第13話 チョコレート・カプリチオ 下


「——ハルくん、そのマフラーなに?」


 学童の出入り口まで出てきた美海が開口一番そう言った。


 白いもこもこのセーターに赤と黒のタータンチェックスカート、その下には足首にリボンのついたお気に入りのタイツ。藤色のランドセルに、学校指定の黄色い帽子。どこからどう見ても小学生なのに、女の子は本当に目聡い。


 学童の先生に挨拶し、連れ立って小学校の校門を出る。繋いだ手がぐいっと引っ張られた。


「そのマフラーなに?」


 駄目押しである。俺は観念して答えた。


「もらった」


「バレンタインだから?」


「いや、ちょっと前に……」


「うそ。そんなの持ってなかったじゃん」


「持ってたよ」


「誰からもらったの?」


「美海の知らない人」


「カノジョ?」


「ち、違うって」


 美海は腕を目一杯伸ばして、マフラーに触れた。


「本気だよ、その人。じゃないとカシミアなんてくれないよ。カシミア、知ってる?」


「お兄ちゃんを馬鹿にするんじゃありません……」


「そっか、ハルくんにも。そっかぁ」


 俺は思わず閉口した。母さんの言い方にそっくりだ。


 気の短い冬の日が沈み切る前に、マンションへ辿り着く。


 美海は手洗いうがいをすると、荷物を自分の部屋に置きに行き、その後はリビングでくつろぎ始めた。


 俺も着替えて、台所に立ったところで、自分の失策に気づく。


「あー、買い物すんの忘れた……」


「れーしょくないの?」


 録画したアニメを見ていた美海が、ソファ越しに振り返る。俺は冷凍庫の中を確認した。


「ハンバーグかなぁ」


「あっ、美海それ大好き。決まりっ」


「はいはい」


 お歳暮でもらった、虎の子だったけど……今日の残り体力ではやむなし。俺はエプロンを着て、野菜室からレタスを取り出し、手で千切ってサラダを作り始めた。


「ハルくんのことが好きな子気になるなぁ。でもどうしてチョコあげなかったんだろ?」


「……そんなことより、昨日、俺が必死で作ったチョコはどうなった?」


「美海も作った!」


「塩入れたくせに。ベタな間違いして……」


「作り直したもん。みんな美味しいっていってくれたもん」


「そりゃ良かった」


 サラダを三人分作って、皿にラップをかけてしまう。冷蔵庫にはでかい板チョコが保存されていた。失敗すると見越して多めに買っておいた、その余りものだ。


 その横に生クリームの紙パックが置いてあるのが目に入った。時々、パスタソースなんかに使うのだが……


「あっ」


「どしたの?」


「チョコって使ってもいいか?」


「何つくるの、デザート!?」


「あー、えと、そう。材料余ってるから」


「やったー、ハルくん大好きっ」


 また調子のいいことを。俺はソファの上で弾む美海を一瞥した後、スマホでレシピを検索し始めた。簡単でなるべく早く作れるやつ。今日、間に合うやつ。


「……うん、いけそう」


 俺はエプロンの紐を締め直すと、パーカーの袖をまくった。さっきまであった疲労感はどこかへ吹き飛んでいた。





 帰ってきた母さんに美海を託した俺は、夜の住宅街を歩いていた。


 首にはもらったマフラーを巻いて、紙袋を一つだけ持って。どの家庭も夕食がひとしきり済んだのだろう、辺りは静まり返っている。街灯の下に、俺の足音だけが小さく響いていた。


 辿り着いたのは道の角にある公園だった。いくつかの遊具と砂場、木々に囲まれた申し訳程度の遊歩道がある。滑り台の脇に立っている人影を見つけ、俺は呼びかけた。


「悪い、突然呼び出して」


「おー」


 御子柴がこちらを振り向く。黒地に蛍光グリーンのロゴや模様が入ったジャージ姿だ。靴はいつものスニーカーではなくランニングシューズである。


「走りに行くところだったから、ちょうど良かったわ」


「そっか。えっと、ちょっと座らね?」


 俺が指差したのは遊歩道に設置されているベンチだった。御子柴が軽く頷いたので、そちらへ向かう。


 遊歩道は外灯が一つしかなく少し薄暗い。ベンチに座ると、木の葉の隙間から月明かりがちらちらと覗くのが分かった。


 隣に腰掛けた御子柴が俺の手元を見る。


「なんつーか、まぁ、期待しちゃってるけど、いい?」


「い、いいけど」


 でもそんな期待に応えられるものか……。俺は緊張しながら、紙袋の中身を差し出した。


 改めて見ると我ながらどうかと思う。どこの家にでもあるタッパーだ。案の定、御子柴は目を丸くしていた。


「ごめん、もうラッピングの箱、残ってなくて……」


 水色の蓋を開けると、格子状にカットされた生チョコが出てくる。端っこを切り落としもせず、まるで不格好だった。これが首元にあるマフラーと引き換えかと思うと、なんて不平等な取引なのだろう。


 口を噤んでいる御子柴から、思わず視線を逸らす。あぁ、こんなの渡さない方がマシだったか、やっぱり——


「もしかして、帰ってから作った?」


「う……。そう、昨日の材料が余ってたから。こんなのでほんとごめん」


「いや——てっきり、コンビニの売れ残りかなんかだと思ってたから」


 タッパーの中の生チョコを覗き込んで、御子柴は自分の口を手で覆っている。


「手作り……。うわ、どうしよ……」


「や、やめとこうか」


「なんでだよ。食べるわ」


 顔を思いっきり顰められ、タッパーをひったくられた。御子柴が長い指で摘まんだチョコを、ひょいっと口に放り込む。


「うまっ」


「マジ?」


「マジマジ。すげー、こんなん作れんだ」


 立て続けにチョコを食べていく御子柴から目が離せない。唇が妙な形になりそうなのを必死にこらえる。


 四つ目に手を伸ばそうとしていた御子柴が不意にこちらを見た。口の中にあったチョコをごくっと飲み下す。そして軽く咽せた。


「びっ……くりした。急にその目はやめろ……」


「えっ、なんか変だった?」


「変っていうか。変じゃないけど」


 珍しく御子柴が口ごもっている。俺は拳でむにむにと頬を押した。やばい、にやけてたのかもしれない……


 御子柴は軽い溜息をついた後、チョコの一つを差し出した。


「お前も食べる?」


「あぁ、そういえば味見してなかった……」


 急いでいたとはいえ、味くらいちゃんと確認しておくべきだった。御子柴が摘まんでいたチョコを差し出してくるので、反射的に口を開ける。


 が、御子柴はくるりと手を返すと、それを自分の口に放り込み、にやりと口端を釣り上げる。俺はほとほと呆れかえった。


「お前……」


 小学生か。いや、美海でもそんなことしないぞ——


 そう抗議しようとしたその時、御子柴の腕が素早くこちらに伸びた。大きな手の平が後頭部に添えられたのも束の間、有無を言わさぬ力で引き寄せられる。


「んっ——!」


 触れあった唇に舌が差し入れられる。あっという間にこじ開けられた口内に、甘い塊がねじ込まれた。溶けかかった生チョコのねっとりとした感触が舌の上で広がる。


 ふ、と短く息を吐くと、独特の苦味のあるフレーバーが鼻から抜けていった。俺の口の中に広がったチョコを、御子柴の舌が舐め取っていく。その度に甘い味を覚え込まされる。


「ふ、——ぅ、ん……!」


 息も吐かせぬ勢いのキスに、俺はたまらず御子柴の背に腕を回した。ジャージの生地を強く握りしめる。


 唾液に溶けたチョコを飲み下すのに必死でいると、次第に体が熱くなり、頭がぼんやりとして、溺れかかっているような感覚に陥る。チョコはほとんど消えてなくなり、少しざらざらとした味蕾から、甘い残滓を感じるのみだ。


 それでも体温が高まっていくのを止められない。重なった部分からお互いが溶け合っていく感覚に、俺は我知らず酔いしれていた。


 するりと舌が引き抜かれる。唇が離れ、熱が遠ざかっていった。


 くらっと目眩を覚えたところを、御子柴に抱き留められる。俺は荒い息を吐きながら、御子柴の肩口に強く額を押し当てた。未だ口内に残る甘さに、燻る熱に、ほとんど夢見心地で呟く。


「……気持ち、いい……」


 俺の背中に回っていた御子柴の腕の力が急に強くなった。ぼんやりと二、三度瞬きし、はっと我に返る。


「い……今、俺、なんか言った?」


 見上げた御子柴の顔は小刻みに左右へ振れていた。


「……別に、何も聞こえなかったけど?」


「そっか。あ、いや、なんでもないから」


 そろそろと体を離す。御子柴も特に抵抗せず身を引いた。何故か明後日の方向を見ながら。


「とにかく、まぁ、ありがとな。夜遅いし、家まで送るわ」


「あぁ、いいよ、別に。これから走らなきゃなんだろ?」


 か弱い女の子じゃあるまいし、などと思っていると、御子柴の目が意地悪そうに弧を描いた。


「最近、ここらへんで変質者が出たって話だぜ。男子高校生がおっさんに後ろから突然、抱きつかれたんだと。お前、細っこいし、そのまま担がれてどっかに攫われたりして」


「……お、お願いできますか」


「素直でよろしい」


 御子柴が満足げに頷く。俺は未だ口の中に残るチョコの苦味と甘味を、舌の上で持て余しながら、そっと息を吐いた。


 連れ立って夜道を歩く。御子柴がタッパーの入った紙袋を揺らした。


「すげえ美味かったから、また来年も欲しいな」


 随分、気が早い話だ。俺は自然と頬を緩めた。


「これぐらい、いつでも作ってやるよ」

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