった時もすごく心が安らぐっていうか。御子柴くんももしかしたらそういうところが好きになったのかな?』


「そ、それはどうだろう」


『どこが好きとか聞いたことないの? って、ごめんなさい、突っ込んだ話はもっと仲良くなってからだね』


 照れたように笑い、天野さんは続けた。


『水無瀬くんといろんな話したいな。私と……友達になってくれる?』


「……もちろん。天野さんがいいなら」


 電話口から軽やかな微笑が聞こえた。きっと今、天野さんは花が綻ぶように笑っているのだろうと思った。





 翌朝にはすっかり胃の調子が戻っていた。


 俺はいつものようにトーストを食べ、紅茶を飲んだ。最初に母さんを、その後に美海を送り出して戸締りを確認していると、インターホンが鳴った。画面には昨日言っていた通り、御子柴の姿が映っていた。


 エントランスまで降りると、所在なさげに立っている御子柴がいた。


「あー、おはよ、水無瀬」


 声もどことなく覇気がない。俺は適当に挨拶を返すと、先にマンションの自動ドアをくぐった。


 朝の住宅街は冷え込んでいた。やにわに吹いた寒風に肩を竦めていると、御子柴が不意に口を開いた。


「その……怒ってるよな、ごめん」


 俺は隣をちらりと横目で一瞥し、すぐ前に向き直った。


「何が?」


「こないだの保健室のこと。あ、てか、昨日、天野にさ、なんていうか……」


「知ってるよ、全部本人から聞いてるし」


「あぁ、そっか。水無瀬に許可取ったって言ってたな」


 一向に気付く気配がないので、俺は御子柴を睨みつけた。


「保健室のことはいいよ。俺も悪いんだから。けど、お前なんで天野さんにキレたわけ? 女の子ビビらすとか最低だ」


 御子柴はきょとんと目を瞬かせた。


「キレた? 俺が? え、何のこと?」


「天野さんがすごい顔して睨まれたって言ってた」


「い、いやいや、んなことしてねーよ。第一、天野は被害者なんだし、悪いのは全面的に俺だし、睨むなんてそんなこと」


「天野さんがそう感じたんだから、そうなんだよ」


「待てって、水無瀬」


「言い訳無用。今日、絶対謝れ」


 尚も何か言いたげな御子柴に、俺はきっぱり宣言した。


「謝らないなら、金輪際、一緒に昼メシ食わない」


「謝ります」


「土下座だぞ」


「マジかー……」


 御子柴は額に手を添えて、がっくりと肩を落としている。俺はふん、と鼻を鳴らして顔を背けた。


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