第25話 枠内一陣 その6
後ろから見ている分では分からなかったこと――樹理さんは、前面を抉られていた。
三本線が傷として刻まれている。血は――思ったよりは、出ていない。
「どういう、ことなんだ……」
気になるところではあったものの、気にしている場合ではなかった。
未だ、目の前で攻撃準備オーケーのまま待機している獅子。
のんびりとはできなかった。
「くそ――休憩すらもできないのかッ!」
樹理さんを、持ち上げる。自然と、お姫様抱っこになってしまった。
それが合図となってしまったのか、沈黙を貫いていた獅子が、動き出す。
振り上げた足――先の、爪。どでかいナイフ――それ以上の存在。
まるで、死神の鎌のように思えてきた。
そんな風に振りかぶられたら、恐怖心が支配してしまう。
しかし、隙が多いのも事実。ここで、びびるわけにはいかない。
「うぉおお――」
気合を入れ、足を動かす。
獅子から逃げたいわけだが、遠ざかるように逃げると、逆に、追いつかれやすい。
型にはまった逃げ方となり、読まれやすい。
その読みが、獅子にできるのかどうかは、不明なままだったが。
だから、その逆を突く。あえて獅子の懐に入る――あえて、接近する。
振り回されるハンマーを避けるために、中心点に向かうことで、安全を手に入れるのと同じ要領で、獅子の攻撃も避けてしまおうと考えたわけだ。
だが、確実ではない。迫る俺に、普通に爪を振ってくる可能性だって、ゼロではない。
不安定な、賭けだった。
だが、これ以上に成功率が良い作戦なんて、思いつかない。
樹理さんを、この賭けに勝手に乗らせてしまったことになるが――ごめん、と謝っておく。
失敗する気は、さらさらないが、もしも失敗してしまった時のために。
その時は、俺も共に死ぬ。それでちゃら、というわけではないけど――共に行こう。
そして、覚悟を決めた時――足に力を入れ、爆発させるその瞬間だった。
獅子が、苦しみ出した。
体になにか張り付いていて、それを、振り払おうとしているように見える――。
一体、なんなんだ?
「なに、あれ……人、なの?」
すると、遊がそんなことを言う。
なにを見ているのか――。俺と同じく獅子を見ているが、俺には、獅子が一人で暴れているようにしか見えない――。人? 人なんて、どこにもいない。
しかし――やがて、薄らと、霧の中に見える人のように、『なにか』がいる、ということは、認識できるようになってきた。
見える影は、明らかに人影だ。
そして、姿が見えてくる――人だ。俺たちと同じ、人間だった。
そんな彼らは、獅子にしがみついていた。獅子の抵抗のせいで、振り落とされている人もいたが、すぐに浮き上がり、さっきと同じく、しがみつきを継続させている。
――というか、ん? 浮いて、いる?
人が――浮いている!?
「なっ――あいつら、人間じゃないのか!?」
「とにかく――今がチャンスでしょ!」
遊の一言で、冷静に、現実を直視することができた。
どうなっているのか分からない。得体の知れない状況だが――、
今は、後回しでもいい事柄だ。答え合わせなど、いつでもできる。
「こっちだ!」
遊が手を挙げ、逃げ道を先導してくれる。
廊下の先の、出口を探す。
獅子が廃墟の壁を壊してくれたらしく、
外の光が中に入ってきて、ある程度、廊下を照らしてくれていた。
光が差し込んでいるのとは逆の位置に逃げているわけだが、
それでも、充分に光が届いていた。
懐中電灯はもう必要ない。遊は、投げ捨て、体を少しでも軽くする。
「おう!」
俺はすぐに返事をし、後をついて、走っていく。
しかし、この作業は、案外きついものだった。
「――いや、待て!
樹理さん、これでも結構、重いんだ。あんまり速く走らないでくれ!」
振り向き、情けない……とでも言いたそうな視線を向ける、遊。
「情けない……」
「実際に言いやがった! わ、分かってるよ! けど、重いもんは仕方ねえだろうが!」
「男だろうが。がまんして、根性で頑張れ」
「手伝う選択肢はお前の中にはないんだな!」
いいけど! ここで手伝ってもらうってのも、俺、それこそ情けないし。
それに、樹理さんに申し訳ない。
俺が、ただ力がないだけなのに。
これじゃあ樹理さんが重いと言っているようなものだった。
「ん――」
唾でも飲み込んだのか、と思う程度の微かな声だったが、違かったらしい。
遊は、なにかに気づいたようだった。
「さっきは、暗くて分からなかったのか――。ここ、たぶん出口だと思う」
「んじゃ、そこに入ろう」
「お前に言われるまでもないよ」
そう言って、遊は足を速めた。
畜生、あいつ、俺が樹理さんを抱っこしていると知って、わざと加速させたな。
少し距離を取られてしまったが――、
どうにか、見えない程ではないくらいに、差を維持できた。
詰めることができれば良かったが、あいつ、速かった。
予想外では、なかった。
言うならば、俺の方が遅くて予想外だった。
「っ、はぁ、はぁ――」
呼吸が、整わない。
体に、ガタでもきているのだろうか。
「なんとか、脱出はできたようだけど――」
外に出た。廃墟から外に出れた。
それは、町に出れたということだ。
いつも見慣れている風景に戻ってくることができたと思ったが――しかし、少し、違かった。
町は町――変化はない。
風景にも、建物の外観にも、変化はない。
廃墟が、こんな場所にあったことを知らなかったために、それだけがいつもの光景に入ってしまって、多少の違和感を感じてしまうが――おかしな点は、なにもない。
あるとすれば、一つ。
おかしな点は――空中を舞う人間の方だった。
「はあ――!?」
思わず、声を上げてしまう。
「人が浮いて……ど、どういうことなんだよ!?
ここはファンタジー世界かなにかなのか!?」
「んなわけないだろうが」
遊が、横からすっと出てきてから、言う。
「ここは現実だと思う……。だって、頬をつねっても、夢から覚めなかったし」
「それは、もっと始めの段階でやっておくべきことだったと思うが」
忘れていたが、廃墟に移動してしまった時に、やっておくべきことだった。
まあ、痛みを感じているということは、夢ではないのだろうけど。
「夢じゃないなら――現実、か」
「信じられるか?」
「信じるしか、ないだろ、こんなこと」
そう、信じるしかない。ここが現実ならば、尚更だ。
事態の把握、状況の理解。謎の解明は、しなくてもいい。とりあえずは、だけど。
「浮いている人間と、そうでない人間がいるってことは――、
俺たち以外にも、巻き込まれている奴がいるってことか」
それか、
「町全体、という規模になっているように見えるし――もしかして、世界単位なのか?」
「さあな」
遊は、テキトーに、そう言った。
「人の心配よりも、とりあえずは、自分たちの安全の方が大事だ。
一刻も早く逃げた方がいいな――なんだか、嫌な予感がする」
「…………」
確かに、逃げた方がいいとは、思うけど。
でも、他の人たちを放っておいて、自分たちだけ安全地帯に行くってのは――あんまりじゃないか? そりゃあ、自分が大事だ。死にたいわけじゃない。自殺志願者じゃない。
分かっているけど、目の前に困っている人がいる。たとえば――今だって、浮いている人間に、ちょっかいを出されている人だっているのに、それを、見て見ぬ振りをするなんて。
――できねえよ、そんなこと。
「……俺は、町の人たちを避難させるぞ」
「なにを言って――。ここに、どれだけの人数がいると思ってんだ。
一人一人、いちいち助けていたら、時間がかかり過ぎるぞ」
「なにもしないで、時間をかけるよりはマシだ。
同じ時間なら、助けて時間をかける方がよっぽどいい」
言い捨て、樹理さんを遊に預ける。
そして、廃墟から前へ、進んだ。
「樹理さんのことは、頼んだ。
ここからは別行動をさせてもらう。俺は、俺のやり方でやるからな」
「馬鹿――」
遊の声が聞こえた。なんとか聞こえた、小さな声。
勝手に進む俺へ向けた、呆れた意味を含んだ言葉だったのだろう。
二度目に聞こえた方も、そうだと思った――しかし、
「ッ――馬鹿、バカ一陣っ!」
ぐわん、と。体が前に進む。
思い切り、押されたのだ。
俺は顔面から地面に倒れてしまい、皮膚が多少、削れてしまう。
痛覚が活発に動いていた。それに反応する前に、後ろから聞こえた轟音に――、俺は、自分に起きているなにもかもを無視して、振り向いた。
「え――」
鉄骨。瓦礫。廃墟の一部分になっていただろうパーツが、降り注いでいた。
地面を凹ませ、自身満々に、目の前にある。
数は――数え切れないほど。
インパクトが、でか過ぎた。
「――あ、なん、で――ッッ」
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