第66話 神殿へ

 翌日、ユサとヒルマのふたりは墨国ぼくこくの国境から無の地へと足を踏み入れた。


 無の地というからてっきり草も何も生えていない荒れ果てた土地を想像していたのだが、人が入り込むことがない土地だからだろうか、辺り一面に黄金の草原が広がっていた。木々は背が高く、遠くには暗い森が確認出来た。空は晴れて明るいが、秋の風は冷たい。上空は風が強いのか、雲が細くたなびいて何だか物悲しい雰囲気を醸し出していた。


 ユサがぶる、と震えるといつもの様にヒルマが自分の外套の中にユサを引き寄せた。


「くっついてろ。寒いだろ」

「ヒルマは寒くないのか? いつもポカポカだけど」

「この程度はな。ユサは肉がないから。肉がつくと温かいぞ」

「これじゃあまだ足りないか?」


 ユサ自身はもう大分肉が付いたと思っていたが、まだ足りないのか。ヒルマを見上げると、ヒルマはにこりと返してきた。


「ユサ、出産には体力がいるらしいぞ」


 もう子供の話になっている。随分と気が早いものだ。ユサは思わず苦笑した。


「まだ結婚もしてないだろ」

「いやまあそうなんだけどね」


 ヒルマがユサを更に引き寄せて、ユサの頭の上に頬をつけた。髭が頭皮にチクチクと当たる。


「俺には家族ってものがずっといなかったんだ。親の記憶なんて全くない。気がつけばジェイと盗みを働いてた時に同じ境遇のマージと出会ってさ。3人で盗賊稼業を続けてたらこういう身体になって、結局またひとりきりになった」


 そういえばヒルマの生い立ちは聞いていなかった。今のヒルマを愛することでいっぱいいっぱいだったユサには、こいつの過去まで気にする余裕などなかった。もう少し興味を持った方が恋人としてはよかったのだろうか。


 ヒルマが続ける。


「それからずっとずっとひとりきりだった。ユサに会うまでは」


 声が嬉しそうな笑いを含んでいた。


「ユサの笑顔を初めて見た瞬間にもう一瞬で虜になったよ。でもユサは男が怖いっていうから、なるべく刺激しない様にかなり努力したんだぞ」


 ユサはヒルマの言葉を静かに聞く。ヒルマがこんなに自分のことを進んで話すのは珍しかった。ユサが口を挟んだら折角のヒルマの輝く宝石の様な言葉が消えてしまいそうで、黙っていることにした。


「段々ユサの笑顔が見れる様になってくると、今度はもっと見たくて、どうしても逃したくなくて。俺、必死だっただろう? 泣いてもしがみついてでもユサと居たかったからな」


 そんなに必死だったのか。もう少し軽い想いかと思っていた。でもまああまり顔に出ないだけで行動はそこそこ独占欲の塊だった気もする。


「ユサはいつも男前で格好良いから堪らん」

「何だそれ」


 思わず笑ってしまった。本来なら女性に対する褒め言葉にはならないだろう。だがユサはもう女らしいユサなどごめんだった。こればかりはもう戻らない。


 そうであれば、これはユサにとって最高の褒め言葉だった。


「ありがとうヒルマ」

「おう」


 お互い色んな想いを心に秘めたまま、でも隣にいた。所詮他人だ、全て分かり合える訳はない。だったら言葉と態度で伝えていくしかないのだ。これまでも、これからも。


 森の先に、古びた建造物が薄らと見えてきた。箱の様な建物に蔦が張っているのか、緑と茶色の混じった色合いが確認出来た。

 

「ヒルマ、あれがそうか?」

「おう、あの中だ」


 ヒルマの足がピタリと止まった。くっついているユサも自然と止まることになった。


「……どうした?」


 また不安になったのだろうか。


「ユサ、俺にまじないをかけてくれ」

「まじない?」


 随分と急に神頼みになったものだ。ユサはヒルマに向き合った。目は揺らいではいない。


「何をすればいい?」

「どこにもいかない、ずっと隣にいるって言ってくれ」


 ユサは一瞬考えた。人間の想いはいつかは変わる、ずっとそういうものだと思っていた。事実、ユサの想いも変わったからこそ今こうして隣にいる。であれば。


 ヒルマの顔を両手で挟み込んで、笑って見上げた。


「俺はお前が俺を必要とする限りはずっと隣にいる。どこにも行かねえ」

「なにその限定」


 ヒルマの眉が情けなく下がる。


「お前が俺をもう要らないって思った時には蹴飛ばしてこっちから離れてやるって言ってんだよ」

「そんなことあるもんか」


 ヒルマの唇が尖った。


「だったら情けないこと言ってないでシャンとしろ。いつもの格好いいところを見せろよ」


 ヒルマがにやりと笑った。嬉しそうだ。


「ユサは俺がいつも格好いいと思ってくれてたんだな」

「当たり前だ」


 ユサはあっさりと答えた。ヒルマが少し驚いた顔をして見返している。


「お前は優しい。怒らない。俺のことを考えてくれてる。明るい。一緒にいると安心する。お前のその情けない髭だって今じゃ見てるとほっとする。いつも俺のことを見てくれて、俺に足りないものを与えてくれようとしてくれてる。全部俺にはまだ足りないものばかりだ。自分にないものをいっぱい持っているお前が格好よくなかったらなんだ。そんなんだったら俺はお前に惚れなかった。それにお前のその青い目は大好きだ。ずっと見ていたくなる」


 ユサが真顔で言ったものだから、ヒルマの顔が照れたように赤くなってきた。


「ユサ、物凄い殺し文句だねそれ」

「まだ足りないならもっと言ってやる」

「まだあるの?」

「こんなもんじゃねえぞ。お前と軽口を叩いてるのが好きだ。お前の俺を撫でる手の大きさも好きだ。俺を抱えて早く走るのは楽しくて仕方ない。楽しいってことを俺に教えてくれたのはヒルマ、お前だ。泣きべそかいてたヒルマは普通に可愛い。手鼻はまあちょっと勘弁だけど、お前の喋り方も好きだ。お前に寄りかかってる時に響く声の振動も好きだ」


 ヒルマの顔は茹で蛸の様に真っ赤になっていた。


「……ユサが言うと新鮮だな」

「まだあるぞ」


 ユサもにやりと笑った。途端ヒルマが首を横に振った。


「いやいや、もういい、分かった、もう十分だ。これ以上言われたら照れすぎて死ぬ」

「お前死ねねえだろ」

「いやまあそうなんだけど」


 ユサは唐突にヒルマの首に抱きついて唇を奪った。口の中に舌を入れるとヒルマがワタワタし始めたのでその反応を楽しんでいると、ようやく落ち着いたのかヒルマも応えてきた。しばらくして顔を離した。ヒルマはまたあの眩しそうな目をしてユサを見つめていた。


「まだ不安か?」

「いえ、大丈夫です」

「よし。じゃあ行くぞ」

「……おう」


 ヒルマの苦笑する声を聞いて、とうとうユサも我慢できず笑ってしまった。ヒルマがもう一度外套でユサをしっかりと包み、ユサの腰に手を回した。再び歩み出す。


「ずっとこうやって俺を振り回してくれよ」

「本当発想が乙女だな、お前は」

「また乙女って。で、どうなの」

「いっぱい振り回してやるから覚悟しとけよ」

「おう」


 ユサとヒルマは神殿を見つめた。あそこに行けば、長かったヒルマの旅が終わる。ようやく終わるのだ。そして始まるのは、新たな長い旅。今度はユサとふたり、ゆっくりと時間を刻んで進むのだ。


 神殿の入り口が見えた。入り口は大きな長方形。まるで光を吸い込んだかの様な漆黒の闇がぱっくりと口を開けている。


 階段が数段あった。ふたりでゆっくりと一段ずつ踏みしめて登る。入り口から中を覗くが、天井は高いのか見えない。奥も真っ暗だ。


 ヒルマががさごそと鞄からランタンを取り出し、マッチでシュッと火を灯した。パチンと蓋を閉じると前に掲げる。暗闇が支配する内部は変わらず見通せないが、床が見えた。冷たい磨かれた石は所々欠けている。一体いつ頃作られた神殿なのだろうか、相当年月が経っていそうだった。


「前はどの辺りまで行ったんだ?」

「真っ直ぐ行った所だ。そんなに奥じゃなかった。あ、そうだユサ、ここから先は俺の後ろからついてこい。俺は怪我しても死にはしないからな」

「でももう痛いだろ」

「前回はいきなり襲われたから、今回そうじゃないとは言い切れん。だからこれは本当に頼む。こう暗いと咄嗟に庇えんかもしれん」


 こうなるとヒルマは頑固だ。それに言っていることは正しい。ヒルマに痛い思いをさせたくはないが、優先順位としては仕方ないのだろう。


「分かった。でもすぐ後ろにいる」

「ああ。手を繋いで行こう」


 ヒルマが差し出した手を握った。やはり温かい。ぽかぽか、まるでヒルマの心の様だった。


「行くぞ」

「ああ」


 ふたりは暗闇の中をゆっくりと、だが確実に前へと進んで行った。

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