三十三人目の女性(罠を外す)
次の朝、俺は早く起きたつもりだったが、彼女の方が更に早かった。
部屋に姿は無く、軽い朝食の準備とメモがテーブルに残されていた。
『顧客へ直行扱いにしておくから、一旦帰って着替えてから出社しなさい。合鍵は週末に返してくれればいいわよ』
これは、週末のデートの約束か?
俺は起き上がると指示に甘えることにした。
職場の彼女に変化は無い。
相変わらずの氷の女ぶりだ。それは俺に対する受け答えでも変わりは無い。
俺の方も、今までと同じ態度を貫く。
だが、職場の雰囲気は少し変わった。
彼女のことを、やみくもに恐れる雰囲気は消えて、ピリピリとした空気が半減したと思う。
それは……俺の心境の変化によるせいだけではないはずだ。
週末は予想通り、ドライブに行こうと声がかかる。
海が見たいと言うリクエストに応えて、俺は伊豆の先端まで車を走らせた。
美しい白浜を歩く姿は、あの時アスファルトを裸足で歩いた時と同じ。
無邪気で、可愛らしい。
春の日差しが青緑色の水面に反射して彼女を包み込んだ。
眩し気に細めた目。
額にかざした白い指先。
振り向く穏やかな笑顔。
一つ一つに目が奪われる。
こんな感覚、今まであっただろうか?
やはり三十三人目は特別だな。
そう思う心の片隅で、もう三十四人目は必要無いと思っていることに驚く。
これが唯一無二の
ちらりとフタヒロの勝ち誇った顔が頭を過ったが、まあそれもいいだろうと素直に思った。
濃密な二日間を過ごしてマンションへ送り届けた俺に、彼女はもう少しだけと甘えたように言って来た。
二人でまた、あの桜の公園へと向かう。
あの夜と同じベンチに腰を下ろして、葉桜となってしまった枝を見上げた。
ほんの数日の間に、桜の木の様子も、俺達の関係も変化した。
俺は珍しくセンチメンタルな気分になって、彼女に視線を移した。
ところが俺と目を合わさないまま、彼女がおもむろに宣言したのだ。
「火遊びは今夜でおしまいよ。明日からは元の関係に戻りましょう」
「元の関係? 今更そんなのには戻れませんよ」
若干攻めるような口調になった俺の視線にたじろぐこと無く、今度は真っすぐに見返してきた彼女の瞳には、何の感情も映し出されていなかった。
「そうね。あなたの言うとおりだわ。元の関係になんて戻れないし、元の私に戻る必要も無いわね……でも、今日でおしまい」
「なぜ?」
「これ以上は危険だから」
俺はふっと肩の力を抜く。
「俺の事危険って知っていたはずでは?」
「あなたが危険なのでは無くて、私が危険なの」
「? どういう意味?」
「言ったでしょう。私は仕事に生きるって決めたの。だから恋は邪魔なのよ。でも時々やっぱり寂しくなるから、火遊びしたくなるだけ。でも飽きたらポイって捨てたくなるの」
「それなら俺みたいな男、ピッタリじゃないですか。都合の良い時だけ呼び出せる関係。うまく利用してくださいよ」
「そうね。そうできたらいいわね」
「俺はいっこうに構いませんよ」
俺は心の中に、チクリと痛みが走るのを感じた。
本当に、構わないと思っているのか? 密かに自問する。
彼女はそんな俺を見つめながら唇を噛み締めた。
さっきは完璧に隠しきっていたはずの熱を、今度は必死で抑えているような表情。
珍しく性急に言葉を継いだ。
「でもやめておくわ。私が本気になっちゃいそうだから」
「もちろん、本気になってくれても構いませんよ」
二人の視線が絡み合った。互いに逸らす事ができず見つめ続ける。
彼女の表情が一瞬苦しそうに歪んだ。
こみ上げる想いを無理に飲み込もうとして、静かに俯いた。
このまま抱きしめてキスしてしまえば、さっきの別れの言葉は無かったことにできるのではないだろうか。
俺はそんな衝動を必死で抑えながら、彼女の答えを待った。
しばしの沈黙の後絞り出された声は、擦れてはいても毅然としたものだった。
「私が嫌なの。今まで築いた物を捨てられないし変わりたいとも思わないのよ。言ったでしょう。私はどこまでも勝手な女だって」
「勝手は美しいです」
「最後まで優しいのね。ありがとう」
目の前で閉じられた宝石の箱は、もう二度と開かないのだと悟った。
これが、失恋の味ってやつか。
思っていた以上に苦いな……
俺は口の端をギリリと噛んだ。
そう言えば柚木の奴が言っていたな。
自爆して死んで来いって。
俺は自嘲的な笑みを浮かべた。
黙って彼女の部屋の合鍵を返すと、そのまま立ち上がった。
花の香の消えた公園には、車の走行音と排気ガスが紛れ込んでくる。
美しい
なぜ、余韻に浸る
「……ごめんなさい」
小さな小さな呟きが聞こえたと思ったのは空耳だったのか。
見送る潤んだ瞳は、涙が零れ落ちるのを防ぐかのように大きく見開かれていた。
俺はこの瞳を忘れないだろう。
やはり三十三は特別な数字になった。
そう、俺は三と言う数字に拘りを持っている。
だからこれからも、三十三と言う数字を思い出さずにはいられないだろう。
泡沫の恋の記憶と共に……
完
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