第36話 葉宮樹理 その6
「…………」
言葉は、出なかった。
口は閉じたまま、固く、開かない。
咄嗟に、一陣くんの視界を手で覆って、見られることをなんとか防ぐ。
あの骸骨、見られてしまったのだろうか。
あの、ぐちゃぐちゃと万平文化を食べる骸骨を、見てしまったのだろうか。
――あれが、地獄。
聞いたことはあるし、知識としてはある。
けれど、見るのは初めてだった。
闇よりも黒く、不気味を通り越した、背筋が冷え切るような世界。
骸骨――ちらりとしか見えなかったけど、空間が裂けた、先。
世界の向こう側で、骸骨は、まだまだたくさんいた。
何体もいて、一体を回避したところで、二体目、三体目に、彼は捕まっていただろう。
結果は変わらないのだ。
万平文化の人生は、ここで終わる――変わらないことだったのだ。
明吉くん――まるで、神様のような行動力だった。
実際、神様なのだけど。
落ちこぼれというレッテルを貼られている彼は、
神様の仕事をしなくてもいいと、遠回しに言われているようなものなのだ。
でも、今――彼は、力を自由に扱える。
大き過ぎた力は、万平文化が持っていってしまい、そのまま食べられたため、肉体、精神と一緒に、消滅してしまったのだろう。
このまま、明吉くんに戻ってくることはない。
明吉くんは、残りものの力で、これからを過ごすわけである。
そして、その力は、彼にとってはちょうど良い力なのだ。
暴走することなく、扱える。
それは、私の『暴走を防ぐための力』は、必要なくなるということ。
それは、落ちこぼれのレッテルを貼られなくなるということ。
それは、遠回しに神様の仕事をしなくてもいいよ、と言われなくなること。
欲されている。明吉くんは、神様として、戻らなければいけないのだ。
上に――天界に。
それは、つまり――、
「…………」
私は、分かっている。
でも、言葉は出なかった。
声が、消失してしまい、取り戻すことができなかった。
おわか、れ? ここで、ばいばい?
好きだった、好きだった。
大好きだった、大好きだった……。
そんな明吉くんとは、もういられないの?
「あ、……あ、」
戻ってきた声。しかし、今までに出たことがないような、声だった。
樹理さん? と不安そうに聞いてくる一陣くん。
目を覆っているこの手は、離せない。今の私を、見られたくはなかったから。
視線を上げる。明吉くんを見る。
彼は――私から、遠ざかるようにして、歩いて行ってしまう。
思わず、
「待って、明吉くん――」と、声が出た。
すぐに、一陣くんを一旦、地面へ送ってから――明吉くんを追いかける。
遠ざかる明吉くん。背中を追い、私の手は、彼に届いた。
「――待って、お願い、待ってっ!」
「……樹理、だよね」
「うん……うん」
頷くことしかできない私。なんて、情けない――。
行かないでとか、私とずっと一緒に居て、とか。
大好きです、すらも、私には言えなかった。
涙は止まらず、これでお別れという事実を、受け入れることができなかった。
前に進めず、その場で、立ち止まっていることしかできなかった。
本当に、情けない。
「ねえ、樹理――」
明吉くんは、言う。
「僕とこのまま、別れたいかい?」
いきなりの言葉に、私は固まってしまう。
冷や水を浴びせられた気分だった。
それのおかげか、少し、正気には戻れたのかもしれない。
「そんなの――」
崩れてしまい、形がなくなっていた言葉が、出てくれた。
「別れたくないに、決まってる! 大好きな明吉くん、あんなところやこんなところ、どんなところも好きで好きで好きで好きでたまらない明吉くんと、離れたいわけ、ないじゃないのっ!」
「……っ! ……そ、っか……」
頬を染める明吉くん。ここで、私は気づいてしまう。
勢いだったものの、今、明吉くんに告白してしまったのだ。
からかいついでに言ったことがある言葉。でも、ここまで本気で言ったことはなかった。
しっかりと、言ったことはなかった言葉。
本気度が、分かったのだろう。明吉くんの顔が、可愛かった。
抱きしめたかった。だから抱きしめた。
頬を擦り合わせたかった。だから頬を擦り合わせた。
キスをしたかった。だからキスをした。
離したくなかった。でも、それは叶わなかった。
離れていく、明吉くん。
上に、上に。
天へ、昇っていく明吉くん。
そして、彼は初めて、その言葉を言う。
今まで、気配すらも漂わせてくれなかった。
本当に私のことを見ているのか、分からなかった。
不安だった。何度も何度も、それで悩んだ。
でも、それもそうだと今なら思う。本気の言葉にしか、本気では応えてくれない。
遊び半分には、彼は遊び半分でも、応えてくれない。
中途半端にしたくなかったのだろう。
そして、今は、中途半端ではない、本気の言葉――彼は、私に、初めて言う。
「大好きさ、樹理――」
光が明吉くんを包む。
太陽と重なるような位置で、輝いている。
目を瞑ってしまうほどだったけど、瞑らなかった。
最後まで見ていたい。
たとえ、光でどうなっているのか分からなくとも、それでも、見たかった。
見つめたくて、見届けたかった。
最後まで。最後まで。
そして――消える。
音もなく、消えて。光なく、消えていった。
明吉くんは、世界から消えた。
今頃、世界の上から見ていてくれていることだろう――。
私を、見ていてくれていることだろう――。
天を見上げる。いつまでも、この体勢のままだった。
――そして世界は、戻る。
霊界と人間界。
元にあった場所へ、それぞれ戻った。
私は、また、孤独になった――。
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