第22話 菅原和実 その1
茜と出会ったのは、まだ、ワタシがここまで感情豊かになっていない時だった。
入学式の日。教室で、一人、どうすればいいか分からない時に、茜は、ワタシに話しかけてくれた。内容はどうでもいいことだったと思う。いや、どうでもいいと言っても、それは自己紹介だったから、それなりに重要なことだったと思う。
当時のワタシは、こんな訂正なんて入れなかったと思う。
だから、成長しているのだろう。茜のおかげだ、と本人に言ってしまうと、あの子、調子に乗るから。あの子のためにも、言えなかった。本当は言いたいけど。
しかし、言えない――できるのにやらない、というのは、案外きついものだった。
あの時にはなかった感情。小さく消えてしまいそうな、無いとまで言われていたそれは、きちんと、芽生えてきているのか。
いい感じだ――修行は、いい感じに進んでいる。
ワタシ自身、客観的に見れば、着実にレベルアップしている。
目を瞑れば過去を思い出す。忘れることがない記憶だ。
茜が存在している限り、きっと忘れない思い出なのだろう。
それに、ワタシは記憶力が良いなんていう次元ではないし。
もっと、極めたものだった。言ってしまえば、忘れることができない――もの。
どんな些細なことでも、どんなどうでもいいことでも、忘れられない。
ワタシは、そういう風にできている。
―― ――
階段を上がって、ついさっきお別れの言葉を投げかけた部屋に戻ってくる。
正確には、投げかけた言葉は、先輩に向かって、だったが。多少の誤差で、それまでだ。
「…………」
ノックしようと手を挙げて、そこでやめる。なんだか、余所余所しいと思ってしまったのだ。
そう思えるのは、ワタシ自身、ここの部の一員だと、自覚しているからなのか。
へえ、そんな思考までいきついているのか。あの人だったら、どや顔でそう言いそうだ。
「……入ります」
誰に聞かせるわけでもない声で呟いた。
そして、扉に手をかけ、そのまま横に力を入れる。
スライドの扉は、音を立てて開いた。空気の境界線を、踏み越える。
「おかえり」
手を振り上げたのは、先輩だった。
読みかけの本にしおりを挟んでいた。後輩がくれば、いつもそうやってしおりを挟んで、きちんと対応してくれる。悪いことではないけど、今更になって思えばこの人……本当に……。
いや、いい。情報と本物で差が出るのは、仕方のないことだ。
「どうしたの? 忘れものでもしたのかい?」
「まあ、そんなところですね」
「ふーん、笑顔でも忘れたのかい?」
「そんなものは、最初から持っていませんよ」
「ありえないね」
テキトーに言葉を出した先輩を、ギロリと睨むワタシ。
「…………どうして? テキトーなことを言わないでくださいよ」
「テキトーなつもりはないけど――」
斜め上を見上げる先輩。
テキトーなつもりはない――か。
いや、テキトーが服を着て生きているような人が、なにを言っているのか。
「人間、持っていないものなんてないんだよ。
最初から持っていないものは、最初から落としているだけさ」
「それ、誰が言っていたんですか?」
「いま作った。咄嗟に出てきたセリフ。良い言葉っぽいんじゃないかな」
くすくす、と先輩は笑う。やっぱりテキトーだった。
なにをするにもテキトーな人は、もう、そろそろ信じられなくなってきた。
この学校に入ってから、今まで過ごして、やっとそれに気づけたのは、なんだか情けない。
「というか、君は結構、笑うと思うけど」
「――そう、ですかね?」
「あれ? 自覚なかった? 茜といる時は、よく笑う」
自覚は、なかった。というか、自分が笑っていることを自覚できる人はいるのだろうか。
だって、自分のことだろう。鏡でも見ない限り、自分の顔なんて分からないだろうし、笑っているって、どう判断するのだろうか。
「本当に自覚がないみたいだね……面白い子だよ、君は」
くすくす、と先輩はまた笑った。
あれは、自覚しているのだろうか。
「先輩は、今、笑っていますか?」
「え? ああ、うん。笑っているよね、そりゃあ」
「どうして、分かりますか」
「感覚」
ほお。案外、普通のことを言われた。そりゃあそうか。
感覚とか、神経とかで分かるか。今更な答えに、盲点だった。
これが分からないからこそ、ワタシはまだ、不完全なのか。
「深く考えない方がいいよ。感情なんてものは、理論で紐解けるわけではない。
理屈で定義できるものでもないし。方程式は、存在しない。
その場その場のノリで変動する、不安定なものなんだよ」
「テキトー、なんですね――」
先輩は、そうだね、と言った。
「先輩のようにね」
「酷いね、君。僕のことをテキトーキャラで押し通したいらしい、と見える」
「そりゃ、まあ、見せていますし」
そんな計画はまったくなかったけど、先輩にはそう言っておくことにした。
少し生意気な後輩のポジションにしておけばいいか。メリットとかは、考えていない。
案外、ワタシも考えなしだったりする。
「それにしても、ですよね――」
ワタシは、部室内をきょろきょろする。
忘れ物を探す振りをしていた。実際に、忘れ物なんてしていないから、この行動に意味はない。下を探すことに、意味はない。
していない忘れ物を探し始めたら、先輩は、退屈を感じ取ったのだろう。読みかけの本を、再び読み始めた。意識が、ワタシから本の中に切り替わった気配がした。
しかし、すぐに帰還してくることになる。先輩にしては珍しいフェイントだった。
「どうしたんですか? 気になることでも?」
「え、ああ、うん。まあね」
ずれた歯車のように、上手く回っていない先輩の言葉。
気になっている様子。しかし――なにを? ワタシを? なんで、どうして?
おかしな点はなにもないはずである。
おかしなことはしていないはず。ただ、忘れ物を探しているだけなのだから。
「ねえ、和実――」
答えが見つかったのか、声をかけてくる先輩。
とりあえず、なんですか、とは返答しておいた。
そう言って、継続して部屋中を探してみる。
「忘れ物をしたんだよね? じゃあ、聞くけど。どうして、真上を見ているのかな?」
「…………」
正確には、天井ではなく部屋の上半分を見ていたのだった。
「忘れ物は、天井なんかにぶら下がってはないと思うけど」
「そうですね。すみません、先輩、ワタシは今、嘘をつきました」
無表情で言うワタシ。周りから見れば、反省の色なしだ、と思うだろう。
けれど先輩は、いいよ、と許してくれた。
「忘れ物はしていません。ワタシのものではないものを、回収しに来ました」
「へえ、それはなんなんだい?」
「――先輩ですね」
ひゅう、と。先輩は口笛を一瞬だけ吹いた。
変な告白とでも受け取ったのだろうか。
そんなことはないはずだろう。そんなことはないはずだ。
なぜなら、先輩。あなたは、知っているはずだ。
さっきだって、忘れ物をしているというワタシの言葉が嘘か真実かくらい、分かっているはずなのだ。にもかかわらず、受け流した。しかも、天井付近を見ていたワタシの意図を知っているのにもかかわらず、知らない振りをした。
ワタシで、遊んでいるくせに。
驚いた振りをしないでよ。
ワタシが完璧だったのだと、勘違いしちゃうじゃないの。
「僕を回収、ね。まったく、話が見えないね」
「とぼけるつもりですか。まあ、いいでしょう」
それなら――手っ取り早く、現実を、直視させてあげよう。
そしてワタシは、決定的な一言を告げる。
「どこに行ったんでしょうかね――葉宮、樹理さんは」
その時、先輩が分かりやすく目を見開いた。
いや、少し、待て。この反応は――まるで、ワタシの行動が本当に分かっていなかったようではないか。情報と、違う。多少の誤差ならあるものだが(いや、ないはずだけど)、しかし、今のは多少ではない。決定的な違いである。
「へえ――」
先輩の、メガネの下の眼球に、力が宿る。
「全部、知っているってわけだね」
「……先輩、あなた――力が、使えないんですか?」
「少し、勘違いがあるね」
先輩は、本を置いた。しおりすら挟まずに。
それは、意識を完全に、ワタシに向けてくれているということだ。
「使えないんじゃない。使わなかったんだ」
「……なんだか、駄目人間の言い訳みたいですね……」
テキトーに言った言葉だったけど、先輩には響いたようだった。
うぅ、と胸を押さえて、ダメージを受けているリアクションを取っていた。
どうせ、振りだろうけど。
「情報によれば、あなたは、『堕神』だそうですけど、
それでもきちんとした『神』でしょう?」
「堕神、ね。懐かしい……」
「コンプレックスを自分で刺激しているんですか?」
「そんなマゾに見えるかい?」
「はい。案外、見えてますけど」
「そうかい……」
少しショックを受けたように、顔を俯かせる先輩。珍しい。
「――まあ、いい。それで、樹理がいないことに、君はなにか知っているんじゃないかい?」
「あれ? 力は、使わないんですか?」
「使わないよ。扱えない力を使うもんじゃない」
「それは、いい心がけですね」
「何様だい、君は」
「返す言葉はありませんね」
神様に言われてしまえば、口を閉ざすしかない。
「まあ、知ってますともね。樹理さんの行方は。
さっき、なんて言ってでかけたんですかね、彼女」
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