In her Early Days

 群馬県伊香保市――。

 大型連休を過ぎ、温泉街も少し落ち着きを取り戻した平日の夜。僕は大衆劇場の近くにあるフィリピンパブの裏口に立っていた。簡易住宅を改装して造られたこの店は壁も薄く、店内から複数の男女の笑い声が聞こえてくる。それに比べて、店の裏口は平和だった。複数人の部下を引き連れた僕は、店の正面から突入する部隊の合図を待っていた。


 無線から「行くぞ」と目黒さんの低い声が聞こえた。僕は左手でイヤホンを抑えながら、右手で部下たちに合図を送る。一年近くを費やして捜査してきた集大成を、ここで潰すわけにはいかない。僕は先頭を切って裏口のドアを蹴破った。

 正面から入ったグループの怒号で、店内は悲鳴と喧騒、そして家具類がぶつかり合う音などでごった返していた。残念ながら裏口には人っ子一人おらず、店のフロアからこちらへと逃げてくる連中たちを待ち伏せすることしかできなかった。

 騒ぎ声が次第に大きくなってくる……僕たちは一度外に出て、ドアの前へ部下たちを左右に配置し、慌てて出てくる連中を抑えるよう指示した。僕はそのまま持ち場を離れ、店の脇に取り付けられた大きめの窓の前でピストル型のスタンガンを構えた。

 心の中で「いち……にぃ……」と数え、「さんっ!」と声を出したと同時に窓が勢い良く開けられた。スタンガンを構える僕を見て驚いたヒゲ面のオヤジは、上半身が裸の状態だった。


「よーし。片手でいいから、そのまま手を挙げて出てこい」

「か……かんべっ! 俺は客だ! み、見逃してくれっ!」


 ヒゲ面オヤジの背後では、続けて逃げ出そうと試みた男たちが「早く出ろよ!」と状況も把握しないで喚いている。なかなか外へ出ようとしないオヤジの様子を察したのか、後ろの連中は別の逃げ場を求めて走り去って行った――。


 正面にたむろしていた客や店員たちは、一人も逃すことなく確保することができた。裏口を固めていた僕の部下たちも務めを全うし、やや興奮した面持ちで「おらっ、早く歩け!」と吠えながら逮捕した連中を次々とパトカーへ押し込んでいた。


 あらかたの騒動が落ち着いた後、僕たちは改めて現場検証を始める。

 この店は、フィリピンパブと称して客に酒の提供をしながら、若い女の子たちに売春の斡旋あっせんをしていた。店のオーナーは日本人だったが、不法でフィリピンの若い女の子たちを入国させては「座ってるだけで稼げるぞ」とそそのかしてフロアレディをやらせつつ、羽振りの良い客が現れれば甘い言葉やおどしをかけて体を売るよう命令していた。

 もう店内には誰もいないと思っていた。僕はフロアをグルリと見回した後、ゆっくりと店の奥へ向かい、三つの個室をそれぞれ検分した。個室のドアを開ければ、表のフロアに漂う酒の匂いから裏の淫靡な臭いへと変化する……さっきの上半身が裸だったヒゲ面オヤジの泣きそうな顔を思い出した。

 この部屋には特に目ぼしいものは無かったので、二つ目の個室へと移る……ここも証拠となりそうなものは無かった。とはいえ、鑑識班が見れば何かしらの手がかりが出てくるのだろう。僕はなるべく場を荒らさないように部屋を出て、三つ目の個室へと移動した。


 ドアを開け、一歩踏み入れたところで、僕は小さな悲鳴を聞いた。

 その声は、部屋の奥にあるクローゼットの中から聞こえた。騒ぎの中、ずっとこの中で隠れていたというのか……それとも「隠れていろ」と指示されたのか。真意のほどはわからないが、中に店の女の子が入っていることは確かだ。僕は懐からスタンガンを取り出して、トリガーに指をかけながらゆっくりとクローゼットへ近づいた。音を立てないようクローゼットの取っ手の部分に手をかけて、一気に扉を引いた。撃つつもりは無かったが、一応スタンガンを構えて反撃にも備えた。


 僕の目の前には、女の子が二人で抱き合いながらしゃがんでいた。


 今日は休みだったのか、それともフロアで接客するような立場ではなかったのか、二人ともラフな半袖と短パンの格好で、髪は整えておらず化粧すらしていなかった。小刻みに震えながら僕を睨んでいたが、不意に一人が口を開いて「た、たすけ……て」と呟いた。


「日本語が話せるのか?」

「た……すけ……て」

「名前は?」

「…………」


 僕は上司の目黒さんを呼んだ。

 救護班も呼び寄せて、とりあえずは参考人として保護することにした。救急車に乗せられた時の二人の顔には、どことなく安堵の色が滲んでいたように見えた。


 二人とも日本語を話せたが、一人はまだスムーズに会話のできるようなレベルではなかった。それでも、素直に僕たちの取り調べには応じ、二人が日本へやってきた経緯も把握することができた。

 二人は姉妹と称していた。しかし、どう見ても背格好や顔の造形に姉妹のような雰囲気は見られなかった。DNA検査をすれば一発でわかるのだが、まだそこまでやろうという状況でもなかった。

 それともう一つ……二人は自分の名前も言えなかった。言えなかったというか、名付けられてなかったように思えた。ママと呼んでいた人物に連れられて日本へ来たと言うが、そのママは捜査対象の幹部で調査ではとされていた。もしかしたら二人は、生を受けてから親というものを知らないまま孤児として過ごしていたのかもしれない。便宜上、店の中では『私はリマ』と『私はアニム』で呼ばれていたようだが、これはタガログ語で数字の『5』と『6』を意味している。


 僕は目黒さんと相談して、二人を保護することにした。フィリピンへ送還しても、面倒を看てくれる人がいるとは思えない。ならば、家族として手続きを踏んでしまおう……そう決めた。まとめて二人の面倒を看ることはできなかったので、僕と目黒さんで一人ずつ手分けして成長を見守ることにした。

 日本語のレベルは低くても、優しげでお姉さんのような雰囲気を持った子に『ジェーン』と名付け、日本語も流暢で聡明な雰囲気を持った子には『マリア』という名を付けた。僕はジェーンを引き取り、目黒さんがマリアを引き取ったが、やがて彼女は目黒さんの元を離れ、その聡明ぶりを活かして独り立ちしていく……それが、二人の生い立ちだった――。

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