第29話 暗雲2

 大友の車から運転手らしき者が大慌てて走って来るのが見えた。運転手の男は駆けつけると、興奮している大友を鎮めようと必死に宥め始めた。

 だが大友はまだ怒りが収まらない様子である。

「冗談じゃねぇぞ、この野郎! こんな奴に横から掻っ攫われて、黙ってられるかっ! 」

 大友は運転手の手を振り払うと大声で喚いた。

「オイッ、コラッ、ぼうず! コイツはてめえのようなクソガキが付き合えるような女じゃねえんだぞ! この女は俺がずっと狙ってたんだからな、ボケが! それを、お前みたいなボンクラがっ! 」

 運転手が大友と清吾たちの間に立って、何とか大友を押し留めている。が大友の勢いは止まらない。

「オイ! もうこの女とはヤッたのか? こいつのデカ乳を揉んだのかって訊いてんだよ! 」

 大友は鼻息荒く怒鳴る。


「ちょっと、やめて下さい! なんて事を言うんですか! いくらなんでも失礼ですよ! 」

 明星は清吾を庇いながら大友に言い返す。彼女はは顔を真っ赤にして怒っている。


「良いから訊かせろよ、お前はコイツのデカパイを堪能したのかよ! おおっ? 」

「イイ加減にして下さい! あなたおかしいですよ! 」

 明星は大きな声で一喝した。

 凛とした明星の横顔はとても綺麗だった。

 情けない事に清吾は明星の事をカッコ良いヒーローのように思えた。本来男である自分が明星の代わりに大友に立ち向かわなければならないのに…………。

 清吾を庇うように被さる明星からは、良い香りがした。明星のお陰で清吾は少し冷静さを取り戻す事が出来た。


 そして大友がキレればキレるほど清吾は冷静になっていった。この男は何て自分の欲求に真っ直ぐなのだろうと少し感心さえした。

「ウルセェ、クソがっ! テメェもわかってんだろうな、俺に恥かかせやがって! お前のオヤジの会社がどうなっても知らねえからな! 顔がイイからって調子に乗りやがって。テメェなんか顔と身体だけの落ち目の家の娘だろうが! 」

 一度キレると手がつけられない男なのか、大友は明星へ対するさっきまでの紳士的な態度は、完全に消え失せてしまい感情的に喚き散らしている。


「坊ちゃん! これ以上は警察沙汰になってしまいます! 」

 運転手は、大友の肩の前に両手を広げて必死に宥めているが、手に負えない様子である。

「警察に言うなら言えよ、馬鹿野郎! 俺がそんなもんビビると思ってんのか? もっと殴られてぇのか? 」

 大友は中腰になって清吾を睨みつけ威嚇している。


 清吾は明星の助けを借りて何とか立ち上がった。途端に大友が、清吾の腹を蹴り上げた。清吾は腹を押さえて地面に膝を付いた。少しの間、息が出来なかった。その間に明星は清吾を庇うように、大友の前に立ちはだかり、睨みつけている。


 清吾は息が整い出す前に無言で立ち上がり、大友に立ちはだかる明星の前に割り込んだ。

「大きな会社の副社長がこんな事をしても良いんですかね? 」

 清吾は冷静な声で大友に向き合った。大友は、清吾の冷静な口調に少し意気を削がれたようだ。


「あなたのやっている事は、チンピラと一緒ですよ」

「だったらどうなんだよ! 警察でも呼ぶか? 俺に殴られて警察に泣きつくってか? なっさけない男だな、お前! 呼べよ、呼んでみろよ! お前の女はそんな事してほしくなさそうだぜ。俺を怒らせると、お父さんの立場が悪くなるもんなぁ、ええ? 無能なオヤジのせいでウチの会社に頭が上がらないもんなぁ、ええ? 」

 大友は下から上、上から下へと明星の全体を蛇のような目つきで見ている。


 清吾は一度大きく溜め息を吐いた。それから大友の怒りに満ちた目から、目を逸さずに「本当に、警察を呼びますよ」とハッキリと言い切った。


「ケッ! 今川 明星! 俺を怒らせた事、一生後悔することになるからなっ! 」

 大友は地面に唾を吐き、捨て台詞を言うと逃げるように車に戻って行った。

 運転手は清吾達に何度も頭を下げて戻って行った。


 清吾は彼らの後ろ姿を黙って見ていた。大友とは稀に見る下品な男である。

 あんな奴が副社長を務める会社なんてこの先の成長は見込めないだろう。


 そんな事を考えながら清吾は倒れている自転車を起こした。自転車を引き起こす際に手首を痛めていた事に気がついた。


 殴られて倒れる時に身体を庇い手首を捻ったようだ。着地の時についた掌がアスファルトに擦れたようで、少し血が滲んでいる。ヒリヒリとする。この傷は風呂でみることだろう。


 大友に殴られた頬も段々と痛みが増してきた。傷は大したことはないが、今の出来事で心が傷ついた。暗い気持ちになった。

「清吾さん、本当にごめんなさい。まさかこんな事になるとは……。あんなに、あそこまで、おかしな人だったとは…………」

 明星も大友のせいでそれどころではないのに、清吾に気を配る明星の態度が健気に感じて何とか彼女を勇気づけたいと思ったが、言葉が何も出てこなかった。


「イヤ全然、全然。いやぁ、俺のほうこそ、もっと、なんか、こう…………うん。でも、よかったの? 会社にとって大事な人なんでしょ? 」

「…………ええ、ですが……私にも我慢の限界が有ります」

 明星の表情はかなり深刻そうである。

「アイツはまともじゃないよ。あんなのが副社長しているなんて、その会社もたかが知れているよ。負け惜しみに聞こえるかもしれないけど」

「そんな事はないです。清吾さんの言うとおりです。あんな人の会社に頼ろうなんて…………頼るしかないなんて……情けないですが……でも、私の父は……とても優しくて……あんな人に罵られるなんて、悔しくて」

 明星は涙を堪えている。


 清吾は彼女を見て、どうする事も出来なかった、そしてどうする事も出来ない無力な自分に対して怒りを覚えた。


 彼女に、気の利いた事など何も言えない情けない自分に嫌気がさした。大友に会う前のほのかに幸せだった気分は完全に消え去ってしまった。

 周囲はすでに薄暗い。

「じゃあ、帰ろっか? 」

 清吾は明るい声で無理矢理に笑顔を作った。


 清吾は元気な声を出す事しか出来ない自分が情けなかった。

 明星を励ます事も出来ずに、ただ沈黙が流れる中で清吾は暗澹たる思いのまま、家に帰宅した。

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