飲んだくれ

歌垣丈太郎

         飲んだくれ

                          歌垣丈太郎


 「いらっしゃあーい」

 いつもの重い樫のドアを開けると、有線放送のスピーカーから流れる演歌にのって、入り口近くで客の相手をしていたホステスの照美の元気な声がかかる。

 うなぎの寝床のような店の、長いカウンターをはさんで彼女とふざけていた中年客が、ふらふらと隅の席のほうへ向かう筒井守を、少しばかり敵意をふくんだような視線で振り返った。その客の前にはカミュのボトルとグラスが並び、小さな灰皿の中では照美の口紅がついた吸いかけのセーラムが、気怠そうにくゆっている。

 「遅かったわね」

 それまでほぼ中央のスツールに座って、若い3人連れの客を相手にしていたママの啓子が、待ち兼ねていたようにワンピースの裾をひるがえして擦り寄ってくると、いちばん隅っこに陣取った筒井守の横へ軽く腰掛けた。いきなり3人の若い客を一人で引き受けることになってしまったホステスの京子が、それでもカウンターの向こうからチラと目線だけで筒井へ挨拶をする。

 ママの啓子が着る服はいつも同じメーカーのワンピースと決まっている。その上、長めの髪をわずかにウエーブさせたヘアスタイルも変わらないときているから、この世界で毎日のように別人へと姿かたちを変える女たちを見慣れている筒井にしてみれば、そんな彼女にかえって新鮮さと安らぎを感じてしまうというのも頷ける。東京で7年ばかりTVタレントの真似事をやっていたというだけに、スタイルも良くてはっきりとした目鼻立ちは、雇われるだけの身ならいつでも北新地の高級クラブでナンバーワンの地位を確保しているだろう。

 「水割りでいいわね」

 「いや、熱燗をつけてくれへんかな。熱いやつを一杯やりたい」

 「えー、こんな時間からまだ日本酒を飲むの。もうだいぶ飲んでるじゃない。薄い水割りにしておいたら・・」

 「余計なお世話や、ぐずぐず言わんと早う用意してんか。それともなにか、この店にはカミュだけで、日本酒なんか置いてないとでも言うんかいな」

 「何を言ってるの。チョウさんのからだを心配しているだけよ」

 啓子はちょっとカミュの客のほうを気にしながら、しょうがないわねえ、という顔をして、厨房から急いで一品を運んできたバーテンの健ちゃんへ目配せをする。

 「いままでどこで飲んでたの」

 「法善寺の正弁丹吾やろ、それから千年町の和枝の店とみゆきの店」

 「めずらしく今夜はよく覚えているのね」 

 「いや待てよ、もう一軒どっかへ寄ったような気もするな」

 「やっぱりね。それでこのキタまでどうやって帰ってきたの。この時間で近距離だなんてタクシーは乗せてくれなかったでしょう」

 「みゆきの店の子が客に送ってもろうて帰るって言うから、その客が呼んだタクシーにキタまで乗せてもろうたというわけや」

 「あきれた。何を考えているのかしら、この人は」

 「ええやないか、別にラブホテルまでついて行こうというわけやない。桜の宮でも十三でもまあ通り道みたいなもんやろ。それに俺みたいな酔っ払いがちょっとお邪魔虫したほうが、かえってうまいこといくというもんやで」

 「何がうまくいくっていうの」  

 「そら男と女の仲に決まってるやないか。おかしな客やったなあ言うて、お互いに笑い合うてるうちにホテルへ着ける。しけこむまでの妙な気まずさも無うなる。そんなもんやで」

 「分かったようなことを言って。チョウさんから男と女の機微を教えられるとは思わなかったわ。このキタの夜の町はもちろんのこと、ミナミからだってみゆきさんや和枝さんからいろんな情報が入ってくるのよ。残念ながらあなたのことで入ってくる情報といったら、水掛け不動さんで頭から水をかぶって酔いを冷ましていたとか、いっぱいで入れなかったみゆきさんの店の前で堪えきれずにおしっこを洩らしたとか、お初天神さんの境内で勝手につくったおみくじを売って怒られているのを見たとか、色気のかけらも無い話ばっかり。たまにはどこかの店のホステスと深い仲になったらしいという色っぽい噂のひとつくらい聞いてみたいものだわ」

 「参ったなあ、なんでそんなしょうもない話だけが伝わるねん」

 威勢のよかった筒井守がとたんにしゅんとなる。

 それを見た啓子は、自分では軽い冗談で言ったつもりなのに、タレント崩れの歯切れのよい語り口が、自分の思っている以上に彼にはこたえるのかもしれないと反省する。そしてその償いでもするように、まあそんなことはどうでもいいじゃない、と言ってしきりに筒井を慰めながら、健ちゃんが持ってきたばかりの熱燗の首をつかむと、猪口を押しやるように勧めて酒を注いでやった。

 筒井守が店に入ったころから頻りに終電車の時間を気にしていた若い三人連れが、あわただしく席を立って帰ってしまうと、手早くそのあと片付けをした京子が二人の会話に加わってくる。照美のほうは相変わらずニコニコしながら、入り口の近くでカミュの客からしつこく口説かれているようだった。

 「チョウさんもたまにはあんなふうに京子さんを口説いてみたら」

 啓子がそんな照美とカミュの客を目線でしめしながら筒井にけしかけた。するとすかさず京子が話に割り込んでくる。

 「あら、そんなはことあり得へんわ。だって筒井さんはママが好きでこの店に来てはるんやもん。そやから絶対に浮気なんかしやはれへんわよ」

 「ところが違うのよ京子さん。わたしだってチョウさんのことが大好きだから、ずっとホテルにでも誘ってくれるのを待っているんだけど、この二年もの間に一度だってそんなことは無いんだから」

 「嘘ばっかし、そんなん誰も信用せえしませんよ。筒井さんがママの好い人やというのは、うちらかて常連さんかて知らん人はおらへんくらいなんやから」

 「まあそれはそれでいいの」

 「ええことないがな。京子ちゃん、ほんまにそんな噂が立ってるんかいな」

 啓子と京子が互い違いに注いでくる酒を、筒井守はそのたびに一息で飲み干してはすぐにまた猪口を突きつけるので、みるまに銚子の酒は残り少なくなっていく。だから啓子が、ときどき清水焼の銚子を筒井から遠ざけようとすると、彼はめざとくそれを見つけては自分の前へ引き戻してしまうのだった。

 「噂なんてもんやないわ。お客さんとかわたしらの間ではとっくに既成事実になってるんやから。ママと同じで筒井さんまでしらばくれるんですか」

 「そいつは知らんかったなあ。その噂がほんまやったら営業妨害になってるわけやろ。なら俺はもうこの店へは来んほうがええな」

 「あほなこと言わんといてぇな、チョウさん。しまいに怒りまっせ」

 眉を顰めた啓子がいきなり大阪弁になって筒井の膝をつねりあげた。

 ちょうど猪口を口もとへ運んでいた筒井は、不意打ちをくらって鼻息で猪口の酒を辺りに撒き散らすと、京子も笑いをこらえきれずにぷっと吹き出してしまった。

 高知から出てきて一時期だけ東京でタレント修業をしていた啓子は、ふだんは厳しく訓練された標準語で話すくせが身についているのだが、その彼女がときどき使い始める慣れない大阪弁ほどおかしなものは無いのだった。

 だがたしかに〈あほ〉という言葉はどう言い替えても標準語にはなじまない。

 「笑われてもかましまへん。わたしはこれからもどんどん大阪弁を使いまっせ。この先もずっと大阪で住むことに決めたんやもん」

 健ちゃんに命じて用意させたブランデーを舐めながら、啓子が澄ました顔でそう言うと、それまで笑いこけていた京子は急にしんみりとして下を向いてしまった。ちょっと光をおびた筒井の瞳がそんな女たちを掬いあげる。

 「それはそうと京子ちゃん、俺とおんなじであんたは日本酒が好きやったやないか。そろそろお店も看板やろ、酔っ払ってしもうたかてかめへんさかい俺に付き合えや。ほら早う自分の猪口を用意せんかいな。それに健ちゃん、酒や酒や、もっと持って来んとあかんがな」

 そう言って筒井が大声でわめき散らすと、あわてて後ろの洋酒棚から新たに自分で引っ張り取り出した猪口を差し出しながら、京子は疑い深そうに筒井の顔を窺い、次には呆れたような溜息をつきながら言った。

 「ほんまにお酒が好きなんやというのは分かりますけど、筒井さんはお酒だけで女の人なんかには興味が無いんですか」

 「そんなわけ無いやないか。人並みに興味はあるつもりやで」

 「そやったら何でママの気持ちが分からへんの」

 「何を言うてんねん、今は別居してるけどこれでも俺には妻や子がおるんやで。気持ちが分かったから言うてどないも出来へんやないか」

 「奥さんや子どもが何やのん。それに結婚なんか出来んでもええやないの。ママのほうかてそんなことは承知の上やわ」

 「それだけやない。あんたもいちばん最初からの従業員なら知ってるように、客と出来たホステスは辞めてもらう、という決まりがこの店にはあるそうやないか。それはこの店を開くときにママ自身が決めたことやと聞いてる。そやからもし俺がママと出来たりなんかしたら、自分で決めた法律を自分で破ることになる。それでは他の者に示しがつかへんやろ」

 「そんなん、いかにも言い訳がましいわ。うちかてもし大好きなお客さんが出来たら、店の決まり通りにすぐ辞めてその人と一緒になるもん。ママかてそのときは店をたたむくらいの覚悟はできてはると思うし」

 「京子さん、もうええ加減にやめてぇな。確かにわたしはチョウさんが好きやで。そやけどそれはそれだけでええねん」

 「ママもママやわ。うちらよりちょっと歳をとってると言うてもまだ三十歳前やないですか。分別くさすぎるんと違いますか」

 「そうやない。わたしは知ってますねん。チョウさんはちっとも女嫌いなんかやないし、わたしが嫌いでもない。ただ別に好きな人がいてはるだけなんよ」

 「えー、吃驚した。ママ以外にも好きな人がいてはるやなんて、それはほんまですか。いったい誰ですねんその人は」

 「同じ会社の人でね。一ぺんだけこの店へもチョウさんが連れてきはったけど、女のわたしでも好きになりそうな可愛いらしい人やった。カラオケの歌も上手やったし、人当たりと場持ちも凄くよい娘さんでね。京子さんたちには失礼な言い方になるけど、この店にもこんなホステスさんがいてくれたら、どれほど助かるやろなあと思うたくらいや。その時はチョウさんの好きな人やとは気がつかへんかったけど、この人は時々ほんまに酔っ払って寝てしもうたら、寝言でその子の名前をなんべんも呼んだりするんやから。哀しゅうなってしまう」

 「へえー。それでその人と筒井さんはもう出来てはるんですか」

 「水商売の女ひとり抱くのんにもこんな屁理屈をこねはる人やから、とてもそこまでは行ってへんと思うわ。それにもしその人と出来てはってたら、相変わらず飲んだくれて今頃こんなとこに居てはらへんはずやろ」

 啓子のどことなく奇妙な大阪弁が続いている。しかしもう京子はそれを笑ったりしなかった。イントネーションのところどころがひどく可笑しいのは相変わらずだったけれど、それほど耳障りでなくなっているのは、啓子のひたむきな気持ちが大阪弁の持つ心の一部を引き寄せつつあるのかもしれない。

 「ママの話、ほんまですか筒井さん」

 京子はあえて筒井から目を反らしてそう言うと、手もとにあったおしぼりであずき色のカウンターをごしごし磨きはじめた。それは好奇心が起きたときにやる彼女の仕草の一つで、せかせかと右手を休みなく動かしてはいるが、答えを聞き出すまで決して諦めないという意気込みはずっと彼に向けられたままだった。

 だが筒井守は珍しくむっとした表情になって京子の質問を無視すると、かたや涼しい顔で彼をみつめている啓子のほうを睨みつけたきり何も答えない。

 「ほら見てみいな、京子さん。チョウさんのあのけったいな顔を。あたりぃ、という顔してはるわ。ほんま悔しいなあ、もう」

 「なるほど、その女性とうまいこといかんから何時もこないに飲んだくれてばっかりいてはるんやな。ママも可哀そうやけど、筒井さんかて同情もんですやん」

 「片思いと言うのはそんなもんなんかなあ。わたしが好きでもチョウさんにはその娘がいてる。チョウさんがなんぼ惚れてもその娘には別の男がいてる。さらにご丁寧なことに、その娘の好きな男とチョウさんにはどっちも妻子がいてるとくるんやさかい。なんやお初天神さんがうらめしゅうなってくるわ」

 「へぇー。その女性の相手もやっぱり妻子持ちなんですか」

 そう言って驚いた京子のカウンター磨きにはますます熱がこもってきた。

 彼女の右手はオーケストラの指揮者のようになめらかに、規則正しくカウンターの上をすべっていく。ほとんど手元は見ていないのに、グラスや灰皿のあいだを巧みに擦り抜けて、まるで手のひらに目が付いているかのようだった。

 「お前らええかげんにしとかんと、俺かて終いに怒るで。勝手なことばっかり、ぺらぺら喋りくさってから」

 「はいはい、分かりました。もうこれ以上は何も言わしませんから」

 今度は啓子のほうがぷいと顔をそむけて頬をふくらませる。

 とたんに詰まらなさそうな表情になった京子の手の動きが止まった。

 そして三人の間で何となく気まずい空気が流れそうになったとき、いきなり天井のボウズのスピーカーが大きな音を立てはじめた。カミュの客のカラオケが始まったのだ。照美がいかにもほっとした顔になって三人のほうへウインクを送る。 

 厨房から上半身だけを出した健ちゃんが、啓子のほうを見て申し訳なさそうな顔をで目礼を送っていた。この店の近くの北海亭という中華料理店でコックをめざして働いてる恋人の直子を、そろそろ迎えに行く時間のようだ。健ちゃんと直子は中崎町で同棲しているということである。啓子が小さく頷くと、彼はするりと厨房を抜け出て客席の後方に回りこみ、カラオケに夢中になっているカミュの客には気付かれないようにそっとドアを引いて帰っていった。

 「ところでママ、前から聞こう聞こうと思っていたんやけど、ママはどうして筒井さんのことをチョウさんて呼ぶの」

 「最初に知り合ったお店で筒井さんはみんなからそう呼ばれてたんよ。その店のマスターとこの人は、大阪生まれやのにどういうわけかジャイアンツのファンでね。とくに現役のときの長嶋茂雄に夢中だったんだって。それでマスターが、年上のこの人に敬意をはらって、チョウさんと呼ぶようになったんやそうよ」

 「ふーん、長嶋ってチョウさんと呼ばれてたんだ」

 「わたしも知らなかったんだけど、そうらしいわね。そうでしょうチョウさん」

 「まあな」

 筒井は短く答えて照れ臭そうに頭を掻いただけでまた手元へ銚子を引き寄せた。

 「それならわたしも、これから筒井さんのことをチョウさんと呼ばしてもらうわ。かまへんでしょう、ママ」

 「どうぞご勝手に。べつにわたしの諒解を求めることやあらへんわ」

 「ついでにもうひとつ前から聞きたいなあと思ってたことがありますねん。それはママがチョウさんに入れ込むようになったきっかけです。その頃に、何かきっかけがあったような気ぃがするんですけど」

 「詮索好きの京子さんにかかったらかなわんな。まあ別に隠すようなことでもないから言うてもええんやけど」

 さすがに閉店まぎわに飲んだブランデーが酔いを深めたのか、啓子はぼうっとした顔で筒井をみつめながらそう言った。

 「やめろよそんな話。あんたの恥をさらすようなもんやないか」

 だがそういう筒井の制止も聞かないで、啓子は少女のように無邪気な顔になって京子を相手に話しはじめた。

 人に対する警戒心というものが少なく、すぐ他人の要望や誘いに乗ってしまうこういう女だから、啓子は汚い駆け引きや愛欲が渦巻いている水商売の世界にはもともと不向きなのだ、と筒井は思っている。経験の浅さだけとは言えないそんな危なっかしさを放っておけなくなって、あの事件以来、新規開店へ向けて色々と力を貸してきたし、毎夜のようにこの店を覗くようになってしまったのだから。

 二年前、タレントに見切りをつけて大阪へ流れて来た啓子は、高知県の中村市に住んでいる親馬鹿丸出しの父親から援助を受けて、小さなラウンジバーを自分で開こうと計画した。とりあえずジャイアンツフアンのマスターがいる店のホステスになったのは、その前に少しでも水商売の経験を積んでおこうと考えたわけで、この辺りまではなかなか慎重で殊勝な心がけだったと言えよう。ところがそろそろ開店を具体化していこうという時期になって、啓子はそのことを店に来る客の誰かれとなしに相談してしまった。するとたちまち不動産の悪徳ブローカーと地回りのコンビに目をつけられ、偽の営業権利書と引き替えに多額の権利金をだましとられる寸前にまでいってしまったのである。啓子が安易に捺印した契約書を楯にして、ブローカーたちは彼女を脅迫し続けた。百戦錬磨の彼らにとってみれば、啓子など過去に手掛けたどんな仕事よりも簡単で手間のかからない相手だったから、もう現金を手中にしたも同然だというちょっとした油断があったのかもしれない。彼らは図に乗って啓子のからだまで要求してきたのである。あわよくば意のままにして風俗へ売り飛ばしたあと、ヒモになってとことん搾り取ってやろうと考えたのかもしれない。お金だけならと半ば諦めかけていた啓子も、彼らのそんな魂胆が見えてくると、さすがにこのまま泣き寝入りすることの愚かさと、迫りつつある身の危険を感じた。しかし高知の親に助けを求めることも出来ないし、住み始めたばかりの大阪に頼れる知人もいなかったので、啓子は先にやらかした失敗も忘れて、また店へ来る常連客の一人に相談したのである。

 そのたまたまの客が筒井守だったのだ。

 高をくくっていたブローカーたちは、筒井という男が加わってきたことで居直った。ただ彼らもその店の常連客だったから、いつも飲んだくれてくだをまいている、いかにも頼りなさそうな筒井のことをよく知っていて、またもや油断をしてしまったのだろう。筒井が啓子に付き添って不動産事務所にあらわれたときもまるで無警戒で、彼らは得意満面になって二人の前に契約書をたたきつけた。ところが筒井はその契約書をひょいと取り上げるなり、いきなりびりびりと引き裂いて事務所のストーブの中へ投げ入れてしまったのである。予想もしなかった筒井の行動に彼らは動転した。啓子にしてみても一瞬なにが起ったのか理解できなかった。そして怒りでぶるぶるとからだを痙攣させた地回りと不動産屋が、それでも眉ひとつ動かさずに呑気な表情をしている筒井に飛びかかるや、二人がかりで情け容赦もなく殴る蹴るの暴行を始めたのだ。啓子は夢でも見ているようにしばらく立ち尽くすばかりだったが、白いPタイルの上に血が飛び散るのを目にしたとたん恐くなって事務所を飛び出すと、考える暇もなく近くにあった交番へ駈け込んだ。2人の巡査をつれて事務所へ駈け戻ってみると、彼らはまだ無抵抗の筒井へ暴行を加えつづけていたので、たちまち暴力行為の現行犯で連行されてしまったのである。

 啓子は応接セットに駆け寄ると、その蔭にうずくまっていた筒井守を慌てて助け起こした。だが彼は口から血を流したうえ顔に青痣をつくりながらも、まるで何ごとも起きなかったように彼女を見上げ、いたずら小僧のようににやっと笑ったのだ。つまりこういったことの成り行きはすべて筒井の筋書き通りで、相手のペースに引きずり込まれる前に彼が放った体当たりの先制攻撃だったのである。その後の警察の調べでブローカーたちが詐欺行為の罪を追加されたのは言うまでもない。

 啓子はそんな話を芯から嬉しそうな様子で京子へ披露した。京子はいちいち驚いたり感心したりしながら、目を輝かせて話に聞き入っている。いっぽうの筒井はというと、話に夢中になっている二人へは背を向けて、健ちゃんが帰る前に気をきかせて運んでおいてくれた酒を相変わらずちびちびと飲っていた。      

 啓子の一連の長話が終わるとカミュの客が続けさまに歌っていたカラオケの4曲目が終わりに近づいていた。

 「いやあ面白い話やったわ。なかなかドラマチックな出会いやったんやないですか、ママと筒井さん、じゃなくてチョウさんは。そやけどママは沢山のお客の中から何でチョウさんを選んだんやろ。そこがわたしにはよう分かりませんねん」

 「やっぱり京子さんもそう思うわよね。わたしも何でチョウさんに相談したのか今だに分からへんねん。もしかしたら飲んだくれやけど人の好さそうなところが田舎のお父ちゃんにそっくりやったからかもしれんなあ」

 「またそんな色気のないこと言うて話をはぐらかすんやから。やっぱり二人は赤い糸で結ばれてはったんやと思いますけど」

 「そうやろか。ならどうしてわたしらは上手いこといかへんのやろ」

 啓子はそう言いながら、掌の中で温めていた残りのブランデーを仰け反るようにして一気に飲み干した。そして、ふぅと熱いため息をつく。 

 「二人で何時まであほなことばっかり言うてるねん。俺はただ乗りかかった舟やから断り切れんで助けただけのことや。赤い糸とか何やとか、おかしなことを言わんといてほしいわ」

 「そんなふうに言わはるけど、チョウさんかて、ママみたいな若うてきれいな女の人に頼まれたから一肌脱いであげる気になったんでしょう。そのとき助平根性がまるでなかったとは言い切れへんと思いますけど」

 「ふん、どう説明したらええんかな。これは男の本能みたいなもんでな、危なっかしい女が目の前におったら気になってしょうがないんや。まあ女や言うても年寄ではそういう気になるかどうか自信がないから、京子ちゃんの言うようにちっとは助平根性も手伝うとったかもしれんけど。ともかくママは初めて会うたときから、よちよち歩きの赤ん坊みたいに頼りのうて、俺はずっと心配やったんや」

 「ほら、やっぱりママのことを前から意識してはったんやない。このさい正直に白状しなさいよ。ほんまは好きなんでしょう」

 「そら嫌いやったらこないずっと気にして店を覗いたりせえへんわ。そやけど俺はいっぺんに二人も三人もの女を好きになられへんし、振られたから言うてすぐに別の女へ乗り換えるなんて芸当もようせん」

 「それがチョウさんのええとこでもあり悪いとこでもあるの。もし会社の好きな女性と出来たり、間違うてわたしと出来たりしたら、この人はきっとこのままでは済まないと思うわ。もともと遊び心から出たもんやないから、その時はきっぱり奥さんも子供も捨ててしまわはるような人やねん。世の中には単なる遊びだけで女を口説く人もいるし、遊んでいたつもりが真剣になってしまう人もいるけど、一筋の希望すらないのに最初から何もかも捨てる気で人を好きになる人は少ない。けどこの人はその数少ないあほの一人やとわたしは思うねん」

 啓子はそう言うと、愛おしそうに伸ばした手をそっと筒井の膝の上に置いた。

 カウンターの向こう側にいる京子にはまったく見えないはずなのに、彼女はたちまち状況を心得たようにそっと二人の前から離れると、入り口近くのカミュの客と照美たちの方へさりげない視線を移した。すると偶然こちらを振り向いた照美の、いかにも困惑しきっているというような視線とぶつかった。言葉などいらないホステス同志の通信ですぐさま異常を感じとったのか、京子は、ママとチョウさんにはあてられっぱなしでかなわないわ、と独り言をつぶやきながら、ごく自然な足取りで照美たちの方へ近寄っていった。

 「お客さんはすごくカラオケがお上手なんですね。わたし、向こうで聞き惚れていましたわ。ねえ照美さんそう思わない」

 照美の横に立つと京子はそんなお世辞を言いながら、カミュの客には分からないように右手でそっと照美のお尻のあたりに触れる。

 「そうね・・」

 20歳だと強く言い張っているけれど実はまだ19歳になったばかりの照美は、京子の応援を得て少し落ち着きを取り戻したのか、少し気取ったポーズで新しいセーラムの先に火をつけた。カミュの客は髪の毛をきれいに分けて整髪料で固め、四角張った顔に黒縁の眼鏡をかけた銀行員のような感じの男だった。ママの啓子もまったく知らない顔のようだったから、この店へは今夜初めてきた客だということも、京子の頭の中にはすでにインプットされている。

 「ところで、お楽しみのところをまことに申し訳ないんですが、そろそろ看板の時間ですのでお愛想をお願いしたいんですが」

 照美の手許に置かれている伝票にちらと目をやりながら、京子は押し黙ったままのカミュの客へ丁寧に申し入れる。だが男は答えない。

 「どうしたの照美さん」

 「このお客さん、出張で大阪に来たそうなんだけど、さっきお勘定をお願いしたら、財布はホテルに置いて出て来たから、わたしにこれから部屋まで取りに来いとおっしゃるのよ。そんなこと出来ませんよね」

 そう訴える照美の悪戯っぽく潤ませた目が、こんなのよくある手だものねえ、と言いたそうにうんざりしている。

 「本当なんですかお客さん」

 京子がさらに返答を迫ると、カミュの客はようやく重い口をひらいた。

 「大阪の夜は物騒だと聞いているからね。キャッチガールにつかまったり間違って変な店に迷いこんだら、法外な料金を吹っかけられて有り金を全部はぎ取られるそうじゃないか。だから飲みに出掛けるときはいつもそうしているんだ」

 「大阪の夜は物騒や、と言われたんでは黙ってられへんとこなんですけど、まあこの際やから我慢しときましょう。でもね、お客さん。地元でもない町の、しかも一見の店へ飲みに行くというのに、お金を全く持って出ないなんて、それは無いんじゃないですか。かなりな非常識というもんですよ」

 京子の声が少しヒステリック気味になってきた。

 「しかし持っていないものは無いんだ。それに払わないと言っているわけじゃない。この子が取りにくればすぐに払うと、さっきから何度も言ってるじゃないか」

 カミュの客はすでに自分の思惑が外れていることを覚り、少なからず依怙地になっているようだ。それだけにこの客は少々扱いにくいと京子は直感した。ところが彼女が次の言葉を探しているうちに、気がつくとママの啓子がいつの間に寄ってきたのか、客の腰掛けているスツールのすぐ傍に立っていた。

 「分かりました。それならママであるわたしがホテルまで戴きにまいりますわ。どこでしょうか、そのホテルは」

 言葉は丁寧だったが啓子の声には有無を言わせないような迫力があった。

 これまで聞いたことも見たこともない凛とした声と堂々たる応対に、京子と照美のほうが呆気にとられて黙り込むしかなくなったほどだった。

 「新大阪駅の近くのMホテルだよ」

 三人の女に取り囲まれた格好になったカミュの客は、それでもスリーピースの背広の胸を張ってまったく動じる気配もない。

 「分かりました。照美さん、お客さんのお名前はお聞きしているわよね。いますぐにMホテルへ電話して、この方が確かに泊まっていらっしゃるかどうか、さっそく確認して頂戴。無駄足になったんじゃ困るから」 

 「はいママ」

 やや緊張した声で照美が答えてタバコを揉み消すと、うしろの洋酒棚に立ててあった緑色のコードレス電話に手を伸ばした。

 「いや待てよ。違ったかな」

 するとカミュの客は照美の動きを横目でにらみながら、そう呟いておもむろに内ポケットを探りはじめる。

 「Mホテルじゃないんですか」

 「いやそうじゃなくてさ。財布は確かにホテルに置いてきたんだが、別に少しだけお金を持ってきていたような気がして・・。ああやっぱりそうだった。すっかり忘れていたなあ。しかし、これで足りるかな」

 見えすいているばかりか、まことに下手くそな演技だったが、男は観念した気配も見せないで折り畳んだ何枚かの紙幣を臆面もなくカウンターの上へ投げ出した。その紙幣を京子が取り上げるとわざと緩慢に数え出した。悔しそうな表情を懸命にかくして、カミュの客は彼女が数える指の動きをじっとみつめている。

 「何とか足りますわ」

 京子が客のほうへは目を背けたままでそう啓子に報告する。

 「足りるのはいいが、ちゃんと計算して釣りは返してくれよ」

 カミュの男はそれでもしっかりと念を押すことを忘れない。

 啓子は伝票の明細をもう一度丹念に確かめてから、コードレス電話を持ったまま突っ立っている照美に、お釣りの額を指示した。それらのことを終えてから、啓子は再び背筋をぴんと伸ばすとカミュの客に向かってにっこりと微笑んだ。

 「カラオケの代金のほうはサービスさせていただいておりますから」

 苦笑いしたカミュの客はそれには何も答えないで、照美がトレイの上にぶちまけるように入れた釣銭を百円硬貨の一枚まで余さずに受け取ると、それでも背広の肩を聳やかすようにして店を出ていった。

 「照美ちゃん、何でカラオケ代金を付け忘れたのよ」

 入り口の樫のドアが閉まるやいなや京子が眉をつり上げて照美をなじった。

 「ごめんなさい。さんざっぱら口説かれて閉口していたんです。やっとカラオケを歌い始めてくれたもんだから、ついほっとしてしまって。でもなかなか上手だったでしょうあの人の歌は」

 「ほんまにあほかいな、この子は。あの客がもし気持ちよくお金を払ってたら、あんたはあいつにのこのこ追いて行ってたんと違うか」 

 「京子さん、いくらなんでもそれはあんまりです」

 照美はそう言ってぷいと横を向くと、また指にはさんでいた新しいセーラムに薄いカルダンのライターを近づけて、いかにも物憂そうに火を点けた。

 「もうやめなさいよ、二人とも。あんな詰まらないお客のことで喧嘩なんかすることないわ。照美ちゃんは一人であんなお客を長い時間よく遊ばせてくれたし、京子さんは困っている照美ちゃんにすぐ気がついて機敏に助けてくれた。二人とも立派なものよ。わたし本当のところは感謝しているのよ。でもさらに欲を言わせてもらうとすればね、わたしたちはお酒とサービスを売っていくらの商売よね。たとえカラオケ代金でも付け忘れはやっぱり困るのよ」

 いつのまにか啓子は大阪弁をどこかに置き忘れてきたようだ。

 いやそうではなく彼女は意識的にそうしているのかもしれない。筒井はこれまでの一部始終をながめながら店の奥でそう思った。まだ続くかと思われた啓子の訓示はそれだけで終わった。    

 「さあ本当に看板にしましょう。あと片付けは早めに帰っちゃった罰として健ちゃんに明日させるからこのままでいいわ。チョウさんもいることだし、今夜はわたしがお寿司をご馳走するから、みんな早く帰りの支度をして」

 「うわー、感激。わたしお昼から何にも食ベてないの」

 「そんな無理せんといてよママ。お店の経営も楽やないはずなんやから」

 照美と京子が口々に言った。

 そんな言葉を背に受けながら啓子は筒井の席へ戻っていく。カミュの客を上手くあしらい、照美たちに説教をしていたときは、少し怒らせ気味だった彼女の肩の線が彼の傍にくるわずか数歩の間にやさしくなっていた。

 「聞いてたでしょう。お寿司つきあってくれるわよね、チョウさん」

 筒井守の右腕を抱えて啓子がささやいた。ワイシャツの生地を通して彼女の熱い体温と鼓動が彼の腕へも確実に伝わってくる。

 だが今夜も浴びるほど飲んだというのに早くも彼の酔いは冷めていた。

 「いや、せっかくやけど今夜は帰るよ。みんなで行ってこいよ」

 「そんな・・。明日は朝が早いの」

 「いつだって変わらんけど、ともかく今夜は失礼するよ」

 「お寿司を食べるだけなんだからお願いだからちょっとつきあってよ」

 しかし筒井はそれには答えずに、スツールの背に掛けてあった背広をひょいと左手で掴んで立ち上がる。座ったままの啓子はそれでも右腕を離さずにいたから、立ち上がった彼に引き摺られるようなかたちになって傾いたスツールと一緒によろけた。

 「ママ、二人とも帰る用意ができたから、先にチョウさんと店を出てくれるかな。わたしが電気を消して鍵をかけるから」

 はずんだ京子の声が店内にひびきわたった。筒井はそっと啓子の手を外して、一人でドアのほうに向かう。もうこの女は俺がいなくても大丈夫だ、と思いながら。

                                   〈了〉

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飲んだくれ 歌垣丈太郎 @jo-taro

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