問い弍

Jane and Maria

 電車の中で耳を澄ましていると、色々な会話が耳に飛び込んでくる。僕はドアの端に寄りかかって、向かい側でたむろしている小学生の会話を聞いていた。


「チャッピー知ってる? チャッピー。え? お前、チャッピー知らないの?」

「知らなーい」

「知らないの? 人形に怨霊が宿って人間をナイフでぶっ刺すんだぜ」


 電車で通う制服姿の小学生って、ちょっとセレブリティな印象がある。ランドセルまで輝かしい……でも、そのランドセルが電車の揺れで僕のお腹に何度もジャブを放っていることくらいは気づいて欲しい。「チャッピー」を連呼している男の子は、今もなお熱心に『チャイルドプレイ』という映画の恐ろしさを語り続けていた。昨日の夜にネット配信で見たと言っているが……そういうところも、セレブリティだなと思ってしまうのは、僕の偏見だろうか。小学生なのにネット配信で映画を観てるとか、これが今時なのか?


 ついでに言うと「チャッピー」ではなく「チャッキー」だから……と、突っ込みたくなっている周りの大人は僕だけではないだろう。視線の先にいる吊り革のサラリーマンも、何か言いたそうな表情をしている。しかし、小学生たちは無邪気に「チャッピー、チャッピー」と騒いでいた。


 僕が降りる一駅前で、小学生の軍団はゾロゾロと降りていった。急に車内が静寂に包まれる……薄かった空気まで補充されたような気がした。窓際へ貼りつくように立っていた僕は、ほぅっと一息いて体勢を整えた。

 スマホを取り出し時間を確認していると、不意にメッセージの着信が割り込んできた。メッセージはマリアからで、短く「おはよう!」と届いた後に、すかさず「今、電話していい?」と投げてきた。僕は「もう少し待って」と返し、電車が目的の駅へと到着するのを待った。


「もしもし、お待たせ」

「おはよ、フタヒロ! 珍しく朝から仕事?」

「そうそう、珍しくね……って、こーら。僕だって忙しいんだぞ」

「ごめん、ごめん。今日はどんなお仕事なの?」

「来週から始める調査の下見だよ。場所の把握くらいはしておこうと思ってね」

「ふーん、さすがフタヒロだね! かっこいい!」


 さらっと「かっこいい」とか言われると、電話越しでも照れてしまう。こういうカラっとした彼女の性格も、好きなところの一つだ。


 マリアはフィリピンから来た子だった。

 十代の頃から日本へやってきて、熱心に日本語を学び続けていると言っていた。それを裏付けるかのように、彼女の日本語は流暢りゅうちょうだった。まだ僕との付き合いは短く、二人ともぎこちなさが目立っていたが、少しずつ前へ進んでいこうという気持ちは互いに持っていた。


「仕事は何時に終わりそう?」

「そうだな、下見だけだから昼過ぎには帰ろうと思っているよ」

「ほんと!? じゃあ、三時頃にはそっちに行ってもいいかな? 夕飯をフタヒロの家で作ろうと思ってるの」


 一瞬だけど、僕の脳裏にチャッキーが包丁を振り上げている姿が映った。いかんいかん、僕の家に来るのは、チャッキーでもチャッピーでもなくマリアだ。さっきの小学生たちの会話がインパクト強過ぎて、おかしな映像が頭に浮かんでくる。


「それは楽しみだね。ちなみに何を作ってくれるんだい? 足りない材料があれば、帰りに買ってこようか?」

「玉ねぎある?」

「うん」

「ジャガイモは?」

「あるよ」

「あと、鶏肉はどう?」

「モモなら冷蔵庫に入ってた気がする」

「じゃあ、大丈夫! あとは重くない食材だから私が用意するね」

「オーケー。昼を過ぎれば僕も自由に動けるから、途中で買い足したいものがあったら連絡してくれ」

「ハーイ! んじゃ、お仕事頑張ってね」


 電話を切った後、すぐにマリアから大きなハートマークのスタンプがメッセージで届いた。僕はそれを見て、フッと目を細めながら独りごちる――。



「……カレーだな」



 職業柄、ついつい余計な推測をしてしまう。マリアの言う材料から導き出される献立はカレーだけではないが、なんとなく言葉の端々はしばしから「カレーだよ、カレー!」とひらめくのだ。

 マリアが僕の家で手料理を振る舞うのは、今に始まったことではない。彼女とは恋人になる前からの知り合いで、僕が前に付き合っていた相手のことも知っている。その時から、彼女は僕の家に遊びに来て、三人でご飯を作ったり食べたりしていた仲だった。


 僕がまだ警視庁の外事課に勤めていた頃、ちょっとしたえんでマリアと前の恋人ったジェーンに出会った。当時の二人は姉妹だと言っていたが、外事課の中でも不法滞在者に対する取り締まりを長年やってきた僕にそんな嘘は通用しない。それでも僕は、信じたフリをして二人の身柄を引き取ることにした。

 僕は二人よりも歳が離れていたので、娘でも養うかのような姿勢で接していたのだが、やがてマリアの姉と称していたジェーンを愛するようになった。いつしかマリアも、働き先のホテルで料理人をしていた男と恋に落ち、それぞれが幸せの人生を歩んでいくはずだった。


 半年前、ジェーンは何者かに殺され、家から十キロ以上も離れた人気ひとけの無い河川敷に捨てられてしまった。捜査は難航し、今も解決に至っていない。ジェーンを失い、生きる気力さえも失くしかけていた僕は、しばらく休暇をもらって休んでいたが、結局は復帰することなく警視庁を去り、今の探偵業をやっている。


 探偵とは言っても、特別な事は何もしておらず、気儘きままにペット探しや浮気調査などの依頼を受けているだけだった。時々、ジェーンの事件を思い出しては、過去の資料を引っ張り出して読みふけっていたが、そこから何かが進展するといったような事も無かった。

 そんな生活を続けて二ヶ月くらい経った頃、突然マリアが僕の前に現れた。勤め先も少し前に辞め、今はつちかってきた日本語の能力を活かして、フィリピンから日本へやってくる観光客向けのツアーコンダクターのような仕事をやっているらしい。もちろん、ホテルの料理人をやっていた彼とも別れたと言っていた。


「えへへ、独りぼっちになっちゃった」


 唯一の身寄りだったジェーンを失い、どういう経緯か知らないけど勤めていたホテルと彼氏までも失ったマリアが言うと、僕もまた同情とは違った奇妙な仲間意識が芽生えてしまう。だからと言って、すぐにジェーンとの思い出を断ち切ることはできなかった。もちろん、マリアもそれをわかっていた。だから僕たちは、歳の離れた兄と妹のような距離感で同じ時間を過ごすことから始めることにした。


 電車が目的の駅へ到着した。

 開いたドアから一斉に駆け出る通勤の乗客を見届けてから、僕はゆっくりとホームへ降りた。一度は改札を出て、調査をしに現場へ向かおうと出口を抜けたが、クルリときびすを返して再び改札を通り抜けた。彼女が僕の家に来て料理をするなら、色々と準備をしておかなければならないことがあったからだ。

 大まかな食材は彼女が買ってくるとして……細かな調味料や、カレー以外のメニューも作るとなった時に必要な食材も、ある程度は揃えておかなければならない。なるべく段取り良く料理が進められるよう、必要な調理器具のたぐいも手に届く位置へ配置しておかなければ! あとは何だ? 何か見落としているものはないか?


 包丁は……なるべく使わせないよう、紐を引っ張るだけでみじん切りができる『びゅんびゅんチョッパー』を出しておこう。そうだ、もしもの時に予備の『びゅんびゅんチョッパー』も今から買いに行っておこうか。


 さぁ、午前中から忙しくなるぞ――。

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