12
「ほら、乾杯しよう、乾杯」
「はぁ……わかったわかった」
「はーい、かんぱーい!」
そうしてわたしたちは、プルタブを開けた缶をぶつけ合う。向こうの億劫そうな顔は気にならず、わたしはそれをゴクゴクと飲み始めたのだ。冷蔵庫より出したばかりのそれはキンキンに冷えており、先程よりも強い清涼感が喉を震わせた。
手すりに身体を預けるわたしと違い、付き合いの悪い隣人はとっとと定位置へと戻っていった。
「そういえばさ、前反響があった一次創作ってどうなったの? もう沈静化したの?」
アニメの感想はもう交わしたので、ふと思い出したネタを差し出した。
「沈静化どころか、この後に及んでまだ伸びている。昨日もまた、出版社から打診がきた」
するとなんともなさげに、隣人は現状を口にした。
バズったと初めて耳にしてから、もう八ヶ月は経とうとしている。流行の移り変わりの激しいSNS界隈で、この後に及んでまだ伸び、漫画化の打診がくるとは。ここまで来たら隣人の才能は本物ではないのかと思ってしまう。
なのに隣人はかつてのように、「ま、断ったがな」とあっさり言うのだ。
隣人は夢を見続けるため、現実に向かっている。そうやって夢と現実の折り合いをつけていた。
「へー……もうさ、いっそ引き受けちゃえばいいのに」
わかっているが、それでも無責任に言わざるをえない。
「学業との両立はやっぱり難しいの?」
「学業どころかこれから就職活動だ。一番忙しくなる時期に、マンガの連載なんて無理に決まってる。中途半端にやったところで、納得いくものなんてできん。自分だけで済むならいいが、読者はガッカリするし、出版社にも迷惑がかかる」
淡々とした早口が、こうして現実を語るのだ。
隣人の人生である。それを面白みのないとか、つまらないなんて評するつもりはないが、ただ勿体ないな、と感じてしまった。
「それに前にも言ったが、マンガ化すれば、最後にはくっつくようなラブコメを求められる。リアルネタだからな。続けて描いている手前だが、相手への後ろめたさくらいはある。それを勝手にくっつくラブコメにして、仕事にするのはちょっとな……」
色々な感情が渦巻いているのか、隣人はどこか複雑そうだ。
「ま、やっていいことと悪いこと。俺なりに分別をつけた結果だ」
自嘲気味に笑いながら、隣人は肩を上下させた。
無責任に引き受けろと口にしたわたしだが、もうこれ以上言う気にはなれなかった。
わかったのだ。
夢と現実との折り合い。それをつけた隣人は、本当はその道へ進みたかったのだと。掴んだチャンスを振るって、マンガ家という夢のような道を現実にしたかったのだ。
そんな道へ行こうとするのを最後に繋ぎ止めたのは、現実を見据えた達観さでもなく、投資してくれる親への感謝でもない。
倫理と道徳。これだけはやってはいけないという、後ろめたさからくる自制であったのだ。
隣人は友人に恵まれているのは、話の中でよくわかっていた。ちょっと話をされただけで、愉快で面白そうな人たちである。それこそネタには困らないだろう。
最初は軽い気持ちで、ネタにしたのかもしれない。それが予想以上の反響を生んでしまった。隣人も人間である。思いもしない承認欲求が満たされ、次から次へと描いてしまった。そうして漫画化の打診が来たところで、ようやく俯瞰して物事を見られるようになったのかもしれない。
どこまで許されるか否か。友情の超えてはいけない一線。バレるかバレないかではなく、自らの心に訴えかけた。
そうして引いた一線が、漫画化の断念なのだろう。これからもネタとして扱わせてもらうが、ラブコメにはしないし、仕事にしてお金稼ぎをするのを厭うたのだ。
軽く断ったと言っているが、隣人も色々と悩んだ結果なのだろう。
だからもう、わたしは無責任なことを言うつもりはない。一番惜しんでいるのは、間違いなく本人なのだから。
「ふーん……なんか気になる。ねえ、SNSのアカウント教えてよ。ちょっと見てみたい」
代わりにそこまで反響を受けて、漫画化を求められたそれを見たくなったのだ。
「絶対に断る」
力強い意志のもと、わたしの希望は跳ね除けられた。
「なんでよ。仮にもイラストでお金を稼げてるんでしょ? 自信をもって見せてくれてもいいじゃない」
口を尖らせながら、なんとか引き出そうと試みる。
ただその力強い意志、ただ求めるだけではダメなのはすぐに察した。なのでここは搦手に出ることにした。
「……それとも、見られたくないものでもあるわけ? あ、エッチな絵とか描いてるとか? そうそう、エロ同人ってやつとか」
亜種、太陽と北風作戦。日の光を請うのではなく、煽ることで曝け出させんとしたのだ。
「当たり前だ。ユーリアたん本だけで四冊は出してる」
それはあっさりと失敗した。煽った内容の具体的な答えを曝け出してきた。
よく考えれば当然である。なにせこの成人男性、女子高生にアダルトゲームをやらせただけではない。ユーリアのエロシーンについて、熱く語ってきたこともあったのだ。エロ同人に手を出すところか、描いているのはむしろ自然の成り行きであった。
「エロ同人を描いている、くらいは別に知られても構わん。だが実際こんなのを描いている、とは知られたくはない」
生真面目に隣人は言った。
「前に貴様は小説を書いていたと言っていただろ? それを実際に見られる、それ以上のものだと思え」
「納得した」
そんな正論に眉をひそめてしまった。あれ以上のものを見られると同じだ、と例えられたらぐうの音も出ないのである。
「親だけじゃない。例え界隈への理解があっても、リアルの友人知人には絶対知らせるつもりはない。話が漏れたとき、その相手を疑いたくないからな」
「そ……ならしょうがないわね」
あっさりとわたしは諦めた。
自分の身を案じているのではなく、友情に不審を覚えたくないのだというのだ。そこまで深く考えてのことなら聞き出すことはできないし、知らなくていいとすら思ってしまった。
お酒で喉を鳴らすと、なら次の話題だと話を移す。
「でも、同人誌とか出してるんだ。もしかしてお店に並んだりしてるの?」
「ああ。委託させて貰ってる。原稿を上げた後の楽しみの一つが、それを並んでいるところを見に行くことだ」
「へー。もしかして秋葉原とか?」
「そうだ。なにせあそこは聖地だからな」
「秋葉原ってさ、凄いのが一杯いるんでしょ? 太っちょがリュックにポスターを差してたり、アニメのコスプレしている人とか。そんな凄いのがそこら中に」
「言っておくが、貴様の脳内で描いている、いかにもステレオタイプのオタクなんて、ウォーリー以上に探すのが難しいぞ。コスプレをしてるのだって、精々ビラ配りをしてる店員くらいだ。その偏見は、渋谷にはギャルしかいないのと言っているのと同じだ」
そう言われてみれば酷い偏見であった。
言い訳をするのなら、地上波に流れる取材を受けたオタクは、いつだっていかにもなのばかりだったのだ。そういうのばかり目に付き印象に残るというのもあるが、テレビ側もあえての人選をしたのかもしれない。ある意味、これも一つのテレビ受けだと。
「そう考えると夢がない……っていうのはおかしいか。でも、なんかつまらないわね」
オタクの街にオタクがいない。そう現実を突きつけられたようで、ガッカリというか、肩透かしを食らった気分だ。
「実際、秋葉原がつまらん街になった、という層も多いからな。開発が進んで、資本企業が次から次へと参入してきて、街が小綺麗になりすぎて面白みがない、秋葉原は廃れた。本物のオタクはいなくなった、って具合にな」
「あんたはどう思ってるの?」
「なんとも思わん。俺にとっては最初からそういう街だったからな、アキバは」
秋葉原の現状を嘆く者たちに、まるで関心がないかのような口ぶりだ。
「上の世代が主張する昔が良かったなんてものは、猫型ロボットの声変わりと一緒だ。ピンと来ないし興味もない。今こうして楽しめているんだ。わざわざ十年、二十年前と比較することに、なんの意味がある」
いつもの正論に、その通りだなと頷いてしまった。
「あの街は俺の好きな世界の店が密集している。そこを歩き渡り、好きな物で溢れている場所にいるのは、やはりいるだけで楽しいもんだ。それだけで自分の聖地はこの場所だ、と言えるほどにな」
「そっか、楽しいんだ」
自然と緩んだ隣人の口元を見て、そんな街に少し興味が出てきた。
「そこまで言うのなら、一度行ってみるのも悪くないかな」
「行ってみろ。そして偏見を捨ててこい。貴様のようないかにもな陽キャがうろついていても、白い目で見られるような場所じゃない。美味い飯屋も多い。今の貴様なら、ウィンドウショッピング感覚で楽しめるだろう」
まくし立てるような早口がわたしを襲った。
嬉々としたその語り口。そのキモさに覚えがあった。かつてユーリアの話で火がついたときのあれである。好きな物を語るその様は、少年のように輝いてすらいた。
放っておけばその熱量は燃え上がり、延焼するかのように次から次へと、その早口は語り出すかもしれない。
かつてはそれを聞き届けたが、今日はそうするつもりはなかった。
だってあのときは、話を理解する下地があったのだ。今回はそれがない。
だからその早口をここで聞きたいとは思わなかった。
「じゃあ、連れてってよ」
「は?」
「秋葉原、案内してよ」
聞き届けるのは、現地でと考えたのだ。
意表を突かれキョトンとしているその顔が、ちょっと間抜けでクスリと笑えた。
「ウィンドウショッピング感覚で楽しめるって言うけど、土地勘がない場所に一人で行くのはちょっとね。行くならせめて、現地に精通したガイドくらい必要じゃない。わたしの嗜好は全部、あんたに与えられたものよ。なら、わたしが楽しめそうな場所とか、あんたならいくらでも知ってるでしょ?」
叩きつけられたものを、そのまま返すようにまくし立てた。
呆けたように口を半開きにしていた隣人は、丸くしていた目をパチパチさせると、ようやくその我を取り戻した。
「なぜ俺が、そんなことをせねばならん」
「しょうがないからデートってことにしてあげるからさ。こんな可愛い女の子を隣に置けるんて、人生最後のチャンスかもしれないわよ」
「たわけ。三次元風情が。俺を喜ばせたければ、まずは次元を落としてからものを言え」
「徹底的なまでな二次元オタね。ほんと、三次元の女には見向きもしないのね」
「俺の愛は、魂の嫁に捧げているからな。三次元の女なんぞに興味などない」
「はいはい、ユーリアユーリア。あんたのユーリア愛はよく身に沁みたわよ」
皆が持て囃すほどとは自惚れずとも、こんな風に生んでくれた母に感謝するほどには、外見には自信があるし、可愛いという自認がある。それを見向きもされず切り捨てられたことに、怒りもなければ悲しみもない。
隣人の二次元オタクっぷり、その安定感にただ肩をすくめるのみ。海と山を語る場で、星は美しい、素晴らしいと主張されるようなものだ。比べられるステージどころか、次元が違うのなら自信喪失なんてしようがない。
「だったら話を変えるわ」
デートで釣れないのならと、次の一手を打つことにした。
「あんたに言わせれば、まだまだわたしはにわか、ってやつなんだろうけどさ。アニメやマンガにハマっちゃったし、アダルトゲームの蒼グリだって楽しんでやってしまった。そんなわたしが、界隈の聖地に興味を持ったのよ。その案内くらい、あんたがするべきよ」
手すりの向こうへ、この身を大きく乗り出した。
「だから、私をオタクにした責任を取りなさいよね」
命令を下すように人差し指に突きつけた。
普通、こんな可愛い女の子に求められたら、甘酸っぱい気持ちに満たされるはずだろうに。そこには渋柿を食べたような渋面が浮かんでいた。
「……はぁ、ほんと、三次元の女は身勝手なことを言うな。これでも次のコミマで忙しいんだぞ、俺は」
ほとほと参ったように眉根を寄せるその姿。これがもし照れ隠しだというのなら、隣人はそれこそ役者にでもなれるだろう。
実際、その胸のうちには含羞も満悦も果報もない。
「まずはコミマが終わってからだ。話はその後だ」
ため息と共に吐き出された二字熟語は、諦念であったのだ。
現地を案内するという旨の言質を取れて、わたしはニっと笑った。
「約束だからね。後になってやっぱり嫌だなんて反故したら、隣の大学生にアダルトゲームをやらされた、って吹聴するから」
「全く……これだから三次元の女はたちが悪い」
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