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 今年もやってきた暑い夏、その八月。


 あれだけ身が入らず、娯楽への逃げ癖がついていた家庭学習から一変。かつてを上回る集中力を持って、勉強へ励めるようになっていた。


 マンガやアニメの誘惑にはもう惑わされない。


 心が入れ替わったということもあるが、おすすめ作品を一通り見終わったのもでかい。最近の深夜アニメも、はいはい、こういう流れね、とちょっと斜めに見るようにすらなっていた。


 成績はめきめき取り戻し、三月の惨憺たる数字は見る影もない。やればできる子流石わたし、と自尊心を取り戻していたのであった。


 遊びのお誘い。それを断り、放課後残り続けた甲斐があったというもの。付き合いの悪いわたしを見捨てることなく、応援してくれた友人がいたからこそ、なんの憂いもなく励めたのだ。それくらいわたしの成績がヤバイ、と認識されていたのも大きい。


 高校生活二度目の夏休み。


 青春が大きく狂ってから一年。あれからもうそんな時間が流れていたのかと、感慨深いものがあった。


 一度外れたものの、再び元の道へ戻りつつある。過去というものはいくら悔やんでも変えられるものではない。ここは視野が広がったと諦めることにした。


 去年はアダルトゲーム漬けでこそあったが、今年は勉強漬けになりそうだ。昼夜逆転生活だけはするまいと胸に誓い、朝から晩までとは言わずとも、学校にいるのと変わらない以上の時間を、勉強しながら過ごしていた。


 かといって、遊びのない生活というわけではない。誘われれば遊びに行くし、予定だって前もって合わせる。毎日なら遠慮するが、週に一回の息抜きくらいは許されるだろう。


 夏らしいイベントのお祭りや、花火大会も行ったりした。去年とは違う、そんな健全な夏休みを満喫しながら、アニメもそこそこに過ごしていた。


 週に一度、多くて二度。深夜にベランダへ出て、今日もアニメの感想を語っていたのだが、


「へー、あんたも昨日の花火大会、来てたのね」


 花火大会と言えば、という流れでわたしたち自身の話に飛んだのだ。予期せぬものを目撃したように、この目は丸くなってしまった。


「ちょっと意外。あんたにああいったリアルイベントは似合わないもの」


 リアルイベントなんて単語がすらっと出てくる辺り、わたしも手遅れだな、と思わずに入られない。そればかりに気を取られて、しれっと失礼なことを口にしたことはまるで気づいていなかった。


「俺だって本意じゃない。なにが悲しくて、自ら人混みに揉まれにいかねばならん。あんな厄災はコミマだけで十分だ」


 無礼なわたしに隣人は気を悪くすることはない。むしろ被った厄災を思い出した憂鬱が、その気分を落としていたくらいだ。


「あんたでもやっぱり、断れない友達付き合いがあるのね」


「いや、これが遊びの誘いだったら断った。リア充陽キャのお祭りはごめんだってな」


「じゃあなんで誘いに乗ったのよ」


「誘いに乗ったんではない。人員として駆り出されただけだ」


「人員?」


「とっととくっつけな奴らを、二人きりにするためだ。大勢で遊びに行って、花火が始まる前にしれっとはぐれた真似をしたんだ」


「わ、なにそれ。ちょっと青春っぽい!」


 わたしは花の女子高生である。アニメだけではなく、ドラマでもありそうなノリに、ついキャッキャと目を輝かせてしまった。


「それでそれで、どうなったの?」


「さてな。見届けたわけでもないから、どうなったかは知らん。ま、連絡がないってことは、進展がないってことだろうが」


「えー。なんて見届けないのよ。こういうのはさ、遠巻きでコソコソと皆で見守るもんじゃないの? ニヤニヤしながら、手を繋いだところを『おおっ!』と小声で沸き立って、初めて唇を合わせた瞬間を写真に収めたりさ」


「貴様は下世話なパパラッチか。どうせ付き合い始めたらうんざりするほど、話を聞かされるんだ。奴ら二人を放流した段階で、とっとと帰ったぞ」


 大息を漏らした隣人は、これでもかと口をへの字に曲げた。嬉々としているわたしの下世話心に呆れたのではない。『うんざりするほど』と口にしたときに、苦々しげな情感が込められすぎていた。そんな思いが胸から湧き出るほどに、今日まで色々とあったのだろう。


 とても面白そうな隣人の人間関係模様。根掘り葉掘り聞き出したいが止めた。知られたくないと言うより、喋りたくなさそうだからだ。主に恋の胸焼けな意味で。


 なので隣人自身の動向について聞くことにした。


「とっとと帰ったって……花火は見なかったの?」


「終わってから帰ろうとすると電車が混むからな。満員電車は死んでもごめんだ」


「……徹底してるわね。他の友だちはどうしたのよ」


「皆リア充陽キャばかりだからな。普通に楽しんで帰ったんじゃないか?」


「じゃないかって……付き合いが悪いとか言われたりしないの?」


「ないな。向こうも俺の性格はよくわかってる。今更そんなことで気を悪くするような連中じゃない。気をつけて帰れでそれで終わりだ」


 今日の天気を語るような口ぶり。そこに特別なものはないというあっけからんさだ。


 隣人は間違いなく変わり者だ。オタク丸出しの、前のわたしとは相容れない人種。


 そんな隣人の友人は、どうやらリア充陽キャばかりだという。だというのに、なにも隠すことも臆することもない、ありのままの自分でいられるようだ。


 わたしも恵まれている類であるが、それでもここまであっけからんと裏の姿を曝け出すことはできない。ハミられるのが怖いから。そんな爆弾を背負いながら、わたしは友人に接しているのだ。


 決して自分だけが特別ではない。誰もが知られたくない自己を隠しながら、人間関係を築き、維持しているのだ。その輪から外れまいと、時には隠している自分に後ろめたさすら感じながら。


 だから羨ましいと感じた。卑下することのない生き方を持って、息苦しくない関係を築いていることが。それを許してくれる、恵まれた友人を得ている隣人を。


 変わり者でありながらも、隣人には他とは違う特別ななにかがあるのかもしれない。でなければ、自殺を止めるためにアダルトゲームをやらせてきた男に、ここまで心を開くことはなかっただろう。


 そんなわたしよりもちょっと大人な隣人。


 この差は果たして経験だけなのか。他にどんな違いがあるのだろうかと、思った矢先にそれが目についた。


 わたしと隣人。子供と大人。前者に許されず、後者には許される証を。


「あんたが飲んでるそれってさ、美味しいの?」


 代わり映えのない隣室のベランダ。その光景。それの象徴たる黄緑色の缶。


「不味かったら飲まん」


「ねえ、ちょっとそれ見せて」


「こんなの見て何が面白い」


「あんたにとって当たり前のものでも、わたしには珍しいものなのよ」


 それこそ手に取っているところを、先生や警察に見られようものなら問題発生。両親に迷惑をかける案件である。


「ほらほら、いいから見せてよ」


 眉間に刻まれた眉が、仕方のない奴めと言っていた。


 手渡されたその缶は、どうやら残り半分くらい。輪切りにされた果物、その切り口がこちらを向いていた。


「ふーん。グレープフルーツのお酒?」


「ただのチューハイだ」


 アダルトゲームにこそ手を出してしまったが、わたしは不良娘ではない。歳が歳なので甘酒以外、嗜んだことはない。それでもテレビを散々見てきたのだ。チューハイというものが、どのようなものかはなんとなくわかっていた。


 お酒を炭酸で割り、そこに果汁を加えられたものだ。


「なーんかガッカリ。男らしくない」


「なに?」


「男ってのはさ、ビールをごくごく飲むものじゃないの? こんな女の子が飲むようなお酒を飲んで、大人ぶってるのはちょっとねー」


 缶を左右に揺らしながら、この口端はニヤっと上がってしまった。


 昨今はなにかと男女差別がうるさく言われる時代だ。軽い気持ちとはいえ、ネガティブなイメージを女に当てはめた日には、こぞって世間は騒ぎ出しやり玉にあげる。わたしだってそれに憤ることは多々あった。


 それでも公の場ではなく、気の知れた相手にくらいには許される差別もある。貶めるのではなく軽口くらいなら、気を悪くしないだろうと。


「そういうことは、軽い気持ちで口にするもんではないぞ」


 実際隣人の気分を害したものではない。しょうがない奴め、と肩を揺らしただけ。そのままいつもの正論をもって窘めてくるのかと思えば、


「なにせしったかぶって語ることほど、恥ずかしいものはないからな」


「は?」


 鼻で笑ってきたのだ。程度の低い悪戯をする悪ガキを、小馬鹿にしているそれである。


「言っておくが、俺はビールのほうが好きだぞ」


「じゃあなんでこんなの飲んでるのよ」


「値段だ」


「値段?」


「ビールは高いんだ。それの倍近くする」


「倍……って。そ、そんなに変わるんだ」


 目を見開きながら缶を見直した。


 値段の代わりにあったのはバーコード。それを読み取った先には、父の顔が脳裏に浮かんできた。お金の問題だけならこれじゃなくてもいい。小馬鹿にされた子供の、次の反撃の一手である。


「でも、発泡酒や第三のビールっていうのもあるんでしょ? だったらそれを飲めばいいじゃない」


 違いがまるでわからないが、ビールの代替品らしい。安いからと父はそれを飲んでいるのに、狙い撃ちで酒税が上がるとボヤいていたのを思い出した。


「マズイとは言わんが、求めている味が違うからな」


「どのくらい違うの?」


「コーラとダイエットコーラ以上の別物だ。それに満足できる人は多いだろうが、俺には合わん。所詮は代替品だ。悪酔いもしやすいから、無理して飲みたいものじゃない」


「ああ……なるほど」


 似て非なるものとは言わないが、これじゃない感が強い。後者を求めてまで飲みたいものではない。


 一つ、かつて隣人が放った一節が蘇った。


『貴様が言った嫌な現実の先で、汗を流して苦労して、ようやく稼いだそれを、自分のために使うことを惜しんで、子供に投資するんだ』


 父は好んで代替品を口にしているのではない。本物を飲みたいはずなのに、そうやって代替品で我慢することで、わたしのために使えるお金を少しでも多く捻出しているのだ。


 それを思うと、三月の惨憺たる成績になおさら罪悪感を感じた。自分の人生だからといって、それまで投資されたお金から目を逸してはいけないと、改めて思い知ったのだ。


 期せずしてだろうが、この隣人からはよく現実を突きつけられる。いつもは腹立たしいし、気に障ったりするが、今回ばかりは素直に受け止めたいと感じた。


 いつも頑張ってくれてありがとう。真っ直ぐには言えないだろうが、今度父には婉曲的に感謝を述べよう。


「それを選んだのは、試行錯誤した結果だ。人工甘味料不添加かつ、自分の身体にあった悪酔いしづらい酒。ほろ酔い気分で眠る、一日の締めに相応しい一杯をな」


「へー……そこまで考えてるんだ」


 だけどそんな思いを抱いた矢先に、ごめんなさい、と。父には謝らなければならない。


 貴方の娘は今日、法を犯した不良娘デビューをします、と。


「お、おい!」


 隣人はわたしの不意をついた行動に、思わず叫声を上げた。怒鳴っているのではない。狼狽えているのだ。


「これがお酒の味かー。結構美味しいんだね」


 見せるだけのはずだった物を口にしたから。


 炭酸の刺激と果実の清涼感。それが喉に心地よい。一口で終わらせるつもりだったが、そのままゴクゴクと胃の中へと流れていった。普通の炭酸ジュースではこうはいかないだろう。暑い日の麦茶のように、次から次へと求めてしまったのだ。


 つまり、物足りないのである。


「ね、もう一本頂戴。お金は払うからさ」


 空になった缶を振りながら、陽気に笑いながらおかわりを求める。


「貴様……却下に決まってるだろ」


 苦々しい顔を浮かべる隣人は、素直におかわりをくれるわけがない。


 お酒に酔う、という感覚はまだわからないが、それでもまだアルコールが回っていないと思う。けれど初めての飲酒に、変な高揚感を覚えてしまったのは確かだ。


「ふーん、いいの? 大学生から、高校生に渡したらダメなのを渡されたって、騒ぎ立ててもいいのよ」


 悪戯っぽいしたり顔で、強気に責めるのではなく、攻め立てたのだ。


「そのときは断固として、無罪を主張する。奪われたってな」


 けれどその顔は、今にもぐぬぬと言いそうなそれではない。痴漢冤罪を高らかに訴える、被害者男性そのものだ。余裕があるようでない、そんな顔だ。


 痴漢されたと押し切り示談を引き出すのは簡単であるが、いわれなき罪を着せて喜ぶほどの人非人ではない。


 わたしは罪人は罪人として正しく裁かんとする、善良なる一般市民なのだ。


「お酒の話じゃないわよ。アダルトゲームの話」


「ぐ、ぐぐ……」


 どのような理由であれ、罪は罪なのだ。忘れていたとばかりに、ぐぬぬ顔をこれでもかと見せてくれた。


「さ、どうする?」


「待っていろ」


 隣人はかつてのようにその背を向けて、部屋の中へと戻っていった。しかし今回言い残していったのはそれだけではない。


「クソ、これだから三次元の女はたちが悪い!」


 悔しげなそれである。


 愉快で愉快でたまらなく、その背をぷすすと笑いながら見送ったのだ。

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