Have no Idea

 僕は、ひとまず探りを入れることにした。


 記念日らしきものは思いつかなかった。マリアの誕生日は、とりあえず七月の「海の日」にしてある。これは、彼女自身も産まれた日を知らなかったからだ。ついでに言えば、彼女の歳も具体的にはわからない。


 僕がマリアとジェーンに初めて会った頃は、二人ともまだ少女と言って良いほど幼い顔をしていた。子供とまでは言わないが、十代半ば……二十歳はたちまではいってなかっただろう。二人の様子からジェーンの方が少し年上に見えたので、ひとまず外事課で二人を預かった時にジェーンを二十歳、マリアを十八歳という設定にして、僕と上司の目黒さんの元で保護することにしたのだ。


 その日から五年。

 そして、ジェーンが亡くなってから八ヶ月目を迎えようとしている。マリアもすっかり大人の女性になっていた。今日の姿は、さらに拍車をかけて大人びていた。

 ゆるくウェーブのかかった長髪を、ミドルポジションでポニーテールにまとめた姿は実に僕好みだ。おくれ毛を絶妙にバラした感じも色っぽい。流行りのフレアスリーブが施されたライトブルーの花柄プリーツワンピースも、彼女の世代に相応しいフェミニンさで決まっている。白無地のスニーカーだって、これから水族館を歩く格好としてピッタリだ。


 とりあえず、水族館へ向かう前に僕たちは早めのランチをとることにした。駅ナカのファーストフード店にしようかと思っていたけど、マリアの「特別な日」という言葉を意識して別のところに変更した。同じ駅ナカにイタリアンの『ナポリチョーザ』があって良かった。


「私は、ペンネのおこりんぼうにしようかなぁ。フタヒロは?」

「そうだね。僕は、このウィッチ風チキングリルにしてみるか」

「イタリアンなのに、ピザとかパスタにしないんだね」

「なんとなく、ウィッチ(魔女)風とか言われると気になってね」

「へぇ、フタヒロって魔女が好きなの? こんどコスプレしてあげようか?」


 僕は飲みかけていた水を「ぶっ!」といてしまった。想像の範疇はんちゅうで実際に見たことは無いけど、マリアのコスプレは洒落にならない。魔女の恰好で目の前に現れたら、すぐに理性が飛びそうだ。せながら「ま、まだ、そういうのは止めておこう」と言って、その場を誤魔化した。


 食事を済ませ、デザートの「バニラアイスのブルーベリーソースがけ」も堪能した僕たちは、次の水族館へと歩き始めた。


「あのデザート、ブルーベリーのソースがあったかくてビックリ!」

「冷たいアイスに温かいソースをかけるのって、けっこう海外では見かけるみたいだね。ほどよく溶けたアイスが濃いめのソースと混ざって、絶妙な味わいに変化するんだよ。あの店に行ったら、僕は必ず頼んでるんだ」

「ふーん。そうやって、ナンニンノオンナノコヲ泣かしてきたのかな?」

「なんで急にカタコトの日本語になるんだい?」

「さぁねー」


 マリアの腕がスッと僕の腕に絡みつく。

 今日の僕は少し緊張していた。先日、都梨子とりこと会った時に受け取った調査資料が頭に浮かぶ。あの写真……事務所を出るマリアは素知らぬ顔だったが、奥で隠れるように写っていた琥珀こはくは間違いなくマリアを見ていた。


「なぁ、マリア……」

「ん?」


 突然「琥珀こはくという女を知っているか?」と聞く誘導は、相手によって効果が変わるものだが、マリアに対してどうかと言えば期待は薄いかもしれない。でも、僕は何かの弾みで琥珀あの女の話題を振りたかった。何か知っているかもしれない……いや、知らないでいて欲しい……知っていたとしても話さないで欲しい……あぁ、いったい僕は何を欲しがっているのだろう?


「どうしたの?」

「いや、何でもないよ。ほら、水族館に着いた!」


 僕は絡みついていたマリアの腕を解き、手を繋ぎなおして歩いた。

 彼女の手は温かかった。


 水族館は何年ぶりだろうか……子供の頃の記憶しか無い。大きな水槽に種類豊富な魚たちが泳いでいるイメージだったが、今の水族館は小窓から覗くタイプの水槽が点在し、その中に種類別の魚たちがテリトリーをおびやかされることなく平和に暮らしているようだった。


「フウセンウオだって! ぷっくりしてて可愛い!」

「そうだねぇ」

「チンアナゴって、ずっと同じ格好なのかなぁ?」

「疲れないのかね。潜って横になったりした方が楽そうだけど」


 そんな解釈は、チンアナゴたちにとったら大きなお世話かもしれない。砂からニョキっと体を出して、ゆらゆらと水の世界を揺蕩たゆたううのが一番のリラックスなんだよと口をパクパクさせて喋っているようにも見えた。

 小さな水槽の中には一種類の魚しかいないのかと思っていたが、どうやらそれも解釈違いだったようだ。チンアナゴそのものだって色や柄が違う。説明文を見れば、ニシキアナゴとかホワイトスポッテッドガーデンイールとか、思ったよりもややこしいじゃないか。そのほかにも、細長い楊枝のような形をした魚がチンアナゴをツンツンと突いている。砂の上には、小さな貝が動いていた。どちらも藻類を食べてくれる掃除屋らしい。


「あっ! チンアナゴが泳いでる!」

「どこ? あぁ、本当だ。小さなヘビみたいだね」


 想像以上に癒しの効果が絶大だ。水族館って、こんなに楽しい施設だったとは思わなかった。マリアも喜んでいるし、ちょっと別の水族館も行ってみたくなる。

 一通り楽しんだ僕たちは、水族館を出てカフェで休憩しようということになった。ここの施設は展望台もあって、街を一望できるというカフェが人気スポットの一つにもなっている。今はまだ明るいが、夜景の見える時間帯になるとカップルがどっと集まり、絶妙に設置された二人掛けのソファが満席になるほどだった。


「すっごい楽しかったね!」

「あぁ、こんなに癒されるとは思わなかったよ。他の水族館も行ってみたくなるな」

「今度、クラゲだけ展示してる水族館に行かない?」

「そんなのもあるの?」


 マリアはフィリピン生まれのせいか、海にまつわるものが好きだった。

 フィリピンはダイビングの盛んな国だし、きっと日本では見られない珍しい魚とかもいるのだろう。彼女と一緒にダイビングっていうのも悪くない。

 マリアに「ダイビングとかはやるの?」と聞いたら、意外にも「泳げない」という答えが返ってきた。子供の頃に、海で溺れたことがあったようだ。ビーチへ吹き込む海風や熱帯魚は好きだけど、事故に遭ってからは海に近づかないようにしていると語ってくれた。

 長い間、家族同然で接してきたつもりだが、まだまだマリアについて知らないことは多い……まぁ、ジェーンのこともそうだったけど。


 だいぶ日も傾き始めてきた。

 僕は「どうする? このまま夜景でも見ていくかい?」と聞いたが、マリアは「ベイエリアまで行きたい」と言い出した。ここからベイエリアまでは、車でも電車でも同じような所要時間で行けるが、施設の横を流れる川に沿って水上バスが出ているのを思い出した。僕は「じゃあ、あれに乗っていく?」と、席から見える桟橋さんばしの方を指差した。


「気持ちいいー!」

「思ったよりスピード速いね。寒くないかい?」

「うん! 大丈夫。見て! 綺麗だよ!」


 黄昏どきのビル群から、点々と小さなライトが光り始めた。その奥ではオレンジから赤へと映える夕陽のグラデーションが流れ、見ていて飽きることのない景色が広がっている。寒くないとは言っていたが、僕は羽織っていたジャケットをマリアの両肩に被せて寒風から守った。


「川を下ると、あっという間にベイエリアまで着いちゃうね」

「こんな移動手段があったとはねぇ。運賃も安いし、天気のいい日なんかはコレで移動するのも悪くないな」

「あー、フタヒロだけずるーい! 乗る時は私にも声をかけてよね」

「仕事で使うんだぞ。遊びに行くわけじゃないんだから」

「じゃあ、私も探偵になろうかな。あ、助手でもいいよ。ワトソン君みたいに」

「今の仕事はどうするんだよ?」

「自営業みたいなもんだから、いくらでも融通は利くわよ」


 助手か……確かに、僕一人では限界があるからなぁ。都梨子とりこの調査結果次第では、助手として手伝ってもらうことも視野に入れておこう。そうこうしているうちに、水上バスは終点のベイエリアへと到着した。


 海浜公園と名付けられた人口的なビーチにも、ここから見える街の夜景を見て愛を語り合うカップルが何組かいた。僕もマリアもスニーカーだったので、砂地など気にもせず波打ち際まで歩いた。


「フタヒロ、今日は楽しかったよ!」

「僕もだよ。ありがとう」

「……夜景、綺麗だね」

「そう……だね」


 僕はまだ、とても大事なことを解決していなかった。マリアの言ってた「今日はフタヒロとの特別な日」という謎が残ったままなのだ。いい雰囲気なので、何事も無かったように特別感だけを与えて今日を終えてもいいかと考えたけど……いつ「何が特別だったかわかってる?」とか聞かれると怖い。


「フタヒロ……」

「うん?」


 不意にマリアの歩みが止まった。僕は振り返って「どうしたの?」と、うつむきかけた彼女の顔を覗き込んだ。顔を上げた彼女は、もう一度「フタヒロ……」と細い声を出して目を閉じた。


 考えてもダメだ。僕は悩むことを諦め、意を決してマリアの口元に左の人差し指を添えた。思っていた感触と違う反応をした彼女は目をパチっとさせて、少し怒ったような口調で「もーう」とぼやいた。


「ごめん」

「……私は、ジェーンがフタヒロの中に残っていても平気だよ」

「いやっ! 違う、そうじゃないんだ! ごめんって意味がそうじゃなくって、ほんとごめん。えっと、何を言ってるんだ僕は……」

「なによー? 私じゃなくて、別に好きな人でもいるの?」

「違うから! どうしても知りたいことがあるんだよ。その……ごめんな、本当にわからないんだ。マリアの言ってた特別な日っていう意味が」


 僕は観念した。

 すると彼女は、さもありなんという表情でクスクスと笑い出した。


「マリア?」

「ふふふ……やっぱ、わからないよね。前から言ってたわけでもないし、あの時のフタヒロは私に興味なんか無かったし」

「え? それって、どういう……?」


 マリアに興味が無かった頃の僕? でも、ジェーンに夢中だった頃の僕を言っているわけでもなさそうだ。となると、初めて二人に出会った頃のことを言っているのだろうか……やはり謎だ。


「大丈夫だよ、わからなくて当然だから。私だけの……個人的な記念日なの」

「…………」

「今日はね、フタヒロが私とジェーンを助けてくれた日なんだ」

「…………!」


 今日だったか……フィリピンパブを拠点にした売春グループの本店へ押し入った強制捜査の日。摘発した連中は過去最大の人数だったこと、グループを仕切っていたボスも逮捕できたこと、不正入国で隠れていた女の子たちの中にジェーンとマリアがいたこと。他にも印象深いことが多かった日だが、ことは覚えていなかった――。

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