第8話 勝ちたくはないか?

「え?」


 ――勝チタクハナイカ?


 背筋にゾクリとしたものが走り、つづりはピアノマンを見つめる。だがそこにあるのは、先ほどの強い意志が嘘のような穏やかそうな微笑だった。

 なのに放たれた一言は耳朶に残り続け、つづりの底にあるものにゾワリと触れてくる。


「勝ち負けって……音楽ってそういうものじゃないでしょ?」


 とっさに口から飛び出したのは、怖気から逃れるための言葉だった。


「ただ音楽を聴くのなら、良さを判断するのは人それぞれだね。でも『アイドル』は違う」


 ピアノマンの瞳がつづりを射抜いてくる。

 口先だけの言葉は通じないぞ――そう言われているようだった。


「売上、ファン数、人気、ライブバトル……いくらでも白黒つけることができる。明確にアイドルに――に勝つことだってできるんだ」


 ピアノマンがふと顔を上げる。つづりもその視線を追えば、駅前のモニターがアイドルたちのライブバトルを映している。

 華やかな衣装に身を包み、いっぱいの笑顔で歌唱を披露する乙女たち。


 ――アイドルやつらなんかに、負けるか――!


 いつも思っているつづりの気持ちを、この男は的確に逆撫でててくる。

 チリチリとした感情が胸の奥を焦がし、つづりは一度大きく喘いだ。


「……なに、言ってるのよ」


 呼吸を整えながら飛び出したのは、あくまで抗う言葉。

 これもきっと、スカウトするための方便だ。向こうはプロなんだから言葉巧みに誘うことなんて、想像できる。


「……もう一度聞くよ。君は、勝ちたくないか?」


 だが、ピアノマンはつづりの呟きには答えず、同じ問いかけをする。


「勝つなんて……でも、そんなの矛盾してる」

「そうかい?」

「そうよ。だって私がアイドルになったら勝つのだってアイドルでしょう? それじゃアイドルに勝つ、なんてできないわ」

「ああ、確かにその通りだね」


 こんな屁理屈なのにあっさりと頷かれてしまう。

 なぜ、という疑問がつづりを頭によぎるが、その答えはすぐにわかった。


「でも、勝つのはアイドルじゃないよ」

「じゃあ、なんだって言うのよ」


 この男は、アイドルに勝つなんてみみっちいことを考えていない。  


「――この『世界』に」


『アイドルがはびこっているこの『世界』に勝ちたくはないかい?』


 ――まただ。またこいつは、私の底をゾワリと撫で上げてくる。


「どうかな?」

「……大言壮語だっけ、そういうの?」


 つづりは、冷静に考えようとしている。

 いくら自分の心を見透かされたようなことを言われても、それであっさり膝を折るほど、単純ではない。


「僕が、できもしない威勢のいいことを言ってると?」

「当然よ。規模が大きすぎて背伸びどころの話じゃないわ。だいたいアンタ、私に『弱点がある』って言ってたじゃない」


 そう明言していたのに、次には今の世界を変えようと言われたところで現実感はゼロだ。


「うん、でも君はやり遂げられると思うよ」

「……は?」


 恐ろしくあっさりと言ってくる。

 すべてが何一つ疑問のないもののように、昼が去れば夜が来るように。


「せっかくだ。君が『弱点』ぐらいじゃ、決して負けないことを教えるよ」

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