09
三月も下旬。
高校生活、始まりの一年は終業式と共に終わりを告げた。
しかし高校一年生の称号を同時に失ったわけではない。二年生の強制冠位は、春休みを越えた先にある。少ない時間であれど、一年生としての余命はまだ残されているのだ。
僅かな命を精一杯謳歌せんと、友人たちと共に街へと繰り出した。
未来のことなど考えず、現実から目を逸し、きたる神罰執行のときを忘れるほどに、笑いに笑い、はしゃぎにはしゃぎ、喉が枯れるほどに高らかに歌い上げたのだ。
解散後、目を曇らせながら高揚した気分を維持したまま、なんとか帰宅することに成功した。
ご飯を食べ、テレビを垂れ流し、マンガを読み、深夜アニメタイムを楽しみにしていたのだが、
「……うっ」
学校指定のカバンを目にしてしまったばかりに、現実に引き戻されてしまった。
五分ほど煩悶した後、わたしはついにそれを取り出した。惨憺たる数字を連なっているであろう、堕落の証明証を。
かくして神罰は執行された。
今日楽しかった記憶。それが全て帳消しどころか、この先の楽しい楽しい春休みが色あせてしまうほどに、それはもう酷い有様だったのだ。
ベランダへ出ると、手すりに身体を預けて突っ伏しながら、
「はぁ……」
大きな大きなため息を漏らした。
わかっていたが、あまりにも現実が辛すぎる。
神罰執行だなんて称した、完全な自業自得であった。
学校であれを確認しないで、友人たちと遊びに出たのは正解である。惨憺たる数字を目の当たりにした後では、絶対にあのテンションは維持できなかった。
「……はぁ」
二度目の大息。
これはどちらかと言えば、自然と漏れ出たものではない。むしろ聞かせてやるくらいのつもりで放ったものだ。
なのに反応はまるでない。
それにムッとしながら、
「どうしたって聞いてくれないの?」
と、非難がましく声かけたのだ。
隣室、そのベランダから返ってきたのは、
「どうせ成績が酷いとかヤバイとか、そんな悩みだろ。くだらん」
鼻で笑うようなそれである。
「なんでわかるのよ!?」
「前から勉強しているように見えんかったからな。自業自得だ」
いかにも落ち込んでますなわたしに向かって、正論が襲いかかってきた。仕切り壁の向こう側、そこにどんな顔が浮かんでいるか、手に取るようにわかる。
去年の夏休み初日に受けたロジハラを思い出す。あれには本当に腹が立ったものだ。
けれどあのときと違うのは、他人に向ける淡々としたものではない。気の置く必要のない相手にぶつける、軽口のようなものだった。
そんな軽口を叩かれる今を、喜べばいいのか、悲しめばいいのか。今のわたしには判断がつかなかった。
「……はぁ、私の青春、夏休み以来狂ったような気がするわ」
「陽キャ女子高生からの酷い転落ぶりだな」
「誰のせいでこうなったと思ってるのよ!?」
「貴様の元カレだ」
「……くっ、元を辿ればそうだけど。……道を踏み外して、転がり落ちた気分だわ」
「垂直落下するよりマシだろ」
「む、それは……そうだけど」
恩着せがましく言われたわけではないので、ついそれを認めてしまった。
あのときの蒼グリは、この胸に蔓延った二字熟語たちへの麻酔となった。楽になりたいという衝動、その苦しさを忘れさせてくれたのだ。
あんな男のために死ぬのはバカらしすぎる。あれが死ぬのは構わないが、なぜわたしが死ななければならないのかと。
今なら心の底からそう思えるし、言われなければあんな男のことなど、思い出しもしなくなっていた。
でも、ベランダから垂直落下する代わりに、転がり落ちていった先で、新たな暗雲が立ち込めた。
成績不良である。家にいる間の余暇時間、ほぼ全てをアニメやマンガに注ぎ込んでいるのだ。十二月頃にはハッキリと自覚していたが、明日から本気を出すと繰り返している内に、春休みに辿り着いてしまった。
「責任は取らんが、助言はしてやろう。将来を決めかねているなら、まずは目先の目標として、大学くらいは入っておけ。得るものは多いし、見識が広がる。なにより高校とは比べ物にならんくらい自由で楽しいぞ」
滔々としたその語り口には嫌味も説教臭さもない。むしろ最後の『楽しいぞ』が本題であり、後は全て前置きのようですらあった。
確かに隣人は生きているだけで楽しそうに見える。趣味の分野だけではなく、交友関係も充実しているからだろうか。少なくとも二月時点で春休みに入っているのは、それだけで羨ましいというものだ。
「わかってるわよ。私が問題にしてるのは、このままだとまともな大学に入れないかもしれないってこと。あんたと同じ、名前を書けば入れるような場所にしかね」
それが悔しくて嫌味たっぷりに返すが、
「失礼なやつだな。俺はすぐそこの国立だぞ」
「嘘!?」
今日もわたしは近所迷惑を考えない。
すぐそこの国立といえば、受験しようと考えている大学だ。考えているだけで、このままでは落ちるのがわかりきっている難関校でもある。
それをアダルトゲームを女子高生にやらせるような男が、まさが現役生だなんて。信じられない気持ち以上に、許されない蛮行ではないかとすら感じた。
「……勉強、教えて」
「無理だな」
つい教えを請うたが、あっさりと断られた。
「人に教えられるほど頭の出来がよくない」
「でも、あそこの大学に入れたんでしょ?」
「結果的に入れたが、俺の力で入れたわけじゃない」
学歴を鼻にかけようともせず、あっけからんと隣人は言った。
自分の力ではない。
ではどんな力なのか。カンニングが、問題を手に入れたのか、はたまた裏入学か。
そんな疑いがポッと頭に浮かんでくる辺り、マンガやアニメに毒されているのがよくわかる。
「勉強の教え方が、神のように上手い友人がいるんだ。あいつが親身に見てくれたから受かったにすぎん。もう一度受験しなおしたら、絶対に落ちる自信がある」
ただ、友人に勉強を教えてもらった。それだけであった。
しかし神のように、というのもまた凄い表現である。家庭教師や塾講師にでも、中々つけられる称号ではない。
「そんな凄い友達がいるんだ」
「勉強だけじゃない。人間の出来もそこらの奴らとはまるで違う。あれはまさに聖人だ」
上ずるような声色で、隣人は普段聞かない単語を扱った。まるで蒼グリ話で見せるような、ちょっと得意気なそれである。
「あいつに出会わなければ、俺は今より深い闇に落ちていた」
「深い闇?」
「……まあ、貴様も同じ道へと辿ってるんだ。少しくらいはいいだろう」
少し悩む風であったが、隣人はすぐに気を取り直した。
「中二のときの話だ。俺は蒼グリに出会い、その人生が大きく変わった」
「文字通り、中二病が発症する時期ね」
友人たちの前ではまず使えない、夏休み以降に覚えたネットスラングを口にした。
「ああ、まさにその通りだ。……決して蒼グリが悪いわけではない。ただあれを手にしたことにより、この目が曇り、正しい判断ができなくなっていたのは確かだ。……だから俺は、あんな蛮行に及んでしまったんだ」
その語り口は、進むごとに重苦しく、暗澹ものになっていく。なぜあんなことをしてしまったのかと、今でも苛んでいるように聞こえた。
「蛮行……あんた一体、なにをやらかしたのよ」
「当時放送部だった俺は、給食の時間に、蒼グリの曲を流してしまったんだ」
「あんた、アダルトゲームの曲を中学校で流したの!?」
本日二度目の近所迷惑。ほんとこいつ、なにやっているんだと、これでもかと叫声をあげてしまった。
「そうだ、俺はやらかしたんだ……! いくら神ゲーの曲とはいえ、それだけはやってはいけない蛮行だった。俺がやった蛮行はすぐに学校中に広まった。給食の時間に、エロゲの曲を流した男だとな」
「……待って、当時中学生でしょ? 広めた本人も、アダルトゲームの曲だって知ってるなら、ある意味吊し上げ対象じゃないの?」
「その通りだ。知っている貴様も同罪ではないかと憤ったが……最後までその犯人を知る機会はなかった」
「その後あんたは、どうなったのよ……?」
「……エロゲマンというあだ名をつけられた」
深刻なまでのその声色に、わたしはこれでもかと噴き出した。
手すりを掴みながら、その場で崩れ落ちた。耳の中に反響し続ける五文字が、お腹をこれでもかと甚振ってくる。空に響き渡る哄笑は、いつしかむせるそれへと変貌し、空咳にまで至っていた。
「揶揄されるのにビクビクする日々は、まさに針のむしろ。友人グループからはエロゲの話を半笑いで請われる始末だ。もうなにも信じられなかった。以来、放課後は部屋に引きこもり、ノベルゲーだけを支えに、暗黒の中学校時代を乗り切ったんだ」
笑いの坩堝に陥ったわたしを無視しながら、隣人はその後の末路をあっさりと語る。笑われるのはわかっていたから、別に構わんとばかりに。
「人間不信をこじらせていた俺は、進学した先であの聖人に出会った。あいつは人を差別したり、悪く言うような人間ではなかったからな。その友人となれたことで、俺は卑下することのない生き方を手に入れたんだ」
「ふーん……そんな凄い友人がいるんだ」
「ああ。それこそあいつの友人であることを、誇らしく思えるほどのな」
わたしの半笑いの声など気にならない。それほどまでに隣人の声色は自慢げであった。
過去は過去、今は今。
素晴らしい友人のおかげで、もう笑い話にできるのだと。
卑下することのない生き方を手に入れた。
それほどまでの、人生に大きな影響を与えてくれる聖人のような人。それほどまでの友人がいるのが、少し羨ましく思えたのだった。
「まあ、あの聖人も今や、人の恋路に不和をもたらし破局させたり、カスだカスだと俺たちを罵るようになってしまったがな」
が、そこには壮大なオチが合ったようだ。
「……なにがあったのよ」
「まあ、色々とあったんだ。……はぁ」
今日一番……いや、今まで聞いた中で一番の嘆息がこの耳に届いた。まるで大きな責任感と罪悪感を覚えているようだ。
これ以上先を語る様子はないので、無理に聞き出そうとするのは止めた。
ただわかるのは、隣人の人間関係は中々複雑なようで、どうやらとんでもないことが起こっているようだ。
人の数だけ人生がある。そういうことなのだろう。
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