カフェにて女の云う事は。②

 私は女と共に、人間とは何かについて考えました。

「人間ねぇ。哺乳類とかそういう話ではないのだろうから、ううん……そう、私なら……エゴの塊、とでもしようか」

「エゴ……ですか? ……自我、自尊心、利己的主義エゴイズム……そういったものの塊……人間は理性的な生きものでないのですか?」

 あまり納得のいかないという表情で、女は自分の頬にそっと手を添え首を小さく傾げましたが、私は人間というのは理性があるからこそエゴの塊のように思うのです。

「人間というのはね、頭で考える生き物だと、私は思っている。自分の利益についてとか、どうすれば自分の立場を守れるか、とか、どれほど他人の上に立てるか、或いは、他人から見下されないためにはとかいうふうにね。お前が考えるほど――お前が人間をどう考えているのかは知らないが――まあ、理性とか人間とかはさして綺麗ではないし素敵でもない、嫉妬、憎悪、嫌悪に私利私欲にあふれていて、笑顔の裏で中指を立て、牙を剥き、舌舐めずりをするような、そんなだよ。大人になればなるほどね」

 私は空を睨み、それからそののことを脳から追い出してしまいたくて頭を左右に軽く振りました。カランと氷の鳴るグラスを手に取り、アイスティーを喉に流し込みます。過去に何かあったわけではありませんが、私もあまり"人間"という生物を好んでいなかったので少し気が沈みました。

「……アタシは、人間っていうのは夢のようなものだと思っているのですよ。綺麗でふわふわしているけれど、時には悩ませ魘させるほど怖ろしいものを見せる……そんな……言葉にするというのは難しいものですわね、嗚呼、上手く説明できなくて御免なさいね」

「夢、ねぇ。云い得て妙だが、夢というのもまた欲を反映させたもののようなところがあるからあながち間違いではないだろう。見たいものや思い描いたもの、自分の恐れているものを見せる……夢は、人間の心を鏡のように映すのかもしれないな。時に、現実よりも鮮明に」

 その時の私はどんな相貌かおをしていたのでしょう、女は私を見て小さく息を呑みました。

「あの、もしアタシの言葉で貴方を不快にさせてしまったのなら本当に御免なさいね……貴方にそんな相貌をさせる心算つもりではなかったの……ただ、化けアタシには人間というのが分からなくて……だから、人間あなたに」

「……ふっ、お前は今日、私に謝ってばかりいるけれど、本当に調子が悪いようだ。なぁに、気にすることはない、私とお前は……そう、だな、友人なのだから」

 私は女と話すことが嫌ではありませんでしたし、数少ない友人というのもあって、多少のことはもう慣れたことです。今日も、この際何時間でも、どんな話でも附き合おうと思っていました。

「……有り難う、貴方は優しいヒトね。高校の時からあまり変わらない、いえ、変わったのかもしれませんけれど、良いところは良いところのまま。……人間は、思い合うことができる生き物なのでしょうね。欲望も夢も良い方に働けば、それ以上ないほどの力になって輝きを与えてくれるのだわ。……バケモノ《わたしたち》とは大違い」

「先刻云ったようにだね、お前が思うほど人間は綺麗ではないし輝ける人間なんてほんのひと握りだし、その輝きも一時的なものだよ。私には、お前の云うおバケモノも人間も同じように思えるし、お前は人間らしく見える。少なくとも、私よりはね」

「……本当かしら。アタシのことを頭の可笑しな奴だと思っていらっしゃらない?」

「もし、お前がそんなものだと思っていたら私は初めからお前を避けているよ。差別的で悪いが、そういった奴らとは積極的に関わりたいとは思えなくてね。……云っておくが、私は世辞や誤魔化しが苦手でね、それに嘘をついて愉しむような趣味もない」

 女は一瞬きょとんのして、それから今度は目元も口も綻ばせてようやく、心から微笑みました。

「貴方ってば、面倒くさがりで、それでいて真面目で、何だかんだ面倒見がよくて……アタシの話にもよく附き合ってくれて。ええ、アタシもそんな貴方だから、今日お話を聞いてもらおうと思ったンです。軽くあしらわれることはあっても、嘲笑されたことや足蹴にされたことはありませんでしたね。素直な貴方の感想や考え方がアタシは心地良くて……つい、甘えてしまって」

「……私は、せめて友人には楽しく過ごしてもらいたいと思っているだけだよ。愚痴でも鬱憤でも溜まったのなら吐き出してすっきりしてほしいんだ。ツマラナイ話だろうとなんだろうと構わない、気の済むように話したらいい。……お前は、人間らしいのになぜ自分をバケモノと思うのだい。確かにお前の家族は……その、ヒトデナシかもしれないが、お前は……」

「……オホホ、貴方の瞳に人間らしく映っているのなら、アタシも化けるのが上手になったのかしらね……ではね、なんでアタシがバケモノかってお話をしましょうか」


 先刻、人間とは何かという話もしましたね、それでね、やっぱりアタシの中身はまったく別物なのですよ。ぱっと見……そう、外見だけならば人間に見えるかもしれませんけれど……何処が如何って云われますと、アタシ自身も具体的なことは思いつかないものですから、なんとなく、けれども確かにアタシはバケモノであるのです。

 初めの頃はまだ善かったンです。学も何もない幼子でしたからね。五体満足、ええ、健康な体に産んでもらってヒトと似たように育ててもらって……然しね、アタシは成長するに連れてオカシクなっていったンです。家族ナニカたちにもバケモノと云われたり、疎まれたりして……ショックでしたわ。ええ、昔は、とても哀しく思っていたのですよ。いつしかそんなことも思わなくなっていたけれど……アタシはヒトともナニカとも違う、バケモノなんだって……。

 特にオカシイところは、ヒトとの距離感とか、常識とか、そういうものが分からなくて、周りと合わせられなかったンです。小学生の頃から大学生になっても、何処に行っても上手くいかなくて避けられるばかりでした。月日ばかりが過ぎて、どんなに努力してもいつの間にか同じようなことを繰り返して縁を切られるのです。……いろんなことが周りとズレて、話も噛み合わず、奇異な目で見られるようになりました。例を挙げるのは難しいのだけれど、違和感というか、差異というか、それが顕著に出てしまって、心のなかでモヤァっとしたものが広がっていくのです。周りのヒトみんなが、アタシを指さして嘲笑なさるの……ヒトでないものに育てられたバケモノが、ヒトと上手くいくわけはないのですから。

 もっと早くに、誰かがバケモノ、ヒトデナシ、消えてしまえと云ってくだされば、莫迦なアタシでも理解して、人間様の世界からいなくなりましたのに……。自分で気附いた頃にはモウ手遅れで、両腕に抱えた夢とか希望とかなんでも持っていたものを落っことして失っていました。踏ん張れるほどの土台もなくて……脆くて……人間様から見れば土塊やガラクタばかりだったのでしょうね。貴方は、アタシの腕の中にはいらっしゃらないでしょう、いいえ、貴方を大事に思っていないわけではないのですよ、貴方は、アタシの腕の外……人間様の方にいらして、それでもアタシのことを見放さないような、おひさまのような……大事だけれどアタシのようなバケモノが腕の中に抱えるのはおこがましいような、そんなヒトなのです。

 ……なんにもなくなったアタシは、新しいものを抱える気力すら持てなくて、静かに涙が伝うのを放っておきました。哀しかったのか、虚しかったのか自分にも分からないまま泣き続けて、朝の光に怯え夜の闇に震え、動けなくなっていたのです。ご飯も食べれず、夜も眠れず、外を歩くこともできない日が続いていました。

 そのうち死にたくなって、発狂しそうなのに耐えるために部屋にあった小型のカッターナイフでたくさん傷をつけました。二の腕、手首、太腿、首筋……小心者ですから、深い傷は多くありませんでしたが、血は溢れるように出るので、それがぽたぽたと床に垂れるのをぼんやり眺めて一日を過ごしました。赤黒くて錆臭い水溜りを見ていると、なんだか笑いがこみ上げてきて、涙も笑いも止まらなくなりました。痛みは遠くに置いてきてしまったような、そんな感覚でありました。

 バケモノというのは、アタシが出した結論なのです。上手に生きることができない理由、言い訳のように、アタシが自分に許した逃げ道……。アタシがアタシをバケモノにしたのか、環境がアタシをバケモノにさせたのかは、分からないけれど、そんなことはどうでもよかったのかもしれませんね。アタシがアタシをバケモノと思えればそれで……。


 女は話しているうちに考えがまとまってきたのでしょう、自分をバケモノにすることで精神を休ませる、女なりの自己防衛……。ふと視線を下げると、レースで飾られた女の服の袖からケロイドのような線状の傷が覗いていて、私は思わず目を背けてしまいました。女は何でもないふうに振る舞い、微笑んでいましたが、それが傷を隠す痛々しい表情に見えました。

「貴方は、バケモノというのはなんだと思いますか?」

「……人間の、破滅した先……エゴに塗れた成れの果てとでも云おうか。……だから、私のなかではお前はまだ」

 女は視線で私の言葉を遮りました。ああ、こんなふうに苛まれ、苦しむ私の友人は如何して報われないのでしょう。女を哀れに思うのは簡単なことですが、この女を救うのはずっとずっと難しい。今は通院していると云っていましたが多くの時間を要するに違いありませんが、どんなに時間をかけても女の奥底の闇を取り除くことはできないのではないかと思いました。女は、人間まわりと自分の間に大きな溝を作ってしまっているのですから。……闇と上手く附き合っていければそれで善いのですが、闇が女を喰い殺してしまうような気がしてならないのに、私はなんと言葉をかけてやることもできないのでした。

 しばらく、私たちは黙ってカフェの中を流れる音の小さな曲と、周囲の音を聞いていました。一秒がずっと長く感じられて、奇妙にも私たちだけが異空間にいるような、現実から取り残されてしまったような気分です。グラスの中はお互いにもう空っぽで、中の氷が崩れていきます。女は小さく息を吐いて、ゆっくり立ち上がりました。

「……そろそろ帰りましょうか。少しお話を、と思っていたのだけれど随分時間が経ってしまいましたねェ。何か御予定などなくって? もし御予定があったら、こんな、長話に附き合わせてしまって申し訳ないわ。……お支払いはアタシがしますから……」

「いや、奢られるのはあまり好きではないから自分の分は自分で払わせてくれ」

「……そう、ですか……分かりました」

 私たちは会計を済ませてカフェをあとにしました。一歩外に出るとむわっと夏の暑さが襲ってきます。ヒグラシが鳴き始めていて、あたりは橙色に染まっていました。

「あの、時代遅れかもしれないのだけれど、アタシ、あとで貴方にお手紙をお出ししますから、嫌でなければ受け取ってくださいね、返事は要らないですから……」

「暇であれば返事を書くよ。次の時にも、また今日のような話でも、明るい話でもして……ああ、カラオケなんかに行くのもいいな」

「……ええ、そうですわね、次の時には……。貴方、また……また、ね、サヨウナラ」

 女は手を振り去っていきました。私は、この時の自分の愚かさを、無力さを、永遠に嘆き、呪うことでしょう。女は私の……私だけではなく、誰の手も届かないところにいってしまったのです。女が私に会いに来たのは、おそらく――――。

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