第六章 無の地
第64話 無の地
クリスティナを家に迎える準備を何とか夜までに終えたヨルクは、ユサ達を夕餉に招待した。
クリスティナがごっそりと持ってきた宝石類も無事換金出来たが、全部換金するとかなりの高額になりそうだった為換金はほんの一部に留めた。それでも足りなかった服やら家具やらを購入してもあり余る程の金額になった。まあ、当面の生活は問題ないだろう。例えヨルクの商売がワンの手を離れ一時不振になる可能性があるとしても。
4人は楽しい夕餉の時間を過ごした。クリスティナはヨルクが用意した絹に豪華な刺繍が施された白いドレスを着用していた。まるで花嫁の様だった。ヨルクはそんなクリスティナを崇拝する様な目つきで四六時中見つめていた。クリスティナはその視線を嬉しそうに、だが堂々と受け止めていた。
今後の力関係が容易に想像することが出来た。
夕餉も終盤にくると、クリスティナが若干ソワソワしだした。横を見るとヒルマもソワソワしている。どちらも相手は違えど考えていることは同じ様だった。元気なことだ。
「じゃあ俺達は宿に帰ろうか」
「おう」
その言葉を待ってたとばかりにヒルマが立ち上がった。ユサに手を差し出したのでユサはヒルマの手を取った。やはりこいつの手は温かい。ユサは座ったままのクリスティナとヨルクを見た。
「じゃあクリスティナ、明日一度様子を見に来るから」
「え、ええ。ユサ、色々とありがとう。本当に助かったわ」
やや緊張した面持ちでクリスティナも立ち上がった。見送ってくれるつもりのようだ。ヨルクも慌てて立ち上がった。
「もっもうお帰りですか?」
ヨルクはやや不安そうな表情だった。こちらは随分と情けない。ユサは小さく息を吐くとヨルクに向かって言った。
「クリスティナのこと、お前に任せたからな。がっちり掴んで離すな。それで大切にしろよ。でなきゃすぐ飛んでっちまうぞこいつ」
ヨルクの表情が引き締まった。
「はい。――必ず」
「じゃあまた明日な」
「ユサ、今夜はゆっくり休んでね、お休みなさい」
クリスティナが優しく微笑んだ。これまで女友達など皆無だったユサには少しこそばゆかったが、うん、こういう感じも悪くない。ユサは腰に手を回してきたヒルマに促されてヨルクの店を出た。
外に一歩出ると、風が冷たかった。ぶる、と震えるとヒルマが外套の中に引き入れた。
「ユサってばもうちょっと察してあげないと、クリスティナがずっとソワソワしてたぞ」
ヒルマが自分のことを棚に上げて何やらほざき始めた。
「お前もだろうが」
「あ、ばれてた? はは」
ユサは呆れて苦笑した。
「そんなに俺が好きか?」
「当然だ。だから俺は今ようやく俺に気を許してくれたユサを堪能したくて堪らないところなんだ。だから邪魔しないでくれよ」
「なんか言ってることが矛盾してねえか?」
ヒルマが幸せそうな笑顔を惜しげもなくユサに見せて、言った。
「ユサも俺を堪能すれば矛盾しない。だから早く帰ろう、待ちきれない」
今度こそユサは声を出して笑った。
翌日。日が昇り大分経った頃、ユサ達はヨルクの店を訪れることにした。
ヒルマはまたユサの腹の上に涎を垂らして寝たので、叱られてしょんぼりとしている。どうも寝ると口元が緩くなるらしかった。毎回これでは汚い。何とかならないものだろうか。これは今後の課題だな、ユサはそう思った。
それにしても眠い。大きな欠伸が出た。
「もっと寝ればよかったのに」
「うるせえ、人が寝ようとすると起こしてきたのは誰だよ」
「はは、つい」
「つい、じゃねえ。その元気をもう少しどっか他に回してくれよ」
「ユサが体力をつければいいじゃないか」
「睡眠と体力は別物だろ」
また大きな欠伸が出た。これが連日だとすぐに倒れてしまいそうだったが、一旦旅に出てしまえば野宿になる。まあ、今よりは寝れるようになるに違いなかった。
早く旅に出て睡眠を多く取ろう。そう心に誓ったユサだった。
「お、もう店開いてるぞ」
「昨夜は失敗したのかねえ?」
「言い方」
「はは」
ユサはガラス窓から中を伺う。すると奥からクリスティナが迎えに出てきた。
「ユサ! いらっしゃい!」
店の商品であろうワンピースを着用し、エプロンを付けている。すっかりこの店の人間になっていた。
「クリスティナ。落ち着いたか?」
「ええ、ヨルクの家も一晩で慣れたわ。これからどんどんもっと居心地のいい場所になっていくのね、きっと」
クリスティナは笑顔だった。いつのまにかさん付けが取れている。クリスティナがユサに近付いてくると小声で囁いた。
「私もユサの真似をして、痕を付けてもらったわよ」
ブフォッとつい吹いてしまった。ツンと鼻にきた。涙目になりつつクリスティナをよく見ると、確かに胸元に痕がある。
「は、はは」
「うふふ」
クリスティナは幸せそうだった。ヨルクが店の奥から出てきた。こちらも幸せそうな表情をしている。万事うまくいった、そういうことなのだろう。
「こんにちは、昨日は色々とありがとうございました」
「その様子ならもう大丈夫そうだな」
ユサが言うと、ヨルクが照れくさそうに頭を掻いた。
「これからはクリスティナとふたり、いい家庭を築いていきたいと思ってます。おふたりにはご心配をおかけしない様頑張ります。だから安心してください」
こちらもさん付けが取れていた。心なしかヨルクに芯が一本通った様な感覚を覚えた。守るべきものが出来るというのはこういうことなのかもしれなかった。
「ああ。――じゃあ、ヒルマ行こうか」
「そうだな。旅の準備をそろそろ始めたいし」
ヒルマはあっさりと立ち去ろうとする。
「あのっヒルマさん!」
背中を向けたヒルマがクリスティナに呼び止められて振り返る。
「ユサを絶対に離さないで、幸せにしてあげて下さい! 私の大切な友人ですから!」
「クリスティナ……」
友人。そんな言葉、人生で初めて言われた。ユサの目尻がじわりと温かくなった。ヒルマの視線を感じるが、ちょっと今は見れない。
ヒルマが答えた。
「約束するよ。その内またユサと遊びにくるから、そっちもそれまで仲良くな」
「――はい!」
ヒルマとふたり、店の前で手を振るクリスティナとヨルクに手を振り返しつつ町中に向かった。ユサがぽつりと言う。
「またいつか、会えたらいいな」
ヒルマが頭をぐしゃぐしゃ、と撫でた。
「会いに来よう。ユサの大事な友人なんだろ?」
当たり前の様にヒルマも付き合ってくれるのだろう。その気持ちが、心から嬉しかった。
無の地。大陸の中程に位置し、国家間で不可侵の取り決めをされており、誰ひとりとして足を踏み入れない未知の地域。ヒルマ曰く、そこまで広い土地ではないらしい。下手をすると
場所は
紅国に近付くのをユサが嫌がるかと心配していたヒルマだったが、ユサにしてみれば今は隣にヒルマもいる。紅国の皇子のネイトについては、風の噂で臥せっていると聞いた。精神的ダメージか身体的ダメージのどちらがより効いているのかは分からないが、そんな状況でユサ達に何かしてこようなど考えないだろう。それ位にはプライドが高い男なのはユサはよく知っていた。
20年以上前、ジェイとマージが止めるのも聞かず興味本位でこの不可侵の地にひとり足を踏み入れたヒルマは、その中心部に朽ち果てた神殿を見つけたという。中に何があるのか。ろうそくの火を頼りに中に一歩踏み入れたヒルマは神殿の奥に何かがあるのを感じたという。何十年、何百年と崇め祀られた、強い力の様なものだったという。
感じる違和感を確かめようと神殿の奥にどんどん進むと、惹き寄せられる様にひとつの場所に辿り着いた。広い、暗闇の空間。その時、突然無数の風の様なものが身体を切り裂いた。
力が抜け、燭台を床に落としてしまった。僅かな灯りの中、体中から血が流れ出しているのが見えた。
これは拙い、死に近付いている。焦って起き上がろうとすると、途端体中の感覚が消えた。また風が起こり身体を切り裂き、床に身体を打ち付けた筈だったが何も感じない。
先程まで流れていた血は止まっていた。傷跡ひとつない。
すると、ひとりの人間の足が近付いてきてヒルマの腕を切った。腕から流れ出たのは、黒い液体。その人間は、それを虚無だといった。
石をバラバラと床に落とし、集めてみろと言われた。全部集めたら許すと。全て集めたら見せろと。ヒルマの選択を見せろと。
ぽつりぽつりと、無の地への道中にヒルマが話してくれた。
そして、無の地に近付くにつれていつもは底抜けに明るいヒルマの表情が曇る様になった。ユサがどうしたのかと聞いても考え込んで返事がないことが増えた。
あの考えなしのヒルマが考え事をして沈んでいる。その事実に、ユサは得も言われぬ恐怖を感じていた。
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