第2話 ??? その1

 五月の下旬。

 カレンダーで言えば、下の方。


 大型の休みが過ぎ去った後の社会は、以前までの騒がしさを取り戻していた。

 社会人も学生も、忙しいことに疲れを感じながらも、しかし、退屈ではないことに多少の安心を抱いているのかもしれない。

 町には笑顔がたくさんあり、生活は、平和を抱えて回っていた。


 そんな町に、一人の少女。


 菅原すがはら和実なごみ。現役の女子高生だ。


 薄い青髪は、冷静さを表しているように見え――事実、彼女は冷静だった。


 感情が無い――は言い過ぎか。

 そこまではいかず、だが、それに近いものかもしれない。


 感情の振れ幅が小さいのだ。驚いても声に出すことはあまりなく、アクションをしたとしてもびくりと肩を震わせるくらいで、表情にさえも出さない。

 意図的にやっているのならば、徹底しているな、と感心するものだが、

 恐らく、これは素なのだろう。


 彼女の、素直な感情なのだろう。


 そんな和実は、今、友人を待っている。


 これから学校へと向かおうというところで、しかし、待っている友人が、こない。

 このまま置いて行くのも可哀そうなので、ギリギリまで待っているのだが――しかし、待っていても、相手は一向に、くる気配がない。


 スマホにだって、連絡がない。

 こちらから連絡しているのにもかかわらず、相手は反応しない。

 もしかしたら――いや、もしかしなくとも、友人は今もまだ眠っているのではないか。

 そう思った和実は、すぐに待ち合わせ場所から歩き出した。


「八時、十五分。走っても、もう間に合わない……か」


 冷静に分析する和実は、もう諦めていた。

 このまま遅刻することは確実である。

 間に合わせようと努力しても、このままでは、ギリギリで遅刻してしまうだろう。


 そう思った和実は、最初から諦めることで、無駄な体力を使わないようにした。

 無駄な努力を、しないようにした。


「なんであの子はこうも、いつもいつも寝坊をするのかな……!」


 冷静さが象徴の和実でも、今は、怒りを分かりやすく表に出していた。


 彼女を知る者が今の光景を見れば、

 珍しいものを見た、と言って、写真に収めるかもしれない。

 それくらいには、珍しいことだ。


 しかし――だが、少ないとは言っても、よく見る光景ではある。


 和実と共にいつもいる、もう一人の少女がいれば、冷静な彼女でも、感情をよく見せるのだ。

 その少女と言うのが、いつまで経ってもこない、友人のことである。


 待ち合わせ場所は駅前だった。

 この場所は、互いの家の位置と距離を測って決めたもので、ちょうどいい、真ん中くらいの場所なのだ。そして和実は今、学校とは逆の方向に進んでいる。

 つまり、遠ざかっている。


 ここから自分の家よりも遠い距離を、早歩きで進み、

 息を少し切らしながらも、しかし、数分で辿り着く。


 友人の家に辿り着いた。


 チャイムを押そうと思ったが、家には友人しかいないだろう。


 付き合いは一年くらいだが、友人のことはよく知っている。

 朝の家庭事情も知っている。なので、家の門を躊躇いなく開けて、そのまま扉に向かった。

 鍵は――、開いていた。

 なんて不用心なんだろう。


 思いながらも、あとで説教をするか、としか感想は出てこず、

 その感想も、扉を開ける作業で既に忘れてしまっている始末である。


 わりと、どうでもいいのかもしれない。


「お邪魔します」


 一応、言っておく。

 万が一にも家族がいた場合、泥棒と間違われてしまうかもしれないのだ。

 いや、ないか。今までにそんなことは一度もなかったし。


 それに、家族に気づかれたところで、

「いらっしゃい和実ちゃん」とでも言って、もてなしてくれるだろう。


 そういう家族だということは、和実が一番、よく知っている。


 階段を上がり、友人の部屋を見つける。

 わざとらしく足音を過剰に立ててみるが、意味はなかったようだ。

 自分は、この音で多少は焦ったりするものだが、

 彼女には、なにも効果を示さなかったようだ。


 なので、すぐにやめる。

 無駄な努力は、なるべくしたくはない和実なのだ。


 ノックもせずに、友人の家の扉を無理やり開ける。

 激しい音。蝶番ちょうつがいが壊れたのかと思ってしまうほどの音が出たのだが――、

 友人は、起きなかった。


 もしもの時、大丈夫なのだろうか、この子……。と心配になってくる。

 呆れながらも、しかし、寝顔を見て――、気持ち良さそうにしている友人を見て、少し和むが、だが、遅刻をする原因を作った元凶であることを考えれば、和むだけでは終われなかった。


 怒りが、ちらほらと頭の中を通り過ぎていく。

 発散させたいのだが――どう発散しようか。


 考えた末に出た答えは、この布団をめくってやることだった。

 唐突な衝撃は、眠気覚ましにはちょうど良いのかもしれない。


「いいから」

 布団の端を掴む。


「さっさと起きなさい――あかね!」


 ばさり、と音を立てながらめくられた布団が、宙を舞う。

 部屋の中で停滞していた空気を、縦横無尽に拡散させる。


 そして、埃っぽい空気の真下。

 茜と呼ばれていた少女――久我山くがやまあかねは、ぱっちりと目を開け、唐突に起きた状況に、和実の策略通りに、慌てふためいてた。


「なになにっ!? 地震っ!? 火事っ!? 事件――っ!?」


 跳び起きた茜の眠気は、さっぱりと消えていたらしい。

 子供のように慌てて、辺りをきょろきょろと見渡す。

 そこで、和実の姿に気づいたらしい。

 はっ、として、すぐに「おはよう」、と言った。


「ええ、おはよう」

 和実は、笑いながらそう言った。

 しかし、笑っているのは口元だけで、その口元も、

 笑っていると言うには、微妙なラインでの歪み程度のものでしかなかった。


「……なんでここにいるの?」


 茜は、不用意に、そんなことを言う。


「なんで……? ですって?」


 当然、ひくひくと頬を震わせる和実。


 その様子に茜は、今がもう遅刻してしまう時間帯であることに気づき、全てを思い出した。

 そして、状況の把握を一瞬で終わらせる。


 ああ、そうか。心の中での納得の言葉は、口から外に出ることはなかった。

 自分の中で、解消されたわけである。


 待ち合わせの時間に遅れたのか……。それで和実が、家にまできてくれたんだね……。


 顔で全てを語っている茜。

 その茜の表情を見抜く和実は、「茜」――と、静かに言い放つ。


「はい!」

 

 反射的に、まるで軍隊のような返事の仕方をしてしまった茜は、

 ベッドの上で正座をして、和実の言葉を待つ。


「今は何時でしょう?」

「……八時、十五分を、越えてますね……」


「そうですね。では、待ち合わせの時間は?」


「八時、よりは前だったと、思いますね……」


 段々と、声が萎んでいく茜。


「そう!」


 和実は、部屋に響き渡るほどの音量の声で、叫ぶ。


「なのに、八時を過ぎても、十五分を過ぎても、茜は家にいる。

 おかしいなあ。おかしいよねえ。どういうことなのかな、これは」


 目が光っている和実。茜にはそう見えている。


 ゼロ点のテストが母親に見つかった時と同じ空気感を纏っている和実には、なにを言っても言い訳にしか取られないのだろう、と茜には分かっていた。

 素直に謝れば、許してくれる。――許してくれる? 

 まあ、和実はあまり感情を表に出さないし――いや、最近は結構、出てるなあ! 

 たくさん出てるよ。わたしに対しては、感情がばしばし向けられているよ!?


 最近の様子をあらためて思い出して、確認してみれば、そういうことだった。


 感情がないとか、どこの誰が言ったのか。全然あるよ、あるある!


 茜はそう文句を言うが、しかし、確かに和実は感情をあまり表に出さない。

 これは本当のことである。

 だが、茜がいる時だけは、和実は心を開くのだ。


 茜にだけは、和実は全てをさらけ出してもいいと思っているのかもしれない。

 そして、そう思わせているのは他でもない、茜自身だということに、茜は、気づいていない。


 だから、茜には分からない。


 和実にとって茜とは、離したくないほどに大切な存在なのだ。


 失いたくないほどに。だからこそ、厳しく。あえて崖に落とすことで、強く育てたい、という願望が、表に現れてしまっているのかもしれない。


 感情よりも前へ、前へと。

 でしゃばり、今の和実の大体を支配しているのだろう。


「ご、ごめんなさい! 今日は、あの……」


 言おうとして、しかし、言った言葉は言い訳にしか取られないとでも思ったのか、茜は、そこで言葉を止めた。


「ご、めん、ね……」


「…………」

 上目遣いの茜を見て――和実は少し、頬を赤くして、ぷいっと、部屋の壁面を眺める。


「いいわよ、もう。いいから、早く支度して」


「うん!」


 頷く茜。すぐにベッドから跳ねて、部屋の外に駆けて行った。

 顔とか髪とか、

 外に出るための最低限の清潔さを出すために、洗面所に行ったのかもしれない。


「はあ」

 溜息を吐き、ベッドに腰かける和実。

 朝から疲れた。そう思い、背中からバタンと倒れる。


 天井が遠くなる。手を伸ばしても届かないくらいに遠くなる。

 そして、手が、ぱたりとベッドに倒れた。

 このまま寝てしまいそうだった――いや、駄目だ駄目だ。

 言い聞かせるが、一度、横になってしまえば、眠気を抑えることは難しい。


 和実は、そのまま眠気に抵抗できず――ゆっくりとまぶたを閉じる。


 意識も閉じる。簡単に開かないように、しっかりと鍵をして。


 ―― ――


 一瞬だと思っていたが、時計を見てみれば、十分も寝てしまっていたようだった。


 もう完全に遅刻は決定である。それは、もう既に決定していることではあったが――。

 それに、覚悟していたことだったので、今更、悲鳴を上げることでもない。


 それよりも、茜。

 十分もあれば外に出る準備は出来そうなものだが――まあ、女の子だ。

 化粧はしないにしても、時間はかかるかもしれない。


 和実自身、あまり時間をかけないタイプである。

 だから、普通はどれだけ時間がかかるのか、まったく分からない。


 十分は、少ない方、なのかな? 

 思うが、しかし、なんにせよ、茜のところに行くべきだった。


 ベッドから腰を上げて、部屋から出る。

 階段を下りて、一階へ。

 茜の気配を探すが、居間にはいなかった。


 音がないので当たり前か――すると、耳を澄ませば、微かに音が聞こえる。

 音が聞こえないように、と抑えに抑えた、見つからないことを意図的にしている音であった。


 嫌な予感がする。 

 ちゃぽちゃぽ、と音がする。


 ゆっくりと、音の方に近づいてみる。

 扉を開け、そこは脱衣所。

 さっき、茜が着ていた服が、洗濯機に突っ込まれている。

 ここに茜がきたのは間違いない。なら茜の姿は――、


「…………湯加減はどうですかー?」


「うん、朝にぴったりの湯加減で、――あっ!」


 茜の声がしたので、もう確定だった。

 浴室の扉を開けた和実の視界に映っているものは、

 浴槽に肩まで浸かっている、茜の姿であった。


 沈黙。


 目と目が合う。

 数秒、二人はなにも言わず――言えず。

 しかし、先に言葉を開いたのは、茜の方だった。


「わ、わ――わたし、体が汚いんだから!」


 反響して何度も聞こえるその暴露に対して、和実は、ここは冷静に、冷たく返した。


「威張って言うことじゃない」


 本当に、威張って言うことではなかった。

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