第65話 最後の町
ここのところ、ヒルマの様子がおかしい。
無の地に程近い小さな辺境の町に辿り着いた。大して大きな町ではないが、紅国へと向かう旅人達が最後に旅支度を整えることが多い様で、宿は多かった。元々中継地として発展した町なのかもしれなかった。
昨日早くにこの町に到着し、すぐに宿に入った。昨夜もヒルマの様子はおかしく、ユサに手を出すこともなくユサの胸の上で縮こまって寝てしまった。またユサの上に涎を垂らしていたが、翌朝ユサに小言を言われても小さく笑うだけだった。
てっきり今日あたりに神殿に向かうのかと思ったが、ヒルマは宿から全く動こうとしない。ユサの覚悟はとうに出来ているというのに、肝心のヒルマがこうでは動きようがなかった。
今もベッドに腰掛けてガラス窓の外をぼんやりと眺めている。ユサはヒルマの広い背中に上から抱きついた。
「ヒルマ」
ヒルマの首に腕を回しつつ、横からヒルマの顔を覗き込んだ。綺麗な青い瞳がユサを見返す。でも、何も言わない。
「なあヒルマ。一体どうしたんだよ」
「……ユサ、ごめんな」
ヒルマの暗い声が返ってきた。ようやく喋った。ユサは少し嬉しくなって、ヒルマの前側に回り込んで膝の上に座った。頭をヒルマの胸にもたれかけ、ヒルマの首におでこを付けた。
「何がごめんなんだ、意味が分かんねえ」
囁くように言った。ヒルマが唾を飲み込む音が聞こえた。腕がユサの身体をそっと包み込んだ。
「考えたら怖くなったんだ」
考えなしのヒルマが何か余計なことを考えたらしい。ヒルマの反対の首に手を伸ばし、撫でた。硬い筋張った首。ユサの好きなヒルマの一部だ。出会ったばかりの頃から、見上げるとこの首と無精髭の顎があった。いつも、いつもユサを守ってくれていた、その象徴だった。だからここを見ていると安心するのだ。
「何を考えたんだよ」
ユサは思い出していた。前にヒルマが言っていたではないか、考えるのを止めたその理由を。足が止まりそうになったから、確かそう言っていた。
つまり、今は正にその足が止まっている状態だということだ。ユサは成程と思った。確かにこれでは進めまい。
ヒルマがぽつりと答えた。
「ユサのどこに俺の欠けたものがあるんだろう」
「どこって?」
ヒルマの喉が動き、触れているおでこに低い振動が伝わってきて心地いい。
「欠けたものが人間にあったことはないって教えただろ? だから分からないんだよ」
ヒルマの腕に力が籠る。
「もしかしてユサとひとつになったことで戻ったかなと思って石を見てみたけど、相変わらず残りはあとひとつだし」
そんなことを考えていたのか。
思っていたよりもちゃんと考えていたことに驚きを隠せなかったが、ユサは黙って続きを待つことにした。
ヒルマの声は聞いているだけで堪らなくなる。いつの間にこんなに好きになってしまったんだか、我ながらびっくりだ。
「もしさ、ユサの身体の中の一部だったらどうしたらいい? 俺はユサを守りたいのに、逆に傷付けることなんてしたくない。ようやく見つけた俺の光なのに」
狂おしい程に切ない声。マージの家で、ユサの膝の上に頭を乗せて泣いていたあの時と同じ声色だった。
ユサはそれで理解した。ヒルマはユサを失うことが怖いのだ。それが怖くて前に進めなくなっているのだ。
「俺はいなくならないぞ。だって約束したもんな」
「でも、相手はあの訳の分からん奴だぞ!」
ヒルマが声を荒げた。珍しい。でももうそれもユサの恐怖の対象とはならなかった。ユサはもう怖くなどなかった。その恐怖はヒルマが時間をかけてゆっくりと取り払ってくれた。
そうであれば、次はユサがヒルマの恐怖を取り払う番だった。
頭を上げてヒルマの目が見える様にすると、ヒルマの青い目が揺らいでいた。不安で泣きそうな子供みたいな目だった。
ユサはヒルマの頬を両手で挟んで笑いかけた。
「なあヒルマ、俺、ヒルマにはものすごく感謝してるんだ」
「……感謝?」
ユサは頷いた。ちゃんと伝わるだろうか。伝わらないなら、伝わるまで言い続けよう。ヒルマがまた歩き出せるように。
「方法はともかくとして、俺を蟻塚から連れ出してくれただろ? 俺に色んな物を見せてくれて、俺のことを
「でも、それは俺の都合で勝手に連れ出して、連れ回したからだ」
青い目はまだ揺らいでいる。ユサはヒルマの上に跨がって、正面から顔を覗き込んだ。
「馬鹿だな、そんなことを言ってるんじゃねえ。前も言っただろう? 俺、ヒルマの欠けたものでよかったって」
「ユサ……」
ヒルマの目からは今にも涙がこぼれ落ちそうだった。そうしたら今度はユサが吸ってやる。以前ヒルマがユサにそうしてくれた様に、今度はユサがヒルマの悲しみを飲み込んで消化してやるのだ。
「俺が欠けたものだったからヒルマは俺を連れ出してくれた。俺の凝り固まった心をほぐしてくれた。俺、こんな風に誰かに大事にされる日が来るなんて思ってもみなかったんだぞ」
チクチクする無精髭を両手で撫でる。これだって始めは嫌だったのに、いつの間にか愛しいヒルマの一部になった。
「俺、ヒルマが俺を好きになってくれて感謝してるんだ。こんな俺でも好きになって大事だって言ってくれる人がいるって知っただけで、俺の人生無駄なもんじゃなかった」
ヒルマの目からとうとう涙が溢れ出した。
「ユサ、そんな別れを覚悟した様なこと言うのは止めてくれよ……嫌だ、嫌だ、絶対に嫌だ」
先程決めた通り、ユサは唇で流れた涙を吸い取る。顔を離すと、少しキョトンとしたヒルマの顔。ユサは破顔した。
「次は俺の番だからな」
「ユサの、番?」
ユサは笑顔で肯定した。
「そうだ、俺はヒルマにいっぱい色んなものを与えてもらった。だから今度は俺がお前にいっぱい好きを与えて、お前が歩き出せる様な、勇気が出る様なもんを沢山与えるんだ」
ヒルマの声から嗚咽が漏れた。更に泣かすつもりはなかったのだが。ずび、と鼻を啜っている。これも大分聞き慣れた。
「俺と一緒にイカ捌くんだろ? 一緒に喧嘩したり仲直りしながら年取っていくんだろ?」
「……ゔん」
ヒルマの顎からボタボタと涙が落ちてきて、ユサの腕の上を伝った。これじゃ綺麗な青い目が溶けてしまいそうだ。ヒルマのその様子があまりにも可愛くて切なくて、愛しさで胸が苦しくなった。
どうしたらこの胸の苦しさは消えるだろうか。どうしたらヒルマは恐怖の深淵を覗くことを止め、ユサとの未来にもう一度目を向けてくれるだろうか。
明確な明るい未来。ヒルマに出会う迄はそんなものがあるとは思ってもいなかった、底なしに明るい夢。
ユサはヒルマの唇にそっと口づけた。ヒルマがユサを見つめる。ぼろぼろぼろぼろ泣きながら、ユサの目をじっと見続けていた。
目は揺らいでなかった。よし、もう大丈夫だろう。あとは、ちゃんと約束をすれば。
「ヒルマ」
「ゔん」
しっかりとヒルマを見つめた。こんなこと、多分一生に一度しか言わないだろうから。
「
すると、ヒルマがズビッと鼻を啜った。可笑しくて可笑しくて、つい吹き出してしまった。
「はは、何だそれ。どんな返事だよ」
「いや、だってちゃんと答えようと思ったら鼻が出てて」
ヒルマの垂れ下がった眉がまた笑いを誘う。しまった、一生に一度のことなのに笑いが止まらない。クスクスと笑い続けるユサに、ようやくヒルマが笑顔を見せてくれた。
「ユサは格好いいな。俺がクヨクヨしている間に、もっとずっと先を見てたんだな」
「何言ってんだ、俺に未来の夢を見せてくれたのはヒルマじゃないか。俺はそれがいいなと思ったから乗っかることにしただけだ。だってさ、この夢は俺ひとりじゃ叶えられないだろ?」
「そりゃそうだ。俺の夢も俺ひとりじゃ叶えられん」
ユサはヒルマの頬を両手で挟んだまま、互いの額を合わせた。
「それで、返事は?」
囁く様に言う。ヒルマの目には力が戻っていた。再び光が宿っていた。
「俺が言おうと思ってたことを先に取られた感はあるが、俺とユサらしいといえばらしいな」
「ぐだぐだ言ってないでちゃんと返事しろよ」
笑うヒルマの息がかかる。
「ユサ以外なんて考えられん。――末永くお願いします」
ヒルマはそう言うと、ユサに口づけた。ふたりはしばし互いを味わっていたが、ヒルマが顔をふと上げた。
「子供はふたりは欲しいな」
「その前にまともな職につかないとな。さすがに親が両方とも盗賊は拙いんじゃねえか?」
「それもそうだなあ。じゃあこれで盗み納めだな」
ヒルマがにへらと笑った。ユサはキョトンとする。
「盗み納めって、まだ何か盗む物あったか?」
「あるさ。俺の自由をあれから奪い取るんだ」
成程。いい表現だ。如何にも盗賊らしい言葉だった。
「じゃあ最後の大仕事、一緒に頑張ろうぜ」
「おう。明日出発だ。――今日はユサのプロポーズを噛みしめる日だからな」
ヒルマはそう言うと、ユサに覆い被さっていった。
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