第2話 よかった

 衝撃の夜が明け、朝を迎えた。

 俺が目を覚ますと、隣で寝ていたはずの妹の姿が見えない。

 

 気だるい体に鞭を打ち、重い足取りで階段を降りるといい匂いがしてくる。

 俺が起きてきたのに気づいた母が、声をかけた。



「あら、やっと起きたの浩介。はやく顔洗ってらっしゃい。朝食冷めるよ」


「ふぁ~……おはよー」


「全く……咲ちゃんなんか早起きして朝食の準備を手伝ってくれたっていうのに!」


「はっはっは、浩介、ママに怒られた」


「あなたも人のこと言えないでしょ。はぁ、どうして男ってこうなのかしら……」


「……」


「やーい親父も怒られてやんの」


「なにぃー!!」



 俺はムキになる親父から逃げるように洗面台へ行き、顔を洗う。

 そして食卓に戻り、全員が揃ったところで朝食をいただいた。



「「いただきます!」」


「はい、どーぞ。召し上がれ」



 朝食はスクランブルエッグとトースト、それにトマトとレタスのサラダだ。



「もぐもぐ……ん? なんかいつもより卵が甘いぞ」


「あら、気付いた? そのスクランブルエッグ、咲ちゃんが作ったのよ」


「どうですか? 兄さん」


「んー……母さんのやつのが好き」


「バカだなぁ浩介。咲のスクランブルエッグのが旨いに決まってるだろ!! もぐもぐ……うん! いつもに増して旨く感じるぞ~咲ぃ~!」


「あら、そう。あなたのは私の愛情がたっぷり詰まったスクランブルエッグよ。美味しそうで何よりだわ」


「……」



 母親はニコニコと笑いながらも口元をヒクヒクとさせている。親父はみるみると背中を丸めて小さくなり、いそいそと朝食を食べ続けた。


 咲はいつも通り、大人しく小さな口を一生懸命動かしながら黙々と食べている。

 しかし、どことなくションボリしているような気がした。



「ま、たまには甘いのもいいよな」



 作ってもらってるだけの身としては、このままじゃ罪悪感を背負ってしまう気がしたので少し露骨なフォローを言葉にする。



「……よかった」



 妹はそう一言だけいって、また口を忙しそうに動かし、朝食を食べ続けた。





 朝食を終えて歯を磨いた後、俺と妹は家を出た。


 妹が小学校に入学して以来、いつも登校するときは手を繋いでいる。

 俺は少し恥ずかしかったが、だからといって小1の妹を置いて先に歩くのも不安なのでしばらくはこうするしかない。


 登校中、妹は芸能人ってこともあり、時々カメラをもった大人が近寄ったりするが、そんな時はいつも見守ってくれている近所の人が追い払ってくれる。それでなくとも道行く人は小3の男児と小1の女児が仲良く手を繋いで登校する光景を微笑ましく見たりするので、良くも悪くも俺たちにはいつも人の目があった。



「おはよう! 浩介君、咲ちゃん! また二人で仲良くしてる姿が見れて嬉しいわ」



 登校中、特に話すこともなく手を繋いで歩いでいると昔から近くに住んでいるお婆さんが声をかけてきた。



「おはよーばあちゃん」

「おはようございます。おばさん」



 今では家で物静かな妹だが、外に出るとニッコリと笑いながら愛想よく声を出して挨拶をする。それはまるで昔の咲のようで、俺と一緒に公園で遊んでいた頃は家でも外でもキャッキャと騒がしい元気なやつだった。



「咲ちゃん! 昨日テレビ観たよぉ! 可愛かったわ~」


「ありがとうございます。今度、映画にも少し出るので観てみてください」


「へぇー、映画にも! ますます人気ねぇ!」


「おばさんや皆さんのおかげです」


「あらっ、じゃあもっと頑張って応援するわね!」


「ありがとうございます」



 ニコニコと会話をし、手を振りながらも妹は足を止めずに進む。

 遅刻しそうなわけでもないし、せっかく話しかけてもらってるんだから少しくらい足を止めて話せばいいのにと思う俺をグイグイと引っ張る。



「……咲」


「? 何ですか、兄さん」



 俺の手を引きながら先を歩く妹の足が止まる。

 そして体を振り返り、俺の言葉を無表情で待つ。



「あっ……や、別に……」


「ヘンな兄さん。さ、行きますよ」



 そういって妹は再び歩き出す。

 今度は少し後ろに、あたかも手を引かれる少女のように歩いていた。






 学校に着き、俺は咲と別れた。

 1年生の咲は1階の教室へ。俺は2階にある教室へ向かう。


 階段を上る途中、後ろから同じクラスの友人が声をかけてきた。



「柳川! おっはよー!」


「おっす、田中」


「今日も手を繋いでたな~。相変わらず柳川兄妹は仲がいいね~」


「茶化すなよ……恥ずかしい」


「別にいいじゃんか。妹ちゃん可愛いし、愛想もいいし、何より有名人だし。俺の弟なんてもうヤンチャでヤンチャで……」


「喧嘩とかすんの?」


「もう毎日よ。俺のアイスとか勝手に食うし、ゲームだって勝手に使うし」


「ふーん……そっか」


「お前んとこはしないの?」


「そういうので喧嘩したことないなぁ」



 自分で言うのも何だが、俺は結構世話するのが好きな兄貴だった。

 おやつとかは何でも一緒に分けて食べてたし、遊びも小さな妹ができそうな簡単な玩具を使って遊んでただけ。

 

 妹もいつも俺の後ろをついて歩いてたし、言うことは何でも素直に聞いていた。


 まぁ、今でも喧嘩しない最大の要因は何かを取り合うことが無いからだろう。

 今の妹は、欲しいものがあれば大抵のものは自分で買えてしまうのだから。



「いーなー。俺も弟じゃなくて妹がよかったわ。可愛げがあるし、暴れないし」


「あ、でも昨日ちょっとあったな」


「へぇ、あの妹ちゃんでも喧嘩することあんだ」


「ちょっとした言い合いだよ」


「ふーん……で、どうだった? 勝った?」


「なんだよ、勝ったって……ま、当然だろ。兄貴の俺が負けるわけねぇじゃん」



 嘘は言っていない。

 そもそも「喧嘩した」とは一言も言っていないし、だから勝敗も何もない。

 だから俺は負けてない。



「ひでぇ、妹ちゃん泣かせたんだ」


「誰もそんなこと言ってないだろ! 俺の方が偉いって教えてやっただけだ」


「ははっ、妹ちゃんってどんな風に怒るの?」


「えっ……」



 あまり思い出したくない記憶が呼び起こされる。

 まさか妹があんな癇癪を起すとは思わなかった。

 というよりも、あれは怒っていたのだろうか……。



「ふ、普通だよ。ふつー……は、はは」


「何だ急にヘラヘラして。何だよふつーって」


「俺んちのことはいーんだよ! 田中んちはどうなんだ」


「あー、最近道具使うこと覚えてなー。傘とか持って振り回してくる」


「あぶねー……。で、お前はどうすんの?」


「殴っちゃうと親に怒られるからなー。最近は唾飛ばし攻撃してる」


「唾飛ばすの? きったねー」


「でも効果抜群だぜ。ケガさせなくても済むしな」


「ふーん……」



 そんな雑談をしながら教室に入り、俺は自分の席に着いた。

 その後も授業を受けながら友人たちと他愛もない会話をしたりして、いつも通りの学校生活を過ごし、下校途中友人と道草しながら帰宅した。



 妹は学校が終わると校門前に停まっている車に乗り込み、芸能活動のためいろいろな所へ移動する。


 時折、車に乗り込む妹の姿を見ることがあるのだが、俺は可哀そうだと思った。

 妹くらいの低学年の女児たちが集団でお喋りをしながら楽しそうに下校する中、一人で車に乗り込む妹の背中は小さく、寂しそうだったからだ。






 夕方になり、昨日と同じ時間に妹が帰宅する。

 いつも通り両親は高いテンションで妹を出迎え、妹はただ一言「ただいま」とだけで済ました。



「兄さん。ただいま」


「おかえり。咲」



 俺はソファーに座ったまま、妹へ返事をする。

 

 いつも通りのやりとり。あとは妹がシャワーを浴びて着替えてくるのだが、今日は珍しく話したい話題があったようだ。



「兄さん」


「んー? なにぃ?」


「昨日言ってた鬼殺しの剣、帰りの車で読みました」


「おっ、マジで? 本買ったの?」


「電子書籍です。面白かった」


「だろー? 技がかっこいーよなー!」


「いえ、そこではなく。主人公に好感が持てました。妹のために頑張る姿とか」


「あぁー確かになー」


「兄さんみたい」


「え? ……へ、へへ、そう? やっぱり?」


「はい。私はそういうの、好きです」


「そっかー。ま、俺はチェンソーメンが一番好きだったりするんだけど」


「……」


「あ、あれ?」



 漫画に興味が出てきたのかと思い、次のおすすめを紹介したつもりだったが、妹は無言のまま浴室へ向かった。


 随分と気分屋になっちまったようだな、妹よ。




 その後、妹が戻り、夕食を家族で囲む。

 いつも通りテレビをつけるとそこには妹が映っていて、コマーシャルにトーク番組、特番のドラマと様々な活躍をみせている。


 両親は相も変わらずそれに喜び、妹も変わらず照れる様子もなく黙々とご飯を食べ進める。


 そのまま我が家にすれば大して変わり映えのしない時間を過ごし、明日に備えて眠る時間となった。


 両親は1階の寝室に入り、俺たちも2階の自分の部屋へ向かう。

 その途中の廊下で、妹はどことなく嬉しそうな声で言った。



「兄さん。昨日の約束、覚えてますか?」


「え? うーん……あ! 今日は咲の部屋に行くんだっけ」


「そうです。枕も持ってきてください」


「あいー」



 そうして俺は自分の部屋から枕を片手に、妹の部屋に入る。



 ガチャッ

「おまたー」



 部屋に入ると、ベットと机、それに衣装棚が並んでいる。

 俺がまだこの部屋にいた時と模様は大して変わってはいないが、妹の使うシャンプーが変わったのか、部屋の匂いが女の子っぽいものに変わっていた。



「兄さん、入る前はノックをしてください」

 

「えー……いーじゃん別に」


「だめです」


「妹のくせに生意気な」


「まだ言いますか、兄さん」


「俺は認めてない、昨日は油断していただけだ!!」


「はぁ……」



 ヤレヤレという素振りをしながら妹が俺に近づいてくる。


 愚かな妹よ、二度も同じ手段が通じると思うな。

 俺には枕というモコモコの防具がある。

 これで下半身を守ることにより、守備は完璧。


 そして攻撃は……



「動くなっ!!!!」


「っ!?」



 急な俺の大声に少しびっくりした様子の妹。



「急に何ですか。ビックリさせないでください」


「咲……いや、愚妹よ、お前のために忠告してやろう……そこから1歩でも近づくと、お前の身は保証できないぜ」


「枕を必死に抱きかかえながら言っても、説得力ないですよ。兄さん」


「フゥー……言っても分らぬとは、な……。俺は今朝、奥義を習得したのだ。もはや俺に弱点など存在しないのだ!」


「思春期にはまだ早いです。バカなこと言ってないで早くこっちに来てください」



 そういいながらも俺の忠告を無視し、歩みを進めてしまった妹。


 ――俺は忠告したぜ? 妹よ!



「はぁああああ!! 全集中! 水の呼吸、水てっぽう!! ぺっぺっぺっぺ!」



 そう、今朝習得した奥義、唾飛ばし。

 相手に嫌悪感を与え、怯ませるという恐ろしい技。


 両手が塞がった状態でも使える攻守一体の構えだ。



「ぺぺぺぺ――――……ッ!? な、なんだと!?」


「はぁ……行儀が悪いですよ、兄さん」



 俺の唾を躱した……? いやっ違う!

 妹の顔を見てみると、俺の唾がついてテカテカと光っている!



「バカな、効いていないだと!! 気持ち悪くないのか!?」


「特には。ただ、ちょっと臭いので後で顔を洗わないといけませんね」



 気が付くと、妹はもう俺の目の前に立っていた。

 だが、まだ慌てる時間ではない。俺には枕という鉄壁の防具がある。



「ふっ、見事だ。しかし、これでは勝負がつかんなぁ?」


「何でそんな悪役風なんですか」


「さぁ、どうする? どうするんだね? ハーッハッハッハ」



 俺は妹が無理やり枕を退かし、急所を掴んでくるのを警戒していた。

 だから意識が下半身のほうに向いていて、妹の手が俺の顔を掴むまで気づかなかった。



 ムギュ

「な、なにをするー!」


「……」



 妹は俺の顔を掴み、徐々に自分の顔を近づけてくる。

 その表情はどこかしたり顔で、何か悪だくみをしているような邪なものだった。



「ま、まさか……!」


「仕返しですよ。兄さん」



 ――ペロリ



 背中からゾワゾワとする。

 他人から顔を舐められるという感覚に、今までにないものが芽生えた。



「ふぇぇえええ!」



 俺は思わず枕から手を離し、舐められた頬をゴシゴシと擦る。



「お、おまえ!! 正気か!!」


「そのままお返しします」



 妹はニヤリと笑い、そして遂にはその魔の手で俺の股間を掴んだ。



「はぅっ! ヤ、ヤメテ……話し合おう、俺たちは分かりあえる」


「フフフ、兄さんって面白い」


「一回休戦しよう、な? 咲も顔洗ってきたほうがいいって! 俺、最強のウイルスもってっから! 洗わないと大変だから! な!!」


「そうですね……じゃあ、顔洗いに行きましょうか」


「俺は大丈夫だし。バリアはってたし」


「……」


 ――ペロリ


「ふぉぉおおお!! お前、またやったな! 今度は首!!」


「……そんなに嫌ですか?」


「――え? うーん……言われてみると別にそこまでは……」



 言われてみると、思ってたほど嫌悪感は無い。というかほとんどない。

 妹が全然ダメージ受けなかったのも頷ける。



「フフッ、よかった」


「は、ははっ」



 妹の笑顔につられて、俺も笑ってしまう。

 なんだか、久しぶりに昔のように妹と遊んだ気がして、嬉しかった。

 きっと、妹もそうだろう。


 笑うフリではなく、本当に楽しそうに笑っている妹を見て、俺は嬉しかった。


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