第10話 葉宮樹理 その1
遊ちゃんが去ってから一瞬が経ち、私はすぐに安堵の息を吐く。
一般人に私の姿は見えていない。でも、私が物体に触れてしまえば、触れたなりのアクションが起こってしまう。
たとえば――間違ってコップに触れてしまった場合、勢いが強ければ、コップは、倒れてしまう。なにも起こってないところから倒れるコップは、不自然としか言いようがない。
そうなると、よっぽどの柔らかい頭をしていないと分からないとは思うけど――私の存在に、気づくのではないか。
そうなると、私にとっては都合の悪いことしか起こらない。
最悪、祓われてしまいそうになり、命の危険まで抱えることになる。
だから、見つからないことを努力するわけだ。
今まで、なににも触れないようにと、イライラ棒のように空中に浮いていた私。
緊張と体の操作で疲れ切っていた精神を休ませるために、地面に着地する。
遊ちゃんが去ってくれたおかげで、なんとか危機は去った。
なので、やっと気を抜くことができたわけだった。体中の嫌な汗を拭きたい気分。
「明吉くーん」
言いながら寄ってみるけど、
彼は、本を読んだきり、意識を向けてくれることはなかった。
完全に、自分の世界に入ってしまった。
こうなると、私でも彼を引き戻すことはできない。
入り込んでいる世界が浅いのならば、引きずり戻せたかもしれないが。
今回のは、できそうにない。
本にはないはずの奥行の中に、明吉くんが入ってしまったように。
めり込んでいるかのようになっている。私には、そう見えている。
もちろん、私の被害妄想なのだ。
明吉くんは変わらずこの部屋に存在している。椅子に座って、本を読んで。一字一字をしっかりと読み込み、全てを暗記しているのではないかと思うほどに、文字を見つめている。
文字よりも、私を、見つめてほしいのに。
体中に文字を書けば見つめてくれるのだろうか。
『好き』、『愛してる』とか書いて。
いや、そこまでいくとさすがに狂気だ。
嬉しいという感情を抱く前に、まず、恐怖するだろう。
優しい明吉くんなら、
「へえ、大変だったんじゃないのかい?」とでも言って労ってくれそうだけど――、
私に向けた視線についている感情が、変わっていそうだ。
今は、好印象な感情が乗っている視線なのに、次からは、悪印象が乗った視線になっていそうで、恐い。その視線を受けるのは、精神的にダメージが多過ぎる。
それだけは避けたい。明吉くんに嫌われることだけは、避けたい。
明吉くんが全てなのだ。私の全て。
明吉くんが私と言ってもいいのかもしれない。
しかし、それは、私が実は明吉くんと言えるわけではない。
明吉くんがベースなのだ。彼がベースで、私が素材。
合成して新しく生まれ変わろうが、彼の一部としてレベルアップに付き合うのかは、どちらでもいい。明吉くんと一緒なら、どこまでも。
天国でも地獄でも、行く覚悟はできていた。
そこで、
「……今って、なにをしても気づかないのかな?」
私の中で、悪戯心が生まれてくる。
前々から試そうと思っていて、しかしやっていなかったことを、今、思い立つ。
本に集中し、周りが見えなくなっている明吉くんに、ちょっかいを出したらどうなるのか。
さすがに、抱き着くとか、キスをするとか――読書をしている彼を大げさに邪魔する行動は、慎む予定だ。だから、やるのは猫じゃらしで鼻をくすぐるような、優しい悪戯なのだ。
これはちょうど良い罰だろう。
だって、明吉くん――さっき遊ちゃんに抱いてと言われて、少し興奮していた!
私がそんなことを言ってもなにも感じてなさそうに、
「また今度ね」と言って流すくせに! なんで遊ちゃんには反応するのよ!
あれか、幼児体型だからなのか!?
そうなると明吉くん、ロリコンになるけど。
「ねえ――樹理」
「はひぃ!?」
いきなり声をかけられ、思わず変な声が出た。
ついでに、いま立っている場所から無意識に浮き上がった。
天井まで到達することはなかったけど。私にしては、珍しい。この体になって、もう数千年も操作しているのだ。扱いには慣れているはずなのだ。心が取り乱さない限りは、そうそう操縦を誤るはずはない。となると、私は今の明吉くんの言葉で、心が乱されたことになる。
いや、でも、明吉くんの傍にいるだけで、私、心は乱れまくりだけど。
本の世界に入り込んでいた明吉くんは、予想以上よりも早く――早過ぎるほどの帰宅だった。
なにか忘れものでもしたのだろうか。そうだとしたら、「樹理」と答えてほしいものだけど、そんなことはない、というのは分かっている。
一人旅が好きだものね――明吉くん。
「あのさ、人が本を読んでいるのだから、邪魔はしないでくれるかな?」
「あれ? 私はまだなにもしてないけど?」
「……まだ?」
「あ……いや」
しまった。自分から墓穴を掘ってしまった。
まあ、こうやって私が、自分から落とし穴にはまるのを見越して、彼は言ったのだろうけど。
人の表情を見て、全てを見通している、明吉くん。その才能は、幽霊の私を、遥かに凌ぐ。
「――ともかく!」
私は、悔し紛れにそう叫んだ。
こうして、今、私が抱いていた悪戯心の件は、きれいさっぱり片づけたつもりにした。
明吉くんは、なにか言いたそうだったが、しかし、言わせない。絶対。
「明吉くんも、私に言うことがあるんじゃないの?
遊ちゃんに、欲情でもしていたんじゃないの?」
「まさか。してないよ、全然」
「じゃあ――私には?」
「もちろん――してないよ」
「私にはしてろよぉおおおおおおっ!」
頭を抱えて叫ぶ。取り乱した私を見て、明吉くんは、苦笑いをしていた。
いかんいかん、と心を落ち着かせる。
明吉くんには、私に欲情してて欲しいけど、それは、強制じゃ意味がない。
彼が自主的に私に欲情してくれるまで、努力するのみだ。
「欲情ってねえ……。樹理的には、してて欲しかったの?」
「当然!」
思わず、口が滑って本音をだだ漏れにしてしまった。
言ったのは、『当然』と一言だけだったが、そこには私の気持ちの全てが詰まっていた。
だから、だだ漏れだったのだ。
その全てが、明吉くんに伝わっているのだろうか。
伝わっていなければいいな、と思う。
だって、これは不本意な告白のようなものになってしまっているのだ。
するのなら、ちゃんとしたい。
私だって、自分を貫きたいのだ。
「そうだね……悪いけど、僕は欲情しないよ。樹理にだけじゃない。みんなにね」
「それって……」
女性、全員にしないということで、となると女性ではない人には欲情するよ、と直接的ではないけど、そう言っていることになって――、
「明吉くん、さすがにそれは私でも受け入れられないよ!」
「樹理がなにを考えているか分からない。分かるけど、理解できない」
彼は珍しく、はてなマークを浮かべてきょとんとしていた。
レアな表情なので、カメラに収めておきたかったけど、生憎と、近くにカメラがなかった。
なので、両目に焼き付けておく。
眼球をくり抜き、パソコンに繋げて画像のバックアップを作ろうと企んだが――、そもそもで、私は幽霊だった。眼球をくり抜くことが、まずできない。
少しの後悔が残る。
しかし、簡単に言ったが、眼球をくり抜くというのは物理的にも、精神的にも、きついものがある。見ている者としても、きついだろう。
なんて狂気的な想像と、光景なのか――私は、遂にここまで歪んだのか!
しかし、それは以前からなので、気にすることもないことだった。
昔から、私はこんなものだった。
周りから怖がられている女の子だった。
孤独。一人。でも、明吉くんだけは、見捨てなかった。
だからこそ、明吉くんのことが好きなのだった。
「うぅー」
ぷるぷると体が震えて――私は、がまんできなくなった。
「もうどうにでもなれー! ――明吉くーんっ!」
と、彼に目がけて飛んだ。
浮遊したまま、宙を蹴り、弾丸のように明吉くんに飛び付く私は、そこで、微かな足音に気づく。貴重な時間と一瞬を邪魔されたことに、怒りを覚える。
けれど、すぐに足音の正体に分かって、なんとか怒りを収めることができた。
時計を見る。確かに、この時間は彼女たちがくる時間だった。
ここは、彼女たちが毎日、一秒の狂いなく部室にくる、その正確さを忘れていた私の負けになるのだろう。
あと少しでも行動を早くしていれば――彼に甘えることができたのに。
「ちっ」
舌打ちを口の中で閉じ込めようとして――だが、した。
「絶対に、諦めないよ、明吉くん」
「そういう宣言はやめてくれないかな。こっちとしても、警戒をしなくてはいけなくなるし」
「警戒はしないで! 私以外の女を警戒して!」
「そんなこと言われても――あ、二人が来たね」
明吉くんがそう言った、まさにその次の瞬間。
部室の扉が開き、二人の生徒が顔を出す。
久我山茜ちゃんに、菅原和実ちゃん。
正反対の性格と印象を持つ二人。
親友と言っても差支えがないほどに仲良しな二人は、片方だけでいる時を、あまり見たことがない。なんだかんだで、二人はいつも一緒だった。
見ている限り、よく喧嘩をしているけど。あれかな、喧嘩をするほど仲が良い、みたいなことなのかな? でも、喧嘩と言うよりは、茜ちゃんがわがままを言って、和実ちゃんが叱るような――親子のような印象だった。
姉妹とはまた違う――やっぱり、親子としか言いようがない関係の二人だった。
そんな二人は、扉を開けて、すぐに明るい声で、
「おはようございます、先輩!」
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