第4話
「なんてうまいステーキなんだ!」ある男が興奮しながら言う。「俺は今までこんなにうまいステーキを食べたことかないよ。俺は今までこんなにうまいステーキを食べたことがない! というか思い返してみると、俺は今までまともにステーキという食べ物を食べたことがないかもしれない。俺はそういえばこれまでちゃんとステーキを食べたことがなかったよ。俺がこれまでずっと食べてきたものは牛や豚の細切れだ。あれはそうだ細切れだ。細切れに違いないんだろう。こんなに大きくて分厚い肉なんて食べたことがないよ。本当にステーキがこんなにもおいしいものだったなんて。ここまでわかりやすくも一瞬で人を幸せにしてしまう力のあるものだったなんて! 誰か教えてくれれば良かったのに。俺がこんな年齢になってしまう前に、早く誰かがこのステーキのことを俺に教えてくれれば良かったのにな。いやステーキを今までに一度も食べたことがないというのは言い過ぎか」男は続けて「いやさすがに食べたことがあるだろ。今まで生きてきた中で、ステーキのひとつやふたつくらいは俺だってさすがに食べたことがあるよ」彼はさらに続けて「食べたことくらいはあるだろうよ。だって確かに俺の育った家は特別裕福ってわけじゃなかったけど、かといって特別貧乏ってわけでもなかったんだ。とりあえず普通だったんだ。とりあえずは普通くらいには経済力のある家だったんだ。俺の親父は何かの事業をしていたり、または何らかの資産を持っていてそれらを大事にしているってわけでもなかったけど、でも真面目に毎日外に働きに出て家にお金を入れていたんだ。俺の親父は立派な勤め人だったんだよ。だから普通にあるはずさ。俺がステーキを食べたことがあるかないか。この問題の答えは、きっとあるで間違いないとも。でもこんなにうまいステーキを食べたことは初めてだ。こんなにうまいステーキがこの世界にあるなんてことは、俺は本当に今まで知らなかったな」
「おいしいんだったらいいじゃない! おいしいんだったら、そんなにペチャクチャペチャクチャ喋ってないでさっさとそのステーキを食べきってしまえばいいじゃない!」店内のカウンター側に突っ立っていたウエイトレスの女が言う。「急に大きな声が聞こえてきたからビックリしたじゃない。ええ私はビックリしましたとも。私はあなたの声にビックリしましたよ。本当に何事かと思ったんですもの。何事かと思ったんだよこのくそ野郎が! こんな何の変哲もない店、どこにでもあるような、だからこそどんな人でも利用できそうな店にやってきてさあ、あんた本当にさっきから何を言っているんだい? あんたさっきから何言ってんの? ステーキがうまいとかステーキを食べたことがあるとかないとか。そんな話はどうだっていいでしょ! あんたにはどうでもよくないことかも知んないけどさ、少なくとも私にはどうでもいいわけ。それにここはステーキの専門店ってわけじゃないんだよ。料理も出すけど、どっちかというとここは喫茶店みたいなところなわけ。喫茶店として利用してくださるお客様でほとんど店内の席はうまっていくわけ。なのにあんたさっきからそんなところでさあ、大しておいしくも珍しくもないステーキにかぶりついて『うまいうまいこりゃうまい』ってやってんだもの。何か変な催し物でも始まったかねと思うわね。きっとここにいるみんなそう思ったと思うよ。ああ変なおっさんがわけのわからないことを言ってらあって思ったに違いないよ。それだけあんたは一人ぼっちでこの店の雰囲気から浮いてるよ。はっきり言って浮きまくってるよ。あんたきっと仕事の出来ない人なんだろうねえ。たとえ仕事が出来たとしても、でも絶対に他人からは慕われてない人だよ。だってあんた取っつきにくそうだもん。いろんなものにさ、なんか自分のこだわりとか持ってるタイプなんじゃないの。あんたあれじゃないの、自分の部屋とかには絶対に他人を入れることが出来ないような、極度の潔癖症みたいなところのある人じゃないの? 潔癖症じゃないにしても、でも絶対に他人に話すと引かれるような変わったこだわりとかあるでしょ。こだわりとか趣味とか絶対あるに違いないよ。あんたのネットの閲覧履歴とかもうプンプン犯罪の匂いがするねえ。聞きたくないよ、あんたのそんな自分の話なんて聞きたくないよ。さあそのステーキを食べたらとっとと店を出て行くんだね」
「うますぎて全然食べられん」男が言う。「まったくこのステーキときたら。ステーキときたら! おいしすぎて量をもうこれ以上減らしたくないからまったく手がつけられんよ。もうこれ以上私はこのステーキにナイフとフォークをつけたくないんだ! だってこれ以上にこのステーキを私が食べ進めてしまったら、私の目の前からこのステーキはなくなってしまうんだからね! でもまあ食べ物ってだいたいそうか。世の中にある食べ物ってみんなそういうものだよね。気にし過ぎは良くない! そういう当たり前でどうでもいいことを気にしすぎるのは良くないよ! そんなことを本気で考えていたら、いつか頭がおかしくなってしまうんだ。頭がどうにかなっちまうんだよ。もっと健康的に捉えよう。この世の中というものを、我々はもっと健康的に捉えなくちゃならないんだ」
「私の夢は舞台女優になることよ!」カウンターの向こう側の女が言う。「急に告白するけれども、実は私の夢は小さい頃から舞台女優になることなの。舞台女優になって物語の世界に生きることなのよ。私は別に今のこの生活に不満があるってわけじゃないけど、でもその意味まではわかっていない。その意味を自分なりにでも見いだして、かつそれに納得して生きているわけじゃない。仕事がつらいってわけじゃないのよ。このウエイトレスの仕事はウエイトレスの仕事で楽しいの。さっさとステーキを平らげろこのハゲオヤジ! あんたなんかはハゲオヤジよ。見た目通りのハゲオヤジってわけなんだわ。ああ早く舞台女優になって自由に生きたい。私はあの小さな舞台の上でこそ自由に生きたいのよ。なるべく小さな世界で活躍したいの。私にはこの世界は広すぎるわ。世界中に私の暮らせる場所がどれだけあるかわからない。それなのにどうして今私はここにいるの? どうしてずっとここにいなきゃならないってわけなの? 舞台女優だったらそんなこと悩まなくていいのに! 私が舞台女優だったなら、きっとそんなことには考えを巡らせないことでしょうね。もっとほかのことを考えて生きているはずよ。え、たとえば何かって? たとえばそうね、このスカートの広がりはもっと押さえた方がいいかしらとか、それとか頭のリボンをもっと控え目にしようかしらとか。だってそんなこと現実の世界でやったって、そこはそもそも何もかもが自由じゃない。誰も私のことなんか見てくれないわよ」
「お前こんなところでなにのん気にステーキなんか食ってやがんだこらっ!」急に店内にいかついスーツ姿の男が乗り込んできて、そしてさっきまでしゃべり倒していた男の胸ぐらを掴んでさらに続ける。「てめーさっきから何してやがんだ。てめーは本当にさっきからこんなところで何してやがる! のん気にステーキなんか食ってる場合じゃねーだろこの野郎! もうすぐお前の舞台が始まる時間だぞ! お前はその舞台の主演なんだぞ。主演俳優なんだぞ。もっと舞台のほかの仲間を引っ張っていこうとか、自分がリーダーだからがんばらないといけないとか、そういう心意気はねえのかよ。そういういい話はねえのかよ。まったく何なんだてめーは。てめーは! こっちが触れれば触れるほどナヨナヨしてくるタコみたいな体をしやがって! もうお前みたいな奴とは話もしていたくないよ! お前の言い訳なんてこっちは聞き飽きてるんだ。さあもう舞台の時間だぞ。楽屋に戻って衣装を着る時間だぞ。いつまでもステーキを眺めていないで、さっさと観念するんだな、このおたんこナスが」
そして男はスーツ姿の男に首根っこをつかまれて店外へと連れ去られて行った。その一部始終を店内で見ていたジョエルは思う。「俺にはわけがわからない。今俺の目の前で何が起こったのかなんて俺にはわからない。わからなきゃいけないのにな。わからなきゃいけないのにな。だって俺が俺なんだから、そんな俺の目の前で起こったことは、やっぱり誰よりも俺が理解しなくちゃならないのにな。しかしあっという間だったな。あっという間だったよ! スーツ姿の男が店内に乗り込んできて来たかと思ったら、そのすごい勢いのままに男を罵って、そして彼の首根っこを抑えて彼を店外へと引きずり出してしまうんだからな。これにはカウンターの向こう側のウエイトレスの女も度肝を抜かれたことだろう。俺とまったく同じく『いま何が起こったの!』と混乱していることだろうな。そういえば彼は舞台俳優なんだってさ。舞台俳優なんだってよ? さっき舞台女優になりたかったとはウエイトレスの女の発言じゃないか。散々男のことをバカにしたあとで、実はそいつこそ自分の憧れている舞台関係の人だったなんてな! しかもスーツ男の話によれば、彼は主演らしいじゃないか。リーダーシップがどうたらとか言ってなかった? もっと周りを引っ張っていかないと、とか言ってなかった? 言ってたよね。まったくそんな人のことを適当に蔑んでしまって、今のウエイトレスの女の心情ってどんなもんだろう。後悔とかしてるのかな? しかし後悔しているとして、それはたとえぱ何に対して? 舞台俳優だった男にそうとも知らずに罵ったこと? それとも自分の憧れの存在も、結局はスーツ姿の男に首根っこを捕まえられるしかない人生を送っている現実を知ったことに? そういうことも知らずにずっと憧れを抱き続けてきてしまった今までの自分に? だとしたらやるせないよね。仕方ないことだけどでももっと今の彼とは違う舞台俳優もいると思う。スーツ姿の男にも屈しないで、好きなだけ自分の自由な時間を過ごしている人だって大勢いると思うよ。それに舞台といったって、いろんなジャンルとかあるし。きっとあの男はあんまり人気のない、独りよがりで見る人をとにかく選ぶような高尚な舞台の俳優だったんだよ」
「私舞台女優のほかにも看護師さんになりたかったのよ」ウエイトレスの女が一人で空中に向かって言う。「看護師ってあこがれの職業よね。看護師ってあこがれの職業じゃない? 私にとってはあこがれの職業だったわね。少なくとも私にとってはあこがれの職業だったわよ。だって誰にでも出来る仕事じゃないわ。いろいろな人のお世話とかもしなきゃならないし、何より弱っている人を助けなくちゃならないんだもの。それをできる人はきっと強い人よ。だから私本当に舞台女優にもなりたかったけど、現実的な進路とかを考えると、いつも看護師がいいなって思ってたの。それだったら母親や父親も応援してくれるしね。もちろんきっかけもちゃんとあるの。私が看護師さんっていいなって思ったきっかけを今から話すわね。私、実は小さい頃に入院してたの。心臓が弱くて、何回か手術をしなくちゃならなかったの。それでそのときに出会った看護師さんがとっても魅力的な人だったの。その人ってね、私と二人きりになると、同僚の悪口とか先生の悪口とかをみんな私に言うのよ。みんな全然関係のない私に言って、それで自分はすっきりして部屋を出て行くのよ。いつの日かなんかは確かタバコを吸っていたわ。そういえばあの人って、ついに患者である私の前でタバコを吸ってたわね。そのときってまだ私小学生よ? 小学生の患者の前で自分がそのとき吸いたいからってタバコなんか吸っちゃダメじゃないのよね? てかそれを言うなら病院で吸っちゃダメよね。本当に今思い出してもあの人はとんでもない人だったわね。大人という枠組みで考えたらあの人は普通にアウトな人だったわ。でも自由だなって思ったのよね。私はその彼女のことを見て自由だなって思ったの。その人のことを自由だなって感じたのよ。タバコの煙は苦手だったけど、でもその人の話す話っておもしろいのよ。私にとっては何もかも新鮮でとってもおもしろかったの。あのハゲオヤジ金払わずに店出て行きやがったな畜生!」女が急に声を荒げて「あの野郎ときたら。あの野郎ときたら! 何かしでかすんじゃないかと思っていたんだ。何かしでかすんじゃないかと思っていたんだよ。犯罪じゃないか。料金を払わずに店から出て行くなんてそれは犯罪だよ。何も頼んでないならいいよ? 何も頼んでないなら、そのままきびすを返して店から出て行ってもいいけどさあ、あの野郎ときたらステーキを頼んでるじゃないか。3680円のステーキを頼んでるんですぜ? まったく信じられないことが起こっちまったよ。信じたくないことが起こってしまったね。このままだと私はこの店のオーナーに怒られちまうよ。怒られるだけで済むならまだいいさ。もしかしたらこれを理由に私はこの店を辞めさせられることになるかもしれない。辞めさせられることになっちまうかもしれないね! だって私はここのオーナーと決して仲がいいわけじゃないからね。どちらかというとお互いにいがみ合っている間柄だからね。多くのことは話せないが、かつて私は彼と恋仲だったんだよ。この店のオーナーと恋仲だったんだ。でも彼には奥さんがいてね、私は不倫相手だったんだよ。それで一度は私が彼の元から去ったんだけど、私も私でろくな仕事にありつけなくてね。それでプライドも何もかも捨ててこの店に戻ってきたんだよ。はじめのうちはそれで確かに何にでも耐えられたんだけどね、やっぱり人間って変わらないね。また彼とは不倫の関係に戻ってしまってね。今はもう何でもないんだけど、何でもないのも逆につらくてね。それで私も気の長い方じゃないから、何かと彼に文句をつけるし、彼も彼で何を考えているのか、私に店の経営のこととかで無理難題をふっかけてくるしね。もう二人だけでは収拾がつかなくなっちまったよ。あれ? なんで私は今こんな話をしているんだっけ?」
「おばちゃんアイスコーヒー3つ」アランが三人分の注文をまとめてウエイトレスに告げる。
「はいよ」ウエイトレスの女が返事をする。彼女はそのまま店の奥へと消えていく。
アランが言う。「それでさ、俺絶対にこのビジネスだったらいけると思うんだよ。もしこのビジネスでダメだったら、俺はもうこの世の中を生きていくのがつらいよ」
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