第3話 好き

「全く……兄さんが可笑しなことを始めるから、寝るのが遅くなりました」


「さっきも顔洗いながら謝ったじゃんか……ごめん」



 俺と妹は、唾液で汚れた顔を洗顔して再び妹の部屋へ戻った。

 冷静に自分の行いを振り返ってみると、妹とはいえ年下の女子に唾をかけるなんてどうかしていた。

 普段の俺はもっと紳士的なはずなのに、どうしてこんなことをしたんだろう。


 俺は賢い頭をフル回転させ、今回の事件の原因を推測した。

 そして天才的頭脳によって導かれた結論は――――田中が悪い。

 田中が学校で余計なことを俺に吹き込まなければ、俺の大事な妹は俺の唾液まみれにならずに済んだというのに……許せん!



「咲、お前の代わりに俺が田中をきっちり叱っておくからな」


「誰ですか、田中って」


「咲が唾液塗れになった諸悪の根源だ!」


「兄さんは本当に変な人ですね」



 妹は心底憐みを抱くような目で俺を見る。

 兄への尊敬が感じられない行為ではあるが、今は許そう。

 お前もまた、田中という巨悪の被害者なのだから……。



「さ、もう寝ますよ。はやくお布団に入りましょう」


「そうだな。もう寝よう」



 俺と妹は昨夜と同様、一つのベッドに一つの大きな布団の中、枕を並べて寝る。

 ただ、もう一つ昨夜と同じものがある。


 それは――……



「な、なあ咲。お前の手、俺の大事なものを掴んでるんだけど……」


「兄さん、猫を大人しくさせる方法知ってますか?」


「え、無視?」


「首の後ろを摘まむと、どんな猫も大人しくなるそうなんです」


「へぇ、そうなんだ。……それって今関係ある?」


「いえ、特には」


「おぉぃ――――ッ!」



 俺が文句を言おうとした瞬間、ギュッとした衝撃が股間から走る。

 痛みではなく、緊張。

 これ以上強く握られれば、確実に悶絶するという絶妙な加減。



「ほら、大人しくなった」


「お、俺は猫じゃあねぇよ?」


「フフ。こうでもしないと、兄さんは大人しくしてくれないから」


「大人しくするって誓うから、やめて?」


「痛くしないので我慢してください」


「そう言った歯医者は皆俺を裏切ったぜ」


「私は歯医者さんではないので」


「あー言えば、こー言う! 一体、誰に似たんだ!!」


「私の敬愛する兄さんに決まってるじゃないですか」



 口の減らない妹だ。

 しかし、敬愛すると言われてしまうと微妙に怒りにくい。

 俺は不完全燃焼気味ではあったが沈黙することにした。


 何だか、このやり取りは両親みたいだ。

 親父と母親が口論になれば、最後には必ず親父が黙ってしまう。

 その後、親父は俺に『女と口喧嘩しても、碌なことにはならない』と愚痴を零していた。

 まさに今、それを痛感してるぜ。親父。



 もう股間を掴まれながらでも眠ろうと瞼を閉じ、意識を手放すことに専念していると、妹が話しかけてきた。



「ねぇ、兄さん」


「ただいま留守にしております。また明日にどうぞ」


「……」


 ギュッ


「ッ!? 何だよ、もう! 今日は珍しくお喋りだな!!」


「昨日のことで……私、嘘をついたんです」


「はあ? 嘘って何さ」


「楽しいこと、お仕事じゃないです」


「そうなの?」


「はい。本当は忙しいし、大変でつらいこともいっぱいあります」


「……そっか」


「私の楽しいこと……いえ、好きなものは――兄さんです」


「何だよ、今更。俺も咲のこと好きだぜ」


「――本当ですか?」



 当たり前すぎて、そんなものは言うまでもないことで。

 俺も、当然両親も、咲のことが好きだ。

 赤ん坊の頃から咲のことを知っているし、他にはいない大切な妹だ。


 まさか疑われるとは……心外だぜ。

 俺はそんな妹の疑いを晴らすべく、自信満々に言ってやった。



「俺は嘘をつかない紳士だぜ!」


「嘘」


「嘘じゃねーよ!!」


「昨日、私に酷いこと言いました。口利かないって、言いました」


「じょ、ジョーダンだから! だからあれはノーカンだから!」



 まさかそんなに根に持っていたとは思わなかった。


 子供の口喧嘩によく出てくるワードベスト10には入っているような陳腐な言葉なのに……実際そうなのかは知らないけど、子供の俺が言うんだから間違いない。



「じゃあ、もう一度言ってください」


「え? ……冗談、だよ?」


「それではなく。私のことをどう思っているのかを、もう一度、私の目を見て」



 別に嘘でもなんでもなく本心なのだから何度でも言えるが、改めて言うとなると何だか恥ずかしい。

 俺はつい照れ隠しに軽い気持ちで妹の要求を断った。



「ば、ばっか! 男ってのはそうベラベラと言葉を安売りしないもんなんだよ!」





「――――もしかして、うそ、だったんですか?」





「ひぃっ!」



 俺の照れ隠しは、どうやら妹の逆鱗に触れてしまったようだ。


 その小さい体からどうやって出しているのかと思うほど低いトーンで、瞳孔が開きすぎてどこを見ているのか分からないような眼で俺を問い詰める妹。


 こうなってはまたも俺の急所は大ダメージを受けかねない。

 男のプライドと男のシンボル。俺は後者を選んだ。



「へ、へへ、嘘じゃないです、はい。妹ダイスキー」


「……」



 少し遜った態度が出すぎただろうか。

 妹の視線が冷たい。


 だが、瞳孔の大きさは元に戻ってくれたようだ。



「兄さん」


「な、なんだよ。ちゃんと言っただろ! もう言わないからな!」




「――好き。好きよ。兄さん、大好き」




 妹はそう言いながらギュッと俺の体に抱き着いてくる。

 どうしたのだろう。今日はやけにお喋りで、甘えん坊だ。



「よせやい。照れるじゃんか」


「兄さん、兄さん!」


「お、おい、あんまりくっつくなよ。暑苦しい」


「や! 離さない。一緒にいて」


「……ったく、どうしたってんだよ」


「約束して。ずっと一緒だって」


「わかった、わかったよ……ずっと一緒だ。家族だからな」




 その後、妹は俺に抱き着いたまま寝てしまった。

 ただでさえ同じ布団の中にいて温かいのに、こうもくっつかれると暑苦しくて眠れない。だが、こっそり振り解こうとすると妹は寝ながらより身体を密着させ、絡ませてくる。


 仕方なく、俺は暑苦しい思いをしながら睡魔に襲われるまで妹の頭を撫でることにした。





 翌朝、やはり妹は先に起きたのか、姿が見えない。

 俺は寝汗で気持ち悪くなったパジャマを脱ぎ、自分の部屋で着替えた。


 そしてそのまま階段を降りると、食卓からいい匂いがする。



「おはよー」


「あら、おはよう。今日は早いのね」



 キッチンから母親の声した。

 そちらを見てみると、母親に並んでお立ち台の上に乗り、何やら作業をしている妹がいた。


 壁にかかっている時計は、まだ6時半の時刻を指している。



「あれ、まだそんな時間だったのか」


「何寝ぼけてるの。ほら、今日もあんたのために咲ちゃんが朝ごはん作ってるんだから顔洗って来なさい」


「今日の朝ごはんは何~?」


「今日は出汁巻き卵を作ってるの。昨日よりも難しいから、咲ちゃんも真剣ね」


「へぇ、頑張れよー咲」



 俺はそう声をかけ、顔を洗ってから料理が出来上がるまでテレビを観ていた。

 キッチンからは母親が手順を逐一教えている声がする。

 妹は集中しているのか一言も喋らず、調理していた。



 しばらくして、親父が起きてきた。

 そうして全員が揃い、食卓に朝ごはんが並ぶ。



「おっ、今日は出汁巻き卵かー……って、ずいぶん出来栄えに差があるな」



 親父のところに運ばれた卵は、焦げていて見た目からもパサパサしているのが分かる代物だった。

 妹と母親のところにあるのは綺麗な形をした完璧な出汁巻き卵。


 そして俺のところに運ばれたのは……



「なんか、でけぇ」



 焦げてはいないし、形も普通なのだが、明らかに一巻きも二巻きも大きい。



「はっ! わかったぞ。俺のは咲が作ったやつで、他のは母さんが作ったやつだな! どうだ、いいだろぉ浩介。今度は俺の方に咲手作りの料理がきたぞ!」


「お父さんのは咲ちゃんが最初につくった出汁巻き卵よ。浩介のは2回目のやつ」


「えっ」


「最初のは途中で焦がしちゃってねー。仕方ないからそれはお父さんのにして、2回目のやつに1回目の余った卵も入れたのよ」


「そ、そんなぁ」


「よかったわね、お父さん。お望みの咲ちゃんお手製よ」


「母さん……浩介ぇ……」



 落ち込みながら妬ましそうに俺を見る親父を無視し、出汁巻き卵を一口食べた。



「もぐもぐ……おっ、旨いな」


「咲ちゃん一生懸命作ったもの。当然よねー」


「これからも、私がずっと兄さんの分作ります」


「あら! 浩介ったら幸せ者ねー」


「コォスケェェエ!」



 突然の妹の宣言。母さんは呑気に喜び、親父は怨念を込めたかのような叫び。

 


「じゃあ、今度は卵以外で頼む」



 俺は特に深く考えず、次の朝食のリクエストをした。



 騒がしくも平和で、家族愛に満ちた幸せな日常。

 ありふれた日常の有難みは、失うまでは気が付かない。




 平凡なだけの人生は存在しない。


 必ず訪れる変化に対し、どう選択するのか。


 人生とは選択の連続である――そんなことを過去の偉人は言った。




 俺の人生、最初の選択の機会は妹が中学生へと成長したときに訪れた。


 

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