第28話 暗雲

 明星が加わってからのウロコの館は、さらに賑やかになった。

 明星はひかりに教わりながら一緒に夕飯を作ったりと二人は仲の良い姉妹のようであった。

 女性が二人も生活するウロコの館は明るく華やいだ。

 少し前の清吾の寂しい生活からは想像出来ないくらいの大きな変化である。


 そんな事を考えていたある日の帰り道。坂の上は夕暮れのオレンジ色の夕日で眩しくも美しい。


 坂の上方に明星が歩く姿を見つけた。少し離れていても、シルエットで明星だと分かった。

 清吾は、彼女に追いつくべくペダルを必死で漕ぎ出した。


 モスグリーン色のロングスカートに黒のタートルネック、足首くらいまでの黒いショートブーツ姿の彼女は、全身で紅葉の秋を表現していた。

 姿勢良く歩く彼女の後ろ姿は、とても綺麗だった。


 追い抜いて坂の上まで上ってから声を掛けようとした清吾は、坂の途中にも関わらずペダルを漕ぐ足をつい止めてしまった。明星の後ろ姿をもっと眺めていたい気持ちになったからだ。


 自転車に乗る誰かの存在に気がついた明星が、振り返って清吾を認めて笑いかけた。それから明るい声で一言。

「お帰りなさい! 」


 明星に気づかれた清吾は、彼女の後ろ姿に見惚れてしまっていた事への気まずさと、彼女の明るい笑顔にどう返せば良いのか、戸惑ってしまった。

 一瞬の間の後「ただいま、そしてお帰りなさい! 」と慌てて何事もなかったように取り繕う事が出来た。


 それから清吾は自転車から降りて、明星の隣に並んで歩き出した。


 明星はひかりと共にウロコの館の二大美人である。秋文も美青年である。翔太も可愛い。そうなると平凡な顔の清吾だけがウロコの館で浮いた存在である……所有者であるにもかかわらず。


 そんな事を頭の片隅に置きながらも明星と話しながら歩いていた。そこへ、清吾たちの横に車の影がヌッと並んだかと思うと、少し先の方で停まった。

 清吾は少し不審には思ったが、声には出さずに気にしていない風を装った。


 停まった車は黒色の高級車であった。車から高級そうなスーツに身を包んだ細身な男が降りた。

 年齢は三十代半ばほど、髪をオールバックにしており口元には笑みを浮かべていた。


「明星ちゃーん! 」

 男は軽薄そうな声を出すと、清吾たちに近づいて来た。

 清吾は目が合うとペコリとお辞儀をした。男は清吾をチラリと一瞥して無視をした。一転して、明星に笑顔で「久しぶりだねぇ、元気にしてた? 」と嬉しそうに言った。


 清吾は無視された事に対して気分を害さなかった。何故ならこの男は阿呆だと直感したからだ。

 

 清吾と明星が一緒に歩いているくらいだから、二人が仲が知り合いなのは一目瞭然だである。そんな明星の知り合いである人間の挨拶をを無視するなんて、頭がどうかしている。

 清吾の事が気に入らないとして、そんな幼稚な行動をすると自分が損をするだけである。明星を困らせて、彼女に悪印象を与えるだけである。

 そのくらいの事も分からないなんてなんて馬鹿な男なんだろうと、清吾は素直に感心した。


「株式会社ユナイトロウの副社長の大友 義宗さんです。父の会社が大変お世話になっております」

 男が清吾を無視したのを気遣ってか、明星は気まずそうに男を清吾に紹介した。清吾は明星の紹介の仕方から、大友は今川家が怒らせてはいけない人物なのだと察した。


 清吾は気が進まなかったが再び挨拶をしようとした。だが、それも大友に途中で遮られた。


「やあ、やあ、やあ、はい、はい、はい。今川さんのご学友の方かな? 大友です。ご存じかな? 僕の会社のこと? 」

 お前の名前なんてどうでもよいとばかりに、清吾の名乗りの途中で、大友は自分の事を名乗りだした。そしてさもたった今、清吾の存在に気づいたかの様に振る舞う大友に対して流石に清吾も少しムカついた。


「イヤーしかし、ビックリしたよ。引っ越したこと何も教えてくれないからさ。お父様に伺ったけど下宿してるんだって? 住所教えてくれないから部下にも手伝ってもらって大学から明星ちゃんの後をつけちゃったよ」

 大友はデレデレ、ニヤニヤと鼻の下を伸ばしながら恐ろしい事を語った。


 この男、阿呆の上に気持ち悪い。


 その後、大友は、清吾のことは全く居ない者として明星に喋り続けた。


 明星は絡みつく大友をなんとか振りほどくように対応しているが、彼女の笑顔は引き攣っている。明星の態度から彼女にとって邪険に扱ってはいけない人間なのだろうという事は容易に推測できた。


「ところで久しぶりに会えたんだから、今から美味しいレストランで一緒に夕食でもどう? 予約の中々取れないレストランがあるんだけど、僕なら予約無しの顔パスだよ」

「え、ええ素敵ですね。ただ、今日はちょっと都合が悪くて」

「そこはヴィンテージワインも揃えているんだよ。ちゃんと今日中に家まで送るから。夕食だけも無理? 僕たちが仲良くした方がお父様も喜ばれると思うけどなぁ」

「ええ、もちろんです! これからもよろしくお願いします。ただ、まだ一人暮らしにも慣れていませんので、また次の機会に……」

 明星は、硬くぎこちない笑顔で大友誘いをやんわりと断ろうとしている。


「じゃあ仕方がないなぁ、今日のところは車で送って行くよ。その代わり、ちょっと下宿先の部屋を拝見させてよ」

「あっ、いえ、えっと、あの、実は下宿先はちょっと教えてはいけないことになっていまして……少し複雑な事情がありまして」

 明星は困惑して清吾をチラリと見た。


 清吾は明星が、ウロコの家の秘密を守るために気を遣っているのか、それとも大友からの猛攻に助けを求めているのか分からなかった。


「でも彼は、明星ちゃんの下宿先まで付いて行くんじゃないの? 」

 大友は清吾に掌を向けを非難するように見た。

 清吾は大友が背の存在を覚えていた事に驚いた。明星の姿しか見えていないのかと思っていたのに。


 清吾は下宿先の家主を名乗ろうかどうか迷った。だがそうすると余計に複雑な事になりそうである。

 迷った末に白状しようとする清吾を明星が制した。

 恐らく彼女の口から言うのだろう、そう考え清吾は大人しく従った。

「彼とはお付き合いしています」

 明星の凛としたよく通る声。

 清吾は彼女の心地良い声に、つい聴き入ってしまった。清吾は明星が言った内容を直ぐには理解出来なかった。

「そう、僕が、家主です! んっ? んんっ? ええっ?!」

 清吾は泡を食って明星を見た。彼女は申し訳なさそうな顔をしながら清吾に頷いた。明星の立場を理解した清吾は黙って頷き返した。


「ちょっと、ちょっと、明星ちゃん、本気で言ってるのかい? 」

 大友は半笑いしながらも、少し威圧的な態度に変わった。

 明星が頷くと、大友は「君、恋人はいないし、今までもいなかったって言ってたよね」と彼女を非難した。

「申し訳ありません。あの時は本当にそうだったのですが…………」

 明星が言い終わるか終わらないか、大友は黙って一歩、二歩と清吾に近づいて来た。先ほどまでのデレデレした大友の顔は、人前でしてはいけないほどの怒りを露わにした顔になっている。


 大友が目の前にやって来ると、自転車が倒れる音と同時に清吾は後ろに倒れ尻餅をついた。同時に清吾が支えていた自転車が倒れた。その後、頬に衝撃が走った。

 明星が慌てて尻餅をついた清吾に被うようにしゃがみ込み「清吾さん! 大丈夫ですか? 」と言った。

 それから振り向いて、よく通る声で大友を避難した。

「いきなり暴力を振るうなんて、何考えてるんですか? 」


 明星の言葉で、漸く清吾は大友に殴られたことを理解した。やり返そうと思う気持ちは、全く起きなかった。頬にそこまでの痛みもなかったが、いきなり殴られた事に清吾は動揺して、頭の中が真っ白になってしまったからだ。


 徐々に状況を把握しつつも、身体に力が入らずに中々立ち上がることが出来なかった。

 今、ここで大友と揉めても明星が困るだけだろうと思いどうにか堪えた。だが、それは言い訳にすぎない。


 もともと大きくはなかった清吾の勇気の心は、大友のたった一度の暴力に削られてしまったのだ。

 清吾は暴力とは全く無縁の環境で育った。どちらかと言えば温室育ちである。

 小学生の頃ならまだしも、大人になってから人と殴り合った経験の無い清吾である。そんな彼は殴り倒され座った状態で、ただ大友を見上げる事しか出来なかった。

 

 

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