第2話
受付の女に対してある男が言う。「あなたは人の体が本当の左右対称ではないという事実をご存じですかな? そういう事実をご存じですかな? またそういう事実を知っていたとして、あなたはそれを初めて知ったときにどのような感想を持ちましたか? どのような感情に陥ったというんですかね! 先日私が一人でお風呂に入っているときのことでした。私は風呂場の鏡に映る自分の姿を漠然と眺めながら、ああこいつも随分と老けたものだなと思いましたよ。ええそれはもう本当にそう思いました。だって私も気が付けばいつの間にか年齢が50歳を超えているんですからね。50歳を超えるとさすがにどんな人間の肉体にも衰えがやってくるのでしょう。別にその日は私にとって何でもない日でしたが、何でもない日でしたが、そういう日にこそふと今までの時間を疑問に思うことが、私は私によって許されるのです。私は発見しました。どうも鏡に映った自分の肩が平行でないように見えるのです。どちらかというと右の方が下がっていて、左の方が上がっているように見えます。果たしてどういうことでしょうか? 仕事柄そうなってしまっている、ということなんでしょうか。つまり日々の生活習慣の中で、自分の知らないうちに私の体は私が使いやすいように左右のどちらかに偏ることを決断したんですよ。まったくこれが人間の歳をとるということですよ。人間の歳をとるということ以外の何ものでもないことでしょうね。最近体のあちこちが痛いんです」
「一体何のことでしょう」受付の女が答える。「私の名前はコートニーです。コートニー・カウフマンと申します。私はコートニー・カウフマンですよ。ところであなたはどなたなんですかね。お名前は何とおっしゃるんですか? 私は今日ここで受付の任についているのです。故人の告別式の受付を担当している者なんですよね。そしてそういう私の仕事といえば、今日ここにやってきてくれた人たちの名前をこの帳簿に記録していくことと、あとは簡単に言えば香典をもらうことなんですよね。あなたはこの告別式の参列者なんですよね? だったらそんなわけのわからない質問を私にしないで、もっとちゃんとしたあいさつからはじめたらどうなんですかね! もっとこう何というか、本当に告別式なんですからね、ちゃんとしたあいさつってものがあるでしょう! そんないきなり『人の体が本当は左右対称ではない』みたいな話をされてもね、そんな話をされても私はちっともわけがわかりませんよ。時間を戻したいなとさえ思いますね。あなたと出会う、ほんの数秒前にでさえ戻りたいと思ってしまいますよ。自分の体の傾きにふと気が付くのって嫌ですよね」
「そうなんですよ」男が続ける。「ところで私は庭師なんです。他人の家の庭に入って行ってね、そこに生えている木や草を思い切りカットしていく、というのが私の仕事になっているんですよね。私は仕事で個人宅だけではなくて企業にも赴きます。そして個人宅と企業の場合、私たちに求められる仕事は違います。個人宅の場合だと、どうしても掃除の要素が強くなってしまうんですよね。わかります? ええきっとあなたならわかってくれるとは思っているんですがね、まあそうなんですよ。現実はそういうわけなんです。個人宅に私たちみたいなものがお邪魔するときってね、つまりそこのご主人から『ではよろしく頼みます』といった具合なんですよね。彼や彼女たちからあいさつと同時に缶コーヒーとか適当に渡されちゃったりしてね。それで彼らは、『まあ本当によろしく頼みますよ、がはははは』みたいな感じなんですよ。こっちとしては、その開いた汚い口の中に肉まんをぶち込んでやろうか、などと思いますね。もちろんそんなことはしませんがね。ですから私が言いたいのはですね、個人宅の場合だと、お客様は常にこちらの裁量に期待しているということなんですよね。それって悪いことばかりじゃないですよ。ええ想像してもらえればわかる通り、悪いことばかりじゃないんです。逆にちっともこちらの裁量のない仕事なんてやりにくいですよ。やりにくいったらありゃしないでしょうね。でもそこにばかり期待されるのは正直つらいです。つらいと言わざるを得ないでしょうね。つまり個人宅のお客様は、まあとにかく何でもいいから庭をきれいにしてもらえればそれでいい、今の散らかっている庭から、きれいで、尊厳があって、穏やかで広々とした空間にしてもらえればそれで満足だ、などと言われることが非常に多いということですよ。ところが企業は違いますね。企業はこれとはまったく正反対の注文を付けてくるといっても過言ではありません」
「あなたのお話はよくわかりました」受付の女が言う。「私はあなたの職業なんて聞いていませんよ。私はあなたの仕事になんてこれっぽっちも興味がないのです。私がさっきからあなたに言っているのは、さっさと自分の名前を言ったらどうなんですか、ということなんです。まったく私はあなたに対してこれしか言っていませんよ。このことについてしか私はあなたにたずねていないのにね。あなたに対して発言をしてもらいたいと思っていないのにね。それなのにあなたときたら人の許可も取らずに、勝手に自分の仕事を語り始めるなんてどうかしているんです。あなたは頭のどうかしている人なんです。でも個人で庭の手入れを庭師さんにわざわざ頼むなんて、そのお客様たちは、さぞ立派な庭をお持ちのお方たちなんでしょうね。きっとあなたはこれまでにたくさんのお金持ちたちの家に招かれたことがあるんだわ」
「そんなことはありませんよ」男が答える。「私は庭師の中でも低ランクの庭師なものでね。本当に全然すごくない庭師なんですよ。一応庭師の世界をご説明しておくとですね、あれはまったくクルーザーの世界と同じなんです。クルーザーはご存じですかな? ここでいうクルーザーとはもちろん船のことですよ。世の中のお金持ちたちが自分のクルーザーを手に入れたとか手に入れなかったとか、はたまた自分のクルーザーに乗って休暇を過ごしたとか過ごさなかったとかいうでしょう。あのクルーザーですよ。あのクルーザーと庭師の世界って似ているんですよ。それは似ているだけでまったくの別物なんですがね。まあ同じものか別物かと言われたら別物ですよ。逆に庭師とクルーザーがまったく同じだなんてね。そんなことあります? そんなことってあると思いますかね。少なくとも私はありえないことだとは思いますが、しかし本当に庭師とクルーザーが似ているか似ていないかでいえば似ているのですよ。たとえばどんなところが似ていると思います? 庭師とクルーザーのどんなところが似ていると思いますかね? 両方とも金持ちのステータスになりうる。なるほど! そうきましたか。あなたはそうくるってわけなんですね。残念ですが不正解です。あなたは不正解です! 正解は、クルーザーにもピンからキリがあり、そして庭師にも庭師でそのレベルにピンからキリがある、です。こんな問題にも正解できないなんてあなたはどうかしているんじゃないですかね。もう一度義務教育からやり直した方がいいですよ。義務教育からやり直して、そして今までの人生がいかに無駄であったかを痛感するといいでしょう。まあそんなタイムスリップみたいなことって実際にやろうと思ってもできないんですがね」
「あなたの口が悪すぎて逆に私の心は傷つきませんね」受付の女が言う。「まああなたのおっしゃりたいことは何となくわかりますよ。何となくですがわかるんです。自分はそれほどすごい庭師ではなかった、とこのようなことをおっしゃりたいんでしょうね。上には上がいると。自分よりも優れた庭師はもっとたくさんいて、自分みたいな庭師はその辺にゴロゴロいる、ほとんど価値がないといってもいいような存在に過ぎない、とこうおっしゃりたいんでしょうね。じゃあそうなんでしょうね!」女は続けて「だから名前を教えてくださいとさっきからこっちは言っているじゃありませんか。私はさっきからもはやそのことしかあなたに対して言っていないですよね? 本当にそのことしかあなたに要求していないはずですが? しかしいまだにその願いがあなたに聞き入れられていないのはどういうことでしょう。まったくどういうことだというのですかね。もはや私には理解できません。いま私の目の前で何が繰り広げられているのか全然わかりませんよ。今日はジェームズの告別式なんですよ。で、あなたはその告別式の参列者ってわけだ。受付のこの列に並べばれていたということはそういうことでよろしいんですよね? だとしたらやはりあなたはこの告別式の参列者ですよ。この告別式の参列者であるあなたに、私が名前を聞いて何が悪いっていうんですか。私はただ私の務めを果たそうとしているだけなんですよ。もうご自身の名前をいうつもりがないというなら、この敷地内から出て行ってください。ここはあなたにふさわしい場所ではありません。ジェームズの告別式なんです! 今日はジェームズの告別式なんですよ!」
「私の名前はトニー・ポールです」男は答える。「ええ、私の名前はトニー・ポールです。私はトニー・ポールという名前なんですよ。ただのトニー・ポールです。私はこの敷地内から出て行きたくはない。ですから私はれっきとした、生まれてからこの方ずっとトニー・ポールでやってきた男ですよ。ではどうして私がトニー・ポールという名前になったのかから説明していきましょう。それはやはり私にも母親と父親がいて、彼らが私にトニー・ポールという名を授けたからですよ。彼らが私の名前をそのように決めたのです。そして彼らが私の名前をそう決めてからというもの、彼らはずっと私のことを『トニー・ポール、トニー・ポール』と呼んできましたよ。いつどんなときでもね。いかなるときでもね! でもそれで私もずっと嫌な気になっていたわけではないんです。むしろ逆ですよ。私は彼らに自分の名前を呼ばれるとき、いつも誇らしかったですね。まあいつもいつも本当に誇らしかったのかと言われると自信がないですが、しかし誇らしい気持ちになったことがないといえば嘘になります。つまり私は、彼らに自分の名前を呼ばれて誇らしい気持ちになったことがあります。たとえばどんなときに自分の名前を呼ばれて誇らしいと感じたかというと、それはやはり何かの試験に合格したときや、もしくはできなかったことができるようになって、それでそれを両親たちから褒められたときでしょうね。そのときに私はよく彼らに自分の名前を呼ばれていたような気がします。『やいトニー・ポール、トニー・ポールやい、今回のテストは本当によくがんばったね、あと鉄棒の逆上がりがスムーズにできて偉いね。お前は頭も良くて運動神経もいい子だね』こんな具合でね。ですから私は、私がトニー・ポールであるということをよく知っていますし、またそれを不思議に思ったこともあまりありませんね。そして自分がトニー・ポールであることが嫌か嫌でないかといえば、これまで述べてきたようにまったく嫌ではありません。きっとトニー・ポール以外の名前でも良かったんでしょうがね。デイモン・ポールとか、ビンセント・ポールとか、そういった名前でも、それが私の両親たちに付けてもらえたものであれば、私はそれなりに満足していたことでしょう。トニーだったのです。私は、私の名前を運命として受け入れます、トニーであったことに間違いありません。なるほどあなたはさっきから私の名前を知りたかったんですね。それで私の職業は庭師なんですがね」
「名前がわかればもうあなたに用はありません!」受付の女が言う。「ここに来る人たちはね、みんな私に自分の名前を言うことになるんです。そしてこの台帳に自分の名前を書くことになってね、みんなそれから奥の部屋へと消えていくんですよ。私はそれでいいと思っていますよ。みんなそうしてくれていいと思っています。なぜならここは告別式の会場ですからね。今日に限っていえばここはジェームズの告別式の場なんですよ。ですからそれに参加する人たちは、とりあえず私の差し出すこの台帳に自分の名前を記入することになっているんです。さてようやく自分の名前を言えたあなたに、今度はこの台帳に自分の名前を記入するということができますかな? これができればあなたももうすぐ奥の部屋へと自分の体を運ぶことができますよ。あなたもいよいよ奥の部屋へと進むことができると言っているんです」
「私はただジェームズの告別式にやってきただけなのです」男が言う。「私はただジェームズの告別式にやってきただけなんですよね。彼の告別式へとやってきただけなんです! それなのにどうして私はまだ彼の告別式に参加できていないのでしょう。参加する前の段階でとどまっているというのでしょうかね。参加するための手続きでなぜこんなにも時間を取られてしまっているというのでしょう。私は早く前へと進みたいのです。次の段階へと進みたくうずうずしているのです。なぜなら私はジェームズの告別式に参加したいからです。私は彼の告別式に参加したいと思っている者なのです。何が足りないというのです? この私トニーが彼の告別式にいまだにうまく参加出来ていない理由、それは一体なんだとおっしゃるんですか。こんなことでは私は家に帰れません! このままでは、私は家に帰ったところで今日の目的がなに一つとして達成されていないので悶々としてしまうでしょう。私を悶々とさせないでください? あなた、くれぐれも私を悶々とさせないでくださいよ?」
「あなたはあと少しでジェームズの告別式の会場に入れます」受付の女が言う。「失礼ですがあなたこそ冷静になってください。あなたはもうすでにここに存在しており、かつ私はあなたのお名前ももうすでにお伺いしております。ですから私たちは、あなたが誰であるのか、また何の目的で今日ここにいらっしゃっているのかも知っているのです。そういう人は入れます。そういう私たちに変に正体を隠さない人は、ほとんど会場の中に入って良いことになっているんです。つまりあなたにはこの台帳にご自身のお名前の記入するこをお願いします。あなたがこれさえスムーズに済ますことができれば、きっとあなたの今日の目的は達成されることでしょう。達成に近づくことでしょうね。ですからもう一度いいますが、あなたはあと少しでジェームズの告別式に参加できるんですよ。告別式の会場の中に見事に入れるんです! そのレールに乗っています。良かったですねトニーさん、トニー・ポールさん! あなたは会場に入れますよ。ジェームズの告別式に参加できます!」
「そんな話は信じられませんよ」男が言う。「とにかく私はジェームズの告別式に参加するために今日この場にやってきたというのに、私はここでさっきから何をやっているんだ! まったく私はさっきからここで何をやっているんでしょうか! こんな風になるはずじゃなかったのにな。こんな風になるはずじゃなかったのに! あなたにたずねますが、私はもうあきらめるべきなんでしょうかね? ジェームズの告別式に参加することをあきらめるべきなんでしょうか? 私はあきらめたくなどありません! 私がそんな思いを抱くことなどありえないのですよ! ジェームズは私の甥っ子なんです。打ち明けますが、彼は私の甥っ子だったんですよ。ええ、そりゃもう彼は私にとってかわいいかわいい甥っ子でしたとも。入れないなんてね! 叔父の私が甥っ子のジェームズの告別式に参加できないなんてね! そんな話ってありえますか? そんな話ってあってもいいんでしょうか? もしかして私はもう会場の中に入れるんじゃないですか? どうでしょう、私はもうすでに彼の告別式に参加する資格を有しているんじゃないでしょうかね? だとしたら私はどうしてさっきからここでしゃべり続けているんだ!」
「お気持ちはお察ししますよ」受付の女が言う。「ですから何度も言うように、早くこの台帳にあなたのお名前を書いてください。そうすればあなたはすぐにでもジェームズの告別式に参加できるのです。本当に冷静になって考えてください。あなたは必ず彼の告別式に参加できるのです。ここで少し私の経験をお話ししましょう。いいですか? 私の経験をお話ししますよ。ここまでやってきて誰かの告別式に参加出来なかった人などいません。つまりこの受付の私に話しかけているにも関わらず、私に門前払いを食らって、それで家に帰るよりほかなくなった人などいないのです。どうか安心してください。あなたは確かに台帳にこそまだご自身のお名前を記入していませんが、しかしこうして私とはよくお話をしているではありませんか。こうやってずっとしゃべっているでしょう? だから大丈夫ですよ。どうか冷静になってくださいね。私は、あなたならきっと告別式に参加できると思っているんです。いやもはやあなたならもう台帳にご自身のお名前を記入しなくとも会場の中に入っていいんじゃないですかね? 誰があなたをとがめます? 誰があなたをとがめるんですか?」
男が言う。「おや? これはなんですかな?」
女が答える。「これは今日の告別式の参列者の名前を記した台帳ですよ」彼女は続けて「ここに今日の告別式にやってきてくださった人たちの名前を記入していっているのです。私の役目はみなさんに挨拶をすることですが、それと同時に今日どのような人たちがやってきてくださったのかをこれに記録しまとめる、という役目もあるのです。ですからこれは台帳ですよ。これを完成されるのも私の今日の仕事なんです。仕事といってもまあ、ボランティアみたいなものなんですけれどもね。お金をもらっているわけではないんです」
「いえいえ、あなたは立派なお方ですよ」男は続けて「そんな告別式の参列者の台帳を作るなんて誰にでもできることではありません。専門的な知識が必要かどうかはわかりませんが、しかしやはりよほどの高い志のある方でなければならないことでしょう。どれ、私もひとつその台帳に自分の名前を書いてみますかな?」
「ということはあなたも今日のジェームズの告別式に参加なさるということなんですか?」
「話を結合させるとそういうことになりますかな」男は言う。「実は私は、今日ジェームズの告別式にやってきたんですよ。彼の告別式に参加するためだけに今日自分の家を出てきたってわけなんですね。ですからこうやってこの台帳に自分の名前を記入することによって、あなたの仕事のお役に立てることは大変光栄です。私はぜひあなたの役に立ちたいな。あなたにいい人だと思われたいな。なぜならあなたは、私の甥であるジェームズの告別式を成立させようとさっきからずっとがんばってくれているからですよ。もはやあなたは私たちの家族だ」
「信じてほしい話があります」
「なんですかな?」
「私には母親がおりまして」女が話し始める。「で、その母親から私は小さな頃から口酸っぱく言われ続けてきたことがあります」
「なんですかな?」
「それは、お金にならない仕事はやっちゃダメだよ、というものです。私の小さい頃、私の家は大変貧乏でした。なぜならウチの父親がとても気の弱い人だったんです。優しいけれども気が弱くって、それでいつも他人にその弱みにつけ込まれて、自分がしなくてもいい仕事や頼まれごとを山ほど抱え込んでいる人でした。私はそんな父親が嫌いでした。頼りなくてイライラしていました。私の家が貧乏なのは彼のせいだと思っていたのです。ですが私はいまお金にならない仕事をしていますね。ただ他人に頼まれただけの仕事、いいえ、実際には、これは私が自分でやりますと申し出たものなんです。私は、ぜひ私にジェームズの告別式の受付をやらせてくださいと彼の母親に自分で立候補したんです。だから今になって思うんです。もしかしたら若いときの私の父親は、自ら買って出て他人の仕事ややっかいごとにでも取りかかっていたのかもしれないなって」
男が言う。「きっとそうですよ。悪いのは優しい人ではなく、それを自分のために利用しようとする私利私欲にまみれた人間です」
「理解してくださってありがとう」受付の女は続けて「それではこの台帳にあなたのお名前の記入をお願いします」
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