第9話 弐栞遊 その2
「――ん、うぁ」
目を薄らと開ければ、外の世界が見える。とは言っても、室内だった。
遊戯部の部室――部屋の中には、信彦明吉先輩、ただ一人しかいなかった。
先輩は、本を読んでいた。
すると、私が眠りから覚めたことに気づいたらしい。しおりを挟んで、こちらを向く。
「起きたかい? もう、今は三時過ぎだよ。
にしても、よくお昼に『お腹が空いたー』と言って、起きなかったよね」
先輩は、微笑みながらそんなこと言う。
――え? 三時過ぎ?
時計を慌てて見てみれば、確かに……三時過ぎだった。
「一生懸命にそのプリントを埋めている間に、いつの間にか眠ってたよ、君。
疲れでも溜まってたんじゃないかな?」
時間が経つにつれて、眠気が消えていく。
意識が、覚醒してくる。そして、状況の把握。
いま置かれている自分の状況が理解できた時、喉から出てきたのは、悲鳴だった。
「っ、あ――わああああああああああああああああああああああっ!?」
プリントをぱんぱんに引き延ばして、直視する。
埋まっているところは、確かにあるけども!
それでも、全然埋まっていないと言えるレベルではあった。
なんで!? なんで起こしてくれなかったの先輩!?
そう言おうとしたけど、叫びの方が意思が強くて、それどころではなかった。
「全然やってない! 今日、提出なのにこのプリント!」
「そうなんだ。じゃあ、すぐにやってしまいなよ。
どうせこの後、なにもすることがないのだろう?」
「あるって!」
叫びを中断させ、否定の言葉を飛ばした。
いつもならばないけど、残念なことに今はある。
はずせない、用事である。
「あいつの勧誘をしないと! 一日でも勧誘を忘れたら、すぐに印象が薄くなって、記憶にも残らなくなっちゃうんだから!」
「そんなことはないんじゃないの?」
「そんなことはあるんだって!」
先輩の言葉を、すぐに潰す。
先輩は、申し訳なさそうに、
「そうなのか……、ごめん」と言って、引き下がった。
私と、言い合いをしたいわけではなかったらしい。
先輩は、放任主義というか、興味がないというのか――部員にあまり干渉してはこないのだ。
べたべたとしつこいよりは全然良いけど、まったくないというのも、それはそれで、先輩のことがなにも分からなくて、謎が残る。
本当になにも分からないのだ。年齢だって、よく分からない。
何年も留年している、ってことは本人が言っていたから、嘘ではないのだろうけど。
私は、先輩が部室から出たところを見たことがない。トイレとかに行くところも見たことがないな……。私がいる時は、たまたま外に行かないだけで、私がこの場にいない時に、自由に部屋から移動しているのかもしれないけど。それもまた、謎なのだ。
謎ばかりの先輩。
謎しかないと言っても、過言ではないだろう。だが、信頼はできる。
温かくて、落ち着く。
布団に包み込まれているのに似ている。そう、先輩は布団なのだった。
「――先輩」
「ん?」
今は、やらなければいけないプリントが終わっていなくて、焦っていた。
こういう場合、どうすれば落ち着くのか。そう――先輩に抱かれてしまえばいい。布団の中に逃避するのと同じことで、すぐに落ち着けるはずだ。
こんなこと、先輩にしか頼めない。
先輩以外に頼むのならば、死んだ方がマシだと思えるほどだ。
「先輩、私を抱いてほしい」
「――がッごほっごほっ! ちが、じゅ、り、ちがッ」
私が言うと、いきなり、先輩がむせ始めた。首を庇うように押さえて、なにかからの攻撃を防いでいるように見える。未知の敵なのかもしれない。まさか――幽霊っ!?
いや、いないか、そんなもの。人が作り出した、ただの妄想の延長でしかない。
幽霊がいるなら、出てこいというものだ。
出てくれば、信じてやる。出てこない限りは、絶対に信じないけど。
「待て待て、樹理! 拳を握らないでここは穏便に――」
「先輩」
そういえば、気になっていることがあった。なので、声をかけてみた。
「――へ? どうしたんだい、いきなり」
「いきなりなのかな……まあいいや。私も、全然分からないんだけどさ。記憶に強く染みついていてうざいから、先輩に聞くけど――『じゅり』、って、なに?」
先輩が、びくりと体を震わせた――気がしただけだった。
先輩は、いつもと同じように、冷静に、ぴんっと姿勢良く座っているだけだった。
「いや、まあ。私も分かんないんだけどさ。
なんかね――眠っている時にでも聞いていたのか、記憶に残ってるんだよね」
染みついているみたいに、落ちる気配はなかった。
謎を解くしか、落とすことはできないのかもしれない。
そこで、なんでも知っている先輩に聞いてみた、ってこと。
というか、先輩がちょくちょく言っているの、聞いたし。確か。
「…………」
沈黙する先輩は、うーん、と考えていた。
この反応は――先輩はなにも知らないのかもしれない。
期待はしてなかったから、予定通り、だけど。
「
「だとして、なんで私が知っているんだろう?」
「幽霊かもしれないね」
「ないよそんなこと」
「どうして言い切れる?」
「だって――ねえ?」
幽霊なんて、いないはずだし。
「幽霊なんて、いないんだし」
「決めつけはよくないよ、遊。
決めつけられて、嫌なこと、君だってあったんじゃないの?」
それは、まあ、あったけど。
「不良だと決めつけられて、損したことは?」
「ある――。というか、先輩に私は不良だって、言ったっけ?」
確か、言っていないはず。
先輩に出会ったのは、不良から足を洗った後だった。
だから先輩は知っているはずがないのに――。
「見ていれば分かるよ。昔不良で、やんちゃしてたってのが、滲み出ているからね」
さすがと言うべき観察眼だった。
いや、予測で答えを導き出せる、その思考力がもう凄い。
「でも――まあ、幽霊なのかも、っていうのも、僕の完全な推測だけどね」
苦笑いする先輩。
両手を合わせて、私に向けてくる。
「僕にも分からないよ。役に立てなくてごめんね」
「いや、そんなことは――」
別に、正確な答えが欲しかったわけじゃない。
あれかもしれないよ? もしかしたら――という、手がかり的なものが欲しかっただけなのだ。だから、先輩が落ち込むことじゃない。
「全然大丈夫。ありがとう。助かった」
「どういたしまして」
そう言って、閉じていた本を開く先輩。
読書を再開させたらしい。こうなると、声をかけにくくなる。
自分の世界に入ってしまって、私でも、先輩を引きずり出すことは簡単に出来ないからだ。
それじゃあ――私も、動こう。
今日までに提出の、プリント。今日もだけど、授業に出てない私は、こうやってプリントを提出することで、なんとか単位を貰っている。
優遇されているのだ。しかし、貰える単位っていうのは、最低限なものなので、当然、評価は低い。優遇されてもいないな、別に。
プリントも大事だけど――それ以上に。
それ以上に大事なことで、優先させることがある。
「――勧誘、しなくちゃ」
もう帰ってしまったのだろうか。いや、まだ間に合うだろう。今から急いで一年の教室――それから学校中を駆け回れば、いずれ見つかるはず。
最悪、町中を駆け巡れば、いつか出会える。
逃がすものか――枠内一陣。
「先輩――それじゃあ、行ってきます」
「うん、頑張ってねー」
テキトーな返事を耳で受け止め、脳に染み込ませる。それから扉を開き、廊下を走る。
徐々に速度が上がり、景色がころころと変化していく。
そして、一番近い階段へ向かう――その途中、「きゃあ!」と、曲がり角で誰かとぶつかりそうになり、相手が、声を上げる。
お尻を地面に強打した相手は――見覚えがある。
猫耳みたいな短いツインテール。ツインテールと言うのか? 言わないのではないか? そんな、後輩。もう一人、私のことなど視界に入っていないかのように思えるほど、落ち着いている子もいる。同じく、後輩だ。
「ああ――ごめんね、茜と和実ー」
「気を付けてくださいよ、先輩ーっ!」
茜が、両手を振り回し、抗議してくる。その間、和実は天井を見つめていた。
二人共、テンションがまったく違うなあ。
まったく、正反対。それが、良いバランスを保っているのかもしれない。
茜の抗議に、にしし、と悪戯娘っぽく笑って、すぐに視線を前へ向ける。
二人をスルーして、階段を上ろうとした。一年生の教室は上の階である――しかし、上る必要はないようだ。なぜなら、階段に足をかける前、何気なく下の階を覗いてみれば、そこに、金髪の青年がいたからだった。
「……金髪って、あいつしか、いないよねえ?」
呟くが、答えてくれる者はいない。
人違いだったらどうしよう、という不安は、それなりに存在している。でも、違うのならば、謝れば済むことだ。なにに怯えているのだろう、私。
ここはすぐに行くべきだ。進むべきだ。恐いもの知らず、それが私だったはず!
失敗を恐れず、さあ、チャレンジだ!
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