第15話 4分33秒

 いい気なもんだ、と胸中で悪態をつく。さっきまでしょうもないことを言っていたかと思いきや、急にスイッチが切れたように眠りやがって。


 俺は人知れず深々と溜息を吐いて、ベッドに頬をつけた。


 水無瀬の無防備な寝顔が嫌でも目に入る。元々童顔だが、こうしてみると一層あどけない。水無瀬の額に当てた手の平から、未だ高い体温を感じる。もう片方の握り合った手はしっとりと汗ばんでいた。


 離れがたく思っていると、廊下の方から足音が聞こえてきた。弾かれたように顔を上げ、居住まいを正す。


 こんこん、と控えめなノックが聞こえた。俺は立ち上がり、先んじてドアを開ける。


「あれ、御子柴くん?」


 扉の向こうにいた水無瀬のお母さんに、ちらっと室内へ目配せする。


「あー、水無瀬、寝ました」


「あらら……ごめんね。せっかく来てくれたのに」


「いえ、長居しちゃ悪いし、帰ろうとしてたところです」


 俺は静かに照明のスイッチを消すと、お母さんと連れ立って、こそこそと水無瀬の部屋を出た。


 廊下の向こうに玄関が見える。その手前からひょこっと可愛らしい女の子が顔を覗かせていた。


「こんにちは」


「あ、こら、美海」


 お母さんの手をすり抜けて、美海と呼ばれた子は俺の前にとことことやってきた。きっと例の年の離れた妹さんだろう。


「ハルくんのお友達?」


「そ。御子柴っての。よろしくね」


「水無瀬美海でーす。ねえ、御子柴くんってめっちゃイケメンだね。モテるでしょ?」


「美ー海っ」


「あはは、ありがと」


「否定しなーい、本物だぁ。あ、でも、美海のタイプじゃないけどね」


「え」


「美海、もうちょっと塩顔が好きなの。ごめんね」


「……嘘やん」


 玄関でスニーカーに足を突っ込んでいると、いつの間にかリビングに取って返していたお母さんが、俺に紙袋を渡してきた。


「これ、もらいもののお菓子だけど。良かったらご家族で食べて」


「あ、いや、悪いっす」


「気にしないで、ほんのお礼だから。ね?」


 これ以上遠慮するのも気が引けて、紙袋を受け取る。お母さんは屈託のない笑顔を浮かべていた。やっぱり、親子だ。どことなく水無瀬の面影がある——



「——御子柴くん、これからも晴希と仲良くしてやってね」



 スニーカーを履く動きが危うく止まりそうになった。


 俺は履き損じた振りをして、踵を浮かせる。


 もう一度、踵を突っ込み、それからゆっくりと顔を上げた。


「もちろんです」


 我ながら、うまく笑えていたと思う。


 水無瀬の家を後にして、マンションのエレベーターを待っている間、俺は伏し目がちに足元を睨んでいた。


 マンションを出ると、辺りは薄暗くなりかけていた。


 住宅街の上にかかる薄い茜色を押し出すように、空の天辺から夜の帳が迫ってきている。黄昏時の曖昧模糊な景色の中を、俺は鞄と紙袋をぶらさげて、のろのろと歩き始めた。


 ——時折、自分が酷い間違いを犯しているのではないかと、考えることがある。


 真っ白い服に墨汁をぶちまけてしまったかのような、山中をひたすらぐるぐると彷徨っているかのような、あるいは——どうしようもなく他人を裏切ってしまったかのような。


 そんな取り返しのつかない失敗を、見て見ぬ振りをしたまま、ずっと歩き続けている気がする。


 今更、引き返すこともできずに——


 俺は沈みゆく夕陽を眺めた。脳裏によぎるのは規則正しく並ぶ、白と黒の鍵盤だった。


 帰ったらピアノを弾こう。いつものルーティンではない。指が痛くなっても、腕が上がらなくなっても、夜が更けても、ぶっ倒れるまで。


 何も、考えられなくなるまで。


 俺は歩幅を広げて、家路を急いだ。また何かを置き去りにしたような気がしたが、首を振って払い除けた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る