Make up My mind (Prologue)

 僕は仕事を選んだ。


 彼女の我儘は今に始まったことじゃない。それに、彼女は僕の仕事の大変さを十分に理解していた。だから、いつものように仕事の後で彼女の部屋へ寄れば必ず許してくれた。どんなに遅い時間でもドアを開けてリビングを覗いたら、彼女はパジャマ姿で僕を待っていてくれた。

 一人暮らし用の小さなテーブルには、いつも深さのあるガラス製のボウルが乗っていて、中で未開封のポテトチップスが僕に開けられるのを待っていた。椅子に座るとウキウキとした顔で冷蔵庫から缶ビールを取り出し、グラスに注いで「お疲れさま」と言う彼女。テーブルを挟むように置かれた自分の椅子を僕の横にまで持ち寄り、二の腕でグイグイと僕を押して甘えてくる姿は仔猫のように可愛かった。


 飲んでいる間にも、分かれ道で争った問答の続きが行われることが多かった。彼女は僕を困らせたかったのだろう。僕の困った顔を見るのが好きだったんだろう。聞きたい答えを引っ張り出すまで、彼女は色々と言い方を変えて僕に迫っていた。


 ――仕事は小事、君は大事。


 こんな言い回しじゃ「何それ?」と言われてしまうだけだから口には出さなかったけど、ほろ酔いで思考が曖昧な状態から「あたしと仕事、どっちが……」と彼女が問いかけてくるようになってくれば、僕は「もちろん、キミに決まってるだろ」と抱き寄せるようにして応えていた。そこで彼女もご満悦となり、問答も立ち消えとなる。

 あとは、彼女の仔猫のような甘えっぷりに、僕も癒されるだけだった。


 あの日もそうだった。

 僕の思惑通りに事が進み、彼女も満足してくれるだろうという自信があった。これを過信と言うのならば、僕は神を……いや、僕自身を恨むしかない。


 いつもの分かれ道。右に曲がれば職場への道、左に曲がれば彼女の自宅。

 いつものように、僕は仕事を選んだ。

 いつもよりかは、早い時間に彼女の部屋で一緒に晩酌ができる算段だった。

 だから、僕は寄り道をした。


 彼女の好きなプリンを持って、さらに機嫌を良くしてもらおうと思っていた。どんなに残酷な二択を僕に突き付けようが、このプリンがあれば、彼女は腕組みをして二の腕をトントンと叩く姿を見せずに、その二の腕を僕に押し付けて甘える仔猫と化すのだ。


 彼女の部屋が見えてきた。歩く速度を上げて、外から彼女の居る部屋の様子をうかがいながら近づいたが、この時は少し様子が違っていた。部屋の明かりがいていなかったのだ。帰っているはずなのに帰ったという雰囲気が見られなかった。合鍵で部屋の中に入るも、やはり帰ってきた形跡が無かった。僕は冷静に努めながら、部屋を出て心当たりのある場所を探し回った。しかし、ついに見つけることができないまま夜が明けてしまった。お土産のプリンは、探している間にどこかへ置いてきてしまったようだ。


 午後になり、僕は職場の仲間からの電話で不明だった彼女の行方ゆくえを知った。彼女は家に帰ることもできずに、帰らぬ人となってしまっていた――。




 三ヵ月後、僕は気持ちに整理をつけて久しぶりに外の空気を吸った。

 この日までの僕は、どこで何をしていたのか記憶が定かではない。記憶することすら億劫おっくうで、あらゆる思考力と行動力が停止していた。誰の力も借りることなく、よくぞここまで立ち直ったものだと自分を褒めたい。いや、きっと彼女が僕に力を貸してくれたのだと思う……そう思いたい。


 そして僕は今、再び人生の分かれ道に立っている。

 右に曲がれば職場復帰への道、左に曲がれば彼女のいない思い出の部屋。


「ねぇ、関川君、ここでハッキリさせて。あたしと仕事、どっちが大事なのよ?」


 彼女の声が聞こえたような気がした。

 僕は左に曲がって、彼女の住んでいた部屋へと歩を進めた。途中、職場へ電話をかけて、上司に「復帰はしないまま辞める」ことを告げた。昔から理解のあった上司は「困った時は、いつでも連絡しろよ」と静かに応えて、今まで彼のチームが集めてきた彼女の殺害事件に関する情報をつぶさに伝えてくれた。

 僕は、その情報を基に、これからの人生を捧げていこうと決めた。



 【警視庁公安部 外事第二課 課長代理及び特命企画室室長 関川二尋せきかわふたひろ



 僕は過去の肩書を捨て、ただの探偵となった――。

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