第2話 1st day.-2<知ってる天井/EVERYDAY>

<知ってる天井/EVERYDAY>





「―――っん」


朝の眩しい冷気を感じた。重たい瞼を持ち上げる。まだ眠り足りない身体を起こし、寝起き特有の鈍い頭痛を感じつつ、寝ぼけ眼であたりを見渡す。


カーテンの隙間から外の様子が見えた。庭には小さな水たまりができている。眠っている間に雨でも降ったのだろう。


無意識に、静かに左腕を握っていた。眠りからの覚醒により、夢へと消えた憤り。目覚めてしまえば、その違和感も覚えていない。


―――忘れてはいけない、何か。それを、私はいつも夢の中へと置き去りにしている。


壁にかけられた時計を見る。時刻はすでに六時半を過ぎていた。いつもより少し遅い朝。そろそろ朝の準備をしなければ、いつもの時間に間に合わない。


いつもより温かいベッドのぬくもりは心残りだが、重たい腰を持ち上げて自室を後にした。


///


洗面所へ行き、眠気を完全に解消するために冷水で顔を濡らす。


濡れた顔で鏡を見ると、―――ああ、またかと、ため息が出た。


ベッドの上でもうすうすと感じていた感覚。きっと、あの夢を見たのだろうと思った。ひどく魘されたように、髪はいつも以上にボサボサに乱れ、顔には少し疲れの色が残っていた。


自分の左腕を再度握った。おそらく、世間一般に呼ばれるものとは違った悪夢を、私は雨の日の夜に見てしまうたちのようだ。


内容を覚えていないというのがミソである。記憶には残っていないのに、肉体にだけ嫌なダメージが残ってしまっている。


梅雨の時期なんて最悪だ。災厄とさえ言っていい。雨が連日続くだけで疲れが抜けず、日中にはお決まりののお出ましである。


寝起きの頭痛もきっとそのせいだが、痛み自体は時間が解決してくれるだろう。


嫌な気持ちを払拭するために、冷水を頭から被り、当初の予定通り眠気も一緒に排水口に流し、髪を拭きながら居間へと向かった。


///


「ねぇちゃん、いつもより降りてくるの遅いね。おはよう。もう朝ごはん出来てるよ」


居間につくと、私より幾分か背の低い男の子が出迎えてくれた。倉山くらやま宗次郎そうじろう。私よりも二歳年下の弟である。


「おはよう、宗次郎。今日も朝練?」


軽くなった髪からタオルを下ろし、宗次郎に朝の挨拶をする。


いつもは私が朝食を作るのだが、宗次郎が部活で朝練がある日は先に起きて作ってくれている。


「そうだよ。来週末に今年最後の大会あるからさ、朝練も多くなるんだ。だから当分はボクが朝ごはん作るよ。それと、ねぇちゃんの朝ごはん、もうテーブルに置いてるよ」


宗次郎と何気ない朝の会話をしながら、居間のテーブルに置かれた朝食を見た。


「ちなみに、今日の朝の献立は昨日の晩ごはんの残り物です」


と、軽い口調で言った。先日の残り物は『作った』と言わないのだが。


「・・・・・・まあいいか。準備してくれてありがと」


ちなみに、昨日の夕食とは私が作った味付けの失敗した肉じゃがである。朝食べるにはなかなかにヘビィな味付けであることは間違いないほどの。それに焼き鮭と味噌汁を追加。


「・・・・・・いただきます」


テーブルに傍に座り、朝食にありつく。


ふむ。許せ、弟よ。私はあなたを見くびっていた。


勢いよく飛び出た醤油を調整しようとアレヤコレヤしているうちに塩分が1.5倍ほどになっていた肉じゃがだが、朝の時間のうちに出汁を追加して、ほどよく修正されていたのだ。


『―――それでは、現場の鈴木さんと中継がつながっています。―――』


ふと、居間の隅にあるテレビからニュースキャスターの声が聞こえた。


「・・・・・・また起きたんだって、あの事件」

「んっ?」


宗次郎の声に反応しているうちにニュースは進んでいく。ブラウン管から聞こえるニュースは、最近よく聴くようになった事件だった。


『昨晩の被害者は男性と見られ、一連の事件の被害者は全体で五名となりました。先ほどの開かれた特別捜査本部での会見では、いずれの被害者も共通点がないことから、通り魔殺人事件として操作を続けているが、事件究明の糸口はまだ見つかっていない、とのことです。――――』




連日、私と宗次郎の住んでいるの町の隣にある臆郷おくざと市では、孫連れの老人が遺体で発見されたのを皮切りに、怪奇的な連続猟奇殺人事件が相次いで発生していた。次はその被害にあった老人の妻、その次は仕事帰りのOLだった。


警察は連日検問を敷き、厳しい調査を行っているが、まったく進展を見せず、被害者だけが増えていく一方であった。夜間の外出も警察のパトロールや公共の電波によって注意を促してはいるが、やはり人の行動を完全に抑えるには至らず、事件は新たの犠牲者を出す形となった。




「・・・・・・またあの事件か。いつになったら犯人捕まるんだろう」

「ただの連続殺人犯とは違うみたいだよ。争った形跡はないって言うし、でも遺体はその場でバラバラにされてるのもあるし、なにより現場には意味不明なメッセージがあるとかなんとか」


宗次郎とそんな話をしながら朝食を食べる。冷静に考えてみると、食事の肴としてはヘビー過ぎる話題である。


「ただの快楽犯だと思うけどね。きっと何かを壊してるのが好きなだけ」

「たしか昔、外国で似たような事件あったよね。ゾディアックだとか切り裂きジャックだとか。いや、でもあれとはちょっと違うか・・・・・・」


なにやら宗次郎はこの事件に興味があるのか、ブラウン管を眺めながらなにやら考え出した。


「あのさ、何か考えてるところ悪いんだけど、朝練遅れるよ。大丈夫なの?」

「んっ? ・・・・・・あっ、忘れてたっ!!」


やっぱり事件のことに集中しすぎて朝練のことを忘れていたようだ。私の弟は時々ヌケてるところがあって心配である。


「あ〜もう、絶対絶対遅刻だよ〜。また先輩に怒られる〜」


宗次郎はそう言って、急いで玄関へと走って行った。


「それじゃ、いってきます。ねぇちゃんも学校休んでばかりいないで、ちゃんと来ないとダメだよ」

「私の心配するヒマがあるならさっさと朝練に行きなさい」


次第に宗次郎の足音が遠ざかっていく。


宗次郎にああ言ったのは何だが、こちらもそろそろ準備に取り掛からないと時間的に危険である。急いで朝食を片付け、自分の部屋に戻った。


///


部屋に戻り、制服に着替えために姿見の鏡の前で寝巻きを脱いだ。


ふと、目線を鏡へと向けと、―――鏡には、少し目付きの悪い、肩ほどのセミロングの、太ってもなく、だからといってやせ過ぎてもいない、年頃の女性の身体が映っている。


だが、そんな身体と一緒に、―――左肩から肘まで伸びる、大きく、消えることのない痛々しい傷跡も映っていた。




幼い頃に体験した大事故により、私は左腕に大きな傷跡を背負うことになった。その事故によって私の左腕は千切れ、脳にも大きな傷を負った。


家族もいたはずだ。いたはずの存在も、事故により失っている。唯一生き残った宗次郎も、足に大きな傷を負っていた。


そんな重体な私たちの命を繋ぎとめたのは、母方の古い友人である倉山夏喜なつきだった。


その人が以前は凄腕の外科医だと知らされたのは、私たちが彼女を失った後だった。


私と宗次郎の怪我は夏喜によって縫合され、今では不自由なく動かすことが出来る。それでも、外科医である夏喜でも、私が脳に負った傷までは癒すことはできなかった。




―――記憶障害。




脳の傷とは外傷のない、見えない傷。私から意識を取り戻すよりも過去の記憶を根こそぎ奪い取った。


意識を取り戻すよりも以前、つまり、事故自体の記憶も奪われたのだ。そして、この腕の傷だけが私にその過去を叩きつけている。


数ヶ月にも及ぶ長い昏睡状態を経て、意識が戻ってから私たち姉弟は、倉山夏喜の養子として後の人生を過ごした。


この大きな傷を負った事件からもう十年も経っている。この長い時間をかけて、私はようやく普通の人に戻れたような気がする。


宗次郎はどれだけのショックを受けたかはわからない。それでも、この歳にして二度も親を失う形になるとは夢にも思わなかった。


けれど、脳に負った障害は感情の故障もあったのだろうか、特別大きなショックはなかった。


事故のことも、夏喜のことも、不思議と簡単に受け入れたことを覚えている。


あの事故は私の記憶に残ることはなく、されど私の後の生活を確実に辛いものにしていた。


私の記憶にない痛みと苦しみ。その苦痛と共に長い期間を過ごしてきた。


あの事故で失ったものは多い。両親と双子の兄という存在していたはずの存在は、今となっては私自身の力では知ることは出来ないし、確かめる術もない。


記憶という束縛を逃れた存在は誰の中にも残ることはなく、永遠に黒い渦へと消える。


―――意識を取り戻したとき、私は自分の名前を思い出すことも出来なかった。


幼いにしても、自我はあったのだ。そして、その自我を確立するのは生きた軌跡である記憶でしかない。


そんな状態で目が覚め、困惑する私のそばにいたのは宗次郎と夏喜だった。


倉山あおい。私が夏喜の養子になってからの名前だ。


"倉山"は倉山夏喜の姓。彼女が私たちの親になってから、この姓を名乗っている。


"葵"は『覚えていないのは残念だけれど、それは元々君の名前だ。今更、名前まで奪われる必要はないでしょう』とのことだ。


記憶をなくした当時の私にとって、この名前が私が生きてきた証拠なのだと認識している。そして、そんな私にとって、宗次郎の存在はとても大きなものだった。それは今でも変わっていない。




―――机の中に仕舞ってある包帯を取り出し、傷跡が見えないように巻いていく。


今では大きな傷跡でしかないが、寒い季節になると時折、ズキズキと鈍い痛みを感じる。大した痛みではない。傷も完全に塞がっている。だが、こんな傷跡、誰かが見てもいい気持ちはしない。


消せないのなら、傷跡を見られて気を使われるぐらいなら包帯止まりの心配のほうがマシだ。


季節は冬。ほとんど雪の降らない倖田こうだ町はあまり気温が低くならず、肌を刺すような冷たい風も吹くことは稀だ。


暦は十二月。学校では定期テストも終わり、クリスマスと共に始まる冬休みをみんな楽しみにしている。


学校に向かう準備が整う。カバンを取り、夏喜の形見であり御守でもあるペンダントをカバンのポケットに入れた。


宗次郎の用意してくれた弁当を持ち、部屋から出る。




―――――――また、いつもと変わらない日常が始まる。




_go to "dance on the stairs".

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