第40話
私は安浦の手を握って東京の渋谷に向かった。
電車の中では緊張しっぱなしだ。安浦も好きになってしまったのだ。車内では快適に走る電車は、祝日のためか今の時間帯は人が疎らだった。
渋谷の雑踏が心地よい。人々の行き交う景色を眺め、俺にも彼女ができたのか……。私は感慨深くなる心を踊らした。でも、私は呉林を……。
「ご主人様。朝食は?」
「まだだ。安浦は?」
「へへん。まだです」
少しピントが……ズレているのかも知れないが、とても可愛い彼女が出来た。思えば、この26年間。本当に何もしていなかった。恋人どころか仕事も。中村・上村には悪いが、一生懸命にやっていると言った仕事も、本当は真剣に打ち込んだことは私には皆無だった。
でも、今は違う。彼女も出来て……あ、呉林はどうしよう。やっぱり、今は仲間だと思って、食事のお礼ということにしようか? 取り敢えず、南米に行くために仕事にも精がでるようになった。
「ご主人様。知ってますか。渡部くんはこの辺りで歌を歌っていたんですよ」
「ふーん」
安浦は生き生きとした笑顔をしている。こんな笑顔は初めて見た。
「あたしは偶然出会って……。渡部くんったら、歌がうまいのよね。私も歌の練習をもちっと、しようかしら」
「俺はカラオケに行った時はないんだ。中村や上村は、あ、バイト仲間なんだが、二人は結構行っていたな。俺の娯楽は、まあ娯楽ばかりしていたが、パチンコと競馬が好きなのさ。中村や上村とは最近はプライベートではあまり会わないし。いつも一人で……」
歩道にあるキンモクセイの近くを通る。
「いいな。バイト仲間。あたしも独りぼっち。でも、あたしのバイトはお給料がとてもいいの」
「へえ。どんなバイトなんだ」
安浦はしばらく俯くと、
「メイド喫茶」
呟くような言葉だったが、私は合点がいった。
「それは……天職なんじゃ」
安浦は急に微笑んで、
「あたし。人をもてなすのが好きなの。大好き。小さい頃から……」
「そうなのか。俺はメイドとかよく知らないが……。ま、いいか」
安浦は顔をパッと上げた。
「ご主人様! 大好き!」
私の手を思いのほか強く握り、私も柔らかく握り返した。
そんな二人の後を何かが走ってきた。
「あぶねえぞ! コラァ!」
私は咄嗟に安浦の手を引張り、こちら側に引き込んだ。
「危ないじゃないか!」
私は生まれて初めて人のために怒声を発した。よく見ると……渡部だった。
蕎麦の重箱を片手に担いで、片手で自転車を器用に運転している。
「あ、赤羽さん?」
どうやら、出前中のようだ。渡部はこちらに謝ると人混みの間を器用に走り去って行った。
「渡部くん。お蕎麦屋のバイトしているんだ」
安浦が感心しているが、私は渡部の急な性格の変化のほうに、呆気にとられていた。乗り物に乗ると、性格が変わるのだろうか?
「なんか、お蕎麦食べたいな、あたし」
「俺も」
私たちは金が惜しいので、立ち食い蕎麦屋を探しだした。
渋谷は平日でも電車の昇降量は一日平均60万人。見渡す限り、人、人、人。とても賑やかで、若者に人気で、恐らく渡部はこの近辺にちょくちょく来るのだろう。彼の歌の精神はこの若者の街からきているのかも知れなかった。
車のリズミカルな騒音の風を感じ、灰色だが活気がある空を感じる。そんな自由な町の人たちが産んだのだろう。
立ち食い蕎麦屋の中は、午前11時の時間帯のせいで人がまばらだった。
「ねえ。ご主人様。私、ちょっとお手洗いに行ってきます」
「解った」
安浦は近くの洋服屋にパタパタと駆けて行った。
私は蕎麦を啜る。
今日は生き抜きで、遠い場所で遊んでいる。渡部と初めて現実の世界で出会った。
それから、時間が大分経った。余りにも遅いので携帯の時計を見ると、午後の1時30分。私はとっくに食べ終わった蕎麦と、安浦の食べ掛けの蕎麦は残して、立ち上がった。
安浦の入った洋服店へと勘定を済まして走り出す。
何かあったのは間違いない。
そう思いながら全速力で走っていると、私は急に立ち止った……辺りの雑踏がしない。
私は周囲を見回す。回りの人々は微動だにしない。そして、目の辺りが暗くなっていた。
「な!?」
私は咄嗟に身構える。別に格闘技を心得ている訳ではないが。身の危険を感じたのだ……。回りの人々は微動だにしなかった。
私は極度に緊張しながら、周囲を気にしながら安浦のいる洋服店までゆっくりと歩く。
周囲の人の何人かがこちらを向いた。
すると、私に向かってじりじりと歩きだした。
最初は20代半ばの茶髪の男が私に殴りかかってきた。
それから、サラリーマン。OL。
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