第14話 水無瀬くんが風邪引いた

 見事に、高熱が出た。


 昨日、学校から帰ってきてすぐ、喉がいがいがすると思っていたら、夜になって熱が上がり始めた。


 今朝の体温は三八度五分。母さんに学校を休む旨連絡を入れてもらった。美海には「ハルくん、やっちゃったね」などと同情された。


 九時を回った頃、ふらふらしながらかかりつけの内科に駆け込むと、扁桃炎だと診断された。ああ、またか——と、俺のみならず医者もそう思ったことだろう。昔から扁桃腺が平均より大きいらしく、そういう人は炎症を起こしやすいのだとか。


 なんとか家に帰り着き、パジャマに着替えて、自室のベッドに潜り込む。


 ベッドサイドにいつのまにか加湿器が置いてあって、白い水蒸気を吹き出していた。もやもやとしたそれを見つめていると、眠気が襲ってくる。うとうとと重い瞼を閉じた後、夢も見ずに眠り込んだ。


 目を覚ますと、昼近くになっていた。


 体がだるい。熱が下がった様子はなかった。落胆していると、枕脇に置いてあった充電しっぱなしのスマホが目に入った。手を伸ばし、ディスプレイをつける。いくつかラインが届いていた。


『湿度上げといたよ。鍋に雑炊ありです!』


 どうやら母さんが出勤前に加湿器をセットし、さらには昼飯を作ってくれたらしい。熱に浮かされた俺はまだ食欲が沸かない。食べれたら食べる、と返信した。


 もう一つは御子柴だった。そっけないデフォルトアイコンの横に、メッセージが表示されている。


『風邪か? しんどかったら返信不要』


 送信時刻は九時五二分。一時間目の後の休み時間だろうか。俺はのろのろと文字を入力した。


『扁桃炎だって。俺、よくあることだから』


 すると、すぐ既読がついた。あぁ、そうか。今、昼休みか……


『そうなんだ。確か熱出るんだっけ』


『朝は三八度越え』


『うわ』『下がらない?』


『計ってないけど、多分まだ下がってない』


『そっか、あったかくして寝とけよ』


『うん』


 そこでやりとりは途切れた。御子柴は気を遣ったんだろう。でも俺はぼんやりした眼差しで、依然、御子柴とのトークルームを見つめていた。別に少しぐらい大丈夫だから、もうちょっと相手して欲しかったな、などと思いながら。


「いやいや……あいつ学校いるじゃん……」


 俺も学校を休んでるし、今日は教室で昼飯を食っているだろう。きっといつものようにクラスメートに囲まれながら。御子柴には御子柴の時間がある。それを独占したいだなんて言えない。


 もぞもぞと布団を引き上げると、口元までを覆い隠す。さすがに起きてすぐ睡魔はやってこない。俺は瞼の裏に映る御子柴からのメッセージを、幾度となく読み返していた。





「……めんね、晴希——まだ、寝て……かも」


「——いえ。い……すよ」


 廊下からくぐもった会話と二人分の足音が聞こえる。いつの間にかまた眠っていたらしい。薄く目を開けると、カーテンの隙間から差し込む光が赤みを帯びていた。


 背中に取り憑いていた悪寒が幾分ましになっている。俺が緩慢な動作で起き上がると同時に、静かなノックが部屋に響いた。


「……はい……」


 まだ痛む喉から掠れた声を出す。どうやらちゃんと届いたようで、ドアががちゃりと開いた。


 そこにはパンツスーツ姿の母さんがいた。そしてその後ろに頭一つ分背の高い、御子柴が立っていた。俺は目をしぱしぱと瞬いた。


「晴希、起きてたんだ。ちょうど良かった。なんかめちゃくちゃかっこいい子がお見舞いに来たよ」


「なんすかそれ」


 部屋に入る母さんに続きながら、御子柴が苦笑している。俺は両者をきょろきょろと見比べて、まず母さんに尋ねた。


「会社は?」


「早退してきた。晴希のこと話したら、みんな帰ってやれって言うから。もう高校生なのにねえ。でもお言葉に甘えた。美海の学童のお迎えも忘れずにしたよ」


「忘れちゃ困るって……」


「はいはい。あ、雑炊食べた?」


「食べてない……」


「どう? 食べれそう?」


「うん」


「じゃ、持ってくるね。ごめん、御子柴くん。食べながらでもいい?」


「全然いいっす」


「ありがとう」


 母さんがキッチンへ向かう。御子柴は鞄をごそごそとさぐって、クリアファイルに入ったプリント類を取り出した。


「これ、今日の授業のやつな。机の上に置いときゃいい?」


「あー、うん……」


 扁桃腺が腫れても、高熱が出ても、授業は待ってくれない。がっくりしたところで、御子柴が首を傾けて、覗き込んできた。


「熱下がった?」


「えーと、どうだろ……。あ、っていうか」


 俺は慌てて口を塞いだ。怪訝そうに御子柴は小首を傾げている。


「お前、今度の土日、なんかに出るんだろ」


「ああ、芸劇のオケコンね」


「うつったらどうすんだよ」


 御子柴が何か返そうとしたその時、ドアが開いた。


 母さんが小鍋に入った雑炊を持ってきた。火から離れても尚、ぐつぐつと煮えたぎっている。二つのマグカップからも湯気が立ち上っていた。


「はい、どーぞ、粗茶です。あ、クッション持ってきたから座ってね。ごめんね、床で」


「いえ、全然。ありがとうございます」


「ねえ、ところで、御子柴くんって御子柴くん?」


 まったくもって意味不明な母さんの質問に、御子柴は可笑しそうに肩を揺らした。


「御子柴涼馬です」


「そうだよね、やっぱり。ピアニストでしょ? 去年の格付けチェックでピアノ弾いてたよね?」


「弾きました、弾きました」


「あれ、私、当てたんだよ。一回目でピンときた」


「——お母さん、さては才能あるっすね」


「だってー! どうしよう、晴希」


「母さん、うるさい……」


 痛む頭に黄色い歓声がもろに突き刺さる。母さんは上機嫌に「ごっめーん」と言いつつ、再び俺の部屋を出て行った。


「お母さん、若くね? いくつ?」


「三十七」


「うちの母親より十歳も下じゃん」


 お茶をすすりながら、御子柴は目を丸くしていた。俺はと言うと、熱々の雑炊に手が出せず、御子柴と同じくマグカップに口をつけていた。


「あ、さっきの続きだけどさ。扁桃腺炎はうつらないって」


「そうなの?」


「うん、ネットで調べた。咳してもくしゃみしても平気らしいぜ」


 確かに扁桃腺が腫れてるだけだもんな。体の中に菌やウィルスが入ったわけじゃないし、症状としてもひたすら喉が痛くて、熱が高いだけ。そんなものなのかもしれない。


 少なくともうつすことはないと知って、ほっと一安心していると、御子柴が急に声を潜めた。


「ちなみにキスもオッケーだって」


 ぶっ、とお茶を噴き出しかける。マグカップの中で揺れたお茶が、その熱でもって舌先を襲った。あっつ……! 俺は涙目になって御子柴を睨む。


「……今日はしないからな」


「はいはい」


 どうせまた「するって言ってないじゃん」などと減らず口を叩くものとばかり思っていた俺は、あっさり引き下がった御子柴を珍しげに見つめる。


 御子柴は柔らかい表情で俺を見返してくる。なんとなく調子が狂い、俺はようやく音を立てなくなった雑炊を口に運んだ。


 よほど腹が空いていたのか、俺はぺろりと雑炊を平らげた。御子柴が空の小鍋を引き取って、盆に置いてくれる。俺が冷めたお茶で処方された薬を流し込んだのを見計らって、御子柴がこちらに手を伸ばした。


 前髪が持ち上がったかと思うと、額に手を添えられる。ひんやりとした冷たさと大きな手のひらに、どきりとした。


「うわ、めっちゃ熱……。ほら、さっさと寝る」


 そのまま額を軽く押されて、俺は背中からぼすっと布団に倒れ込んだ。御子柴がご丁寧に掛け布団を肩まで押し込んでくる。熱と雑炊で火照った体には暑すぎる。


 熱に浮かされた目を抗議の意味で御子柴に向けると、一拍遅れてふいっと顔を逸らされた。そのそっけない態度がなんだか面白くなくて、俺は口を尖らせる。


「なんだよ」


「……なんでもない。体調悪化したら悪いし、俺、もう帰るわ」


 御子柴の手が静かに離れていく。途端、低めの体温と優しい重みが消えて、とても心許なくなる。俺は置いて行かれそうになった子供のように、御子柴の制服の裾をぎゅっと掴んだ。


 御子柴が肩越しに振り返り、目を丸くしている。何してんだろ、と自分でも思う。けど、縋り付くような表情を変えられない。


「時間、あんまない?」


「いや……あるよ」


「じゃあ、さ、もうちょっとだけ……」


 消え入りそうな声でやっとそれだけ言う。すると御子柴は忙しなく瞬きを繰り返した後、「あー、もう!」と叫んで、再度クッションにどっかと腰を下ろした。


「え、何、怒ってんの……?」


「怒ってねえよ、いや、怒ってるよ!」


 どっちだよ。そう尋ねる前に、御子柴はやにわにベッドの空いてるスペースへ突っ伏した。


 なにはともあれ、まだいてくれるらしい。俺は嬉しくなって、ベッドの上にある御子柴の手をちょいちょいと突いた。


「なぁ、もう一回おでこに手あてて」


「……甘えんな……」


「あ、ごめ——」


 思わず引いた手を、逆にぎゅっと引き寄せられた。


 御子柴はもう片方の手で俺の前髪を上げると、そっと額に触れた。さっきと同じ、冷たい温度が熱を吸い取ってくれる。触れる手の皮は少し固い。俺は半ば夢見心地で目を閉じた。


「気持ちいい……」


 しばらく御子柴から返る言葉はなかった。が、やがて盛大な溜息が聞こえたかと思うと、ふっと苦笑された。


「冷えピタにすれば?」


「みこピタがいい……」


「お前、今、すげーしょうもないこと言ってる自覚ある?」


 こっちは病人だ、そんなのあるわけない。


 分かっているのは、御子柴が傍にいてくれることだけだ。


 例えようのない安心感に包まれながら、俺は再び眠りに落ちた。


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