第63話 新しい生活
クリスティナが首を傾げてヨルクに尋ねる。
「結婚します?」
当然のことながらヨルクは豪快にむせた。クリスティナは彼の背中を「あらあら」と言いながらさすった。
涙目になったヨルクがクリスティナを見上げる。
「あのですねクリスティナさん、僕ら今日、というかさっき出会ったばかりでですね!」
「まあでも既成事実は早目に作っといた方がいいぞ」
横からヒルマが口出しをした。ヨルクがびく、とヒルマを振り返った。口がパクパクと動いているが何も出てこない。そういえば自己紹介もまだだった。無精髭のでかい男がワンという男を突然放り出してしまったのだ、まあ何なんだこいつとは思うだろう。
「そいつは家出娘だからな。いつ連れ戻しに来るか分からんだろうが」
ヒルマにしては真っ当な意見だった。提案した内容はともかくとして。
「まあ実際に結婚するかどうかは相性もあるだろうしな」
ユサも同意した。
「あ、相性って」
ヨルクが今度こそ耳まで真っ赤になった。どうやら伝えようとしたことが湾曲して伝わってしまったらしい。
「いやらしい想像すんな。生活習慣とか性格とか色々あんだろうが」
「あっそっそうですよね」
あはは、と頭を掻いている。こいつ女性が苦手なんじゃなかったのか。
ユサはヒルマの腕から出ると、カウンターまで歩み寄りヨルクをじっくり見た。本当に悪い奴だったら困る。
ヨルクもユサを見て照れくさそうに笑った。
「貴女もお綺麗な方ですね、はは」
「絶対手を出すなよ」
ヒルマが凄む。ユサは安心させてやろうと思って言った。
「手を出してきたら股間蹴り飛ばしてやるから大丈夫だよ」
「そう?」
ユサの蹴りの強烈さはお墨付きだ。ヒルマはそれを聞いて安心したようだった。
逆にそれを聞かされたヨルクの顔は引きつっていたが。
「じゃあ、とりあえずお試し期間ってことで今日から一緒に住んだらいいんじゃないか? そうしたら今夜からユサとゆっくりふたりでいれるし」
ヒルマとしてはさっさと厄介払いしたいのだろうし、恐らく後半が本音の部分だろうが、ユサはそこには触れないことにした。ヒルマに構い過ぎると話が脱線していくのはもう理解している。
「俺達もまだこの町にいる様にするから。なんせクリスティナは国から出たのは昨夜でまだ国の外のことは分かってないし、俺がいた方がいいこともまだあるだろ」
ユサがそう提案すると、ヨルクは別のところに反応してクリスティナを見た。
「え、昨日ですか? ということはまだこの国のことは何も?」
クリスティナはぽーっとヨルクを見つめながら頷いた。こりゃ完全に恋に落ちたな、ユサはそう思った。この熱が冷めた時が少し恐ろしかったが、まあそこはもうユサの管轄外だ。後は勝手にやってくれ、である。
「はい。ヨルクさん、是非手取り足取り教えてくださいませ」
「は……はい!」
また手を取って見つめ合い始めた。これじゃあ何も進まない。
ユサは息を吐くと、ふたりに向かって言った。
「とにかくクリスティナは着替えのひとつもない。下着すらない。今から足りない物を買いに行くから、ヨルクだっけ? お前も一緒に来い」
「は、はい!」
「ユサって本当お人好しだよね。疲れてるんだからもう放っといて俺とゆっくりすればいいのに」
ヒルマがのんびりとユサの横に来た。
クリスティナに関しては完全にとばっちりのヒルマだけは少し面倒くさそうだったが、それでも止めはしない。こいつは結局何だかんだ言ってユサに付き合ってくれるのだ。
「このまま放っておいたら後味悪いだろ」
「それがお人好しなんだって。まあユサのいいところでもあるけど」
そう言うと軽く口づけをした。昨夜からのヒルマはまるでたがが外れた様に接触をしてくる。まあユサももうそれはそれでいいのだが、問題はこの横にいる
「あっあのっそういうことってどこでもしていいもの何ですのっ?」
声が上擦っている。ユサとヒルマは顔を見合わせた。ヒルマがまた何を勘違いしたか、説明をし始めた。
「この程度であれば問題ない。昨日クリスティナが見た様なのは、まあなるべく隠れてした方がいいだろうな」
「お前全然隠れる気なかったじゃねえか」
ユサを出迎えにきたヒルマの熱烈な歓迎にクリスティナが顔を真っ赤にしていた、あれだ。
「仕方ないだろ、クリスティナがいるなんて思わなかったんだ」
「お前なあ」
開き直るヒルマにユサが呆れていると、ヒルマがまた口を滑らせた。
「ユサだって一緒だろうが。昨日公園で先にモゴ」
急いでヒルマの口を押さえた。手のひらが息で暖かくなる。動こうとしていたヒルマの口がようやく閉じた。
「ヒルマ、黙っとけ」
「……あい」
口を押さえられたままヒルマが返事をした。
状況がよく分かっていないであろうヨルクが首を傾げながらも立ち上がった。
「僕、とりあえず支度をしてきますので、皆さん少々お待ち下さい!」
そういうと、作業場の裏に消えていった。まだ顔が赤いクリスティナに小さく声をかける。
「お前さ、本当にあれでいいのか? 結構情けなそうだけど」
「あの刺繍の腕に惚れたのよ」
クリスティナが微笑んだ。
「まあ顔も悪くないし、気が弱い位の方が優しいからいいって旦那の暴力から逃げてきた信者さん達がよく言ってたわよ」
そうか、白磁国にはそういった側面もあるのだ。もしユサも存在を知っていたら、蟻塚に居続けないで駆け込んでいたかもしれない。その場合ヒルマに出会うことはなかったのかもしれないが。
クリスティナは男には会ったことがなかったかもしれないが、男女の諍いについてはもしかしたらユサよりも理解しているのかもしれなかった。
「……そうか」
ユサはそれだけ言った。ヒルマがユサの頭を引き寄せた。ヒルマも何も言わなかった。その気持ちが嬉しかった。
「あの人はきっと芸術家なのね。だから私が彼をもっと自由に作品に集中出来る環境を作ってあげれたら最高じゃなくて?」
「うん、そうだな。とりあえずはそれでいいんじゃないか?」
クリスティナの笑顔は輝いている。ユサも微笑んだ。
「それに、どうしようもなくなったらさっさと離婚して国に戻るか別の旦那を探すわ」
「はは、逞しいな」
「結婚に夢なんか見ないわよ。散々負の部分だけを聞いてきたんだから」
クリスティナは靴を履きながら遠い目をした。
「でもね、だからこそ経験したいの」
「経験?」
「ええ。結婚って相手だけではないでしょう? 私にだって負の感情はあるわ。だから誰かを好きになって、大恋愛して、結婚をして、いっぱい泣いて喧嘩して仲直りをしてみたいの」
あのヨルクとでは喧嘩にはならなさそうだったが。
「籠の中の鳥のままでは私は所詮無知な人間で終わる。きっと国の外では私の知らないことが、楽しいことも嫌なこともいっぱい待っている。そう思ったら飛び出してて」
クリスティナがくすりと笑って立ち上がった。
「で、ベランダから落ちそうになってた訳だな」
「ふふ、そうよ。――私には色んな物が欠けてる。それを埋める為に出てきたの。だから誰にも邪魔させない。その為にはヒルマさんが言う通り既成事実を作らないとね」
力強いクリスティナの言葉。欠けているからとヒルマを突き放そうとした自分となんと違うことか。クリスティナは輝いていた。これは命の輝きなのだろう、そう思う程眩しかった。
これと同じものをヒルマはユサの中に見たのだろうか? ユサには分からなかったが、もしあるとしたら嬉しいな、そう思った。
クリスティナが拳を握りしめる。
「だから今夜が勝負よ! 名実共に夫婦になってみせるわ!」
「はあ」
これが聖女の言葉とはとても思えなかったが、まあそんな聖女もいいのかもしれない。
「お待たせしました!」
息を切らせてヨルクが奥から出てきた。綺麗な黒の外套を羽織っており、先程よりも少しシャキッとして見える。手には薄いピンクのこれまた豪華な刺繍が入った外套を抱えていた。嬉しそうにクリスティナに差し出す。
「新作なんですが、クリスティナさんに是非着ていただきたくて!」
「まあ……! 素敵! ありがとうヨルクさん」
感動した様子のクリスティナが何を思ったのか、いきなりヨルクの頬にキスをした。
「えっええっ!」
ヨルクが真っ赤になった。クリスティナは悪戯っ子の様に笑った。
「初めてのキスよ。ふふ」
「えっはっ初めて!? 僕が……!」
ユサは人間が溶けそうになっているのを初めて見た。ヘナヘナとカウンターに寄りかかったヨルクは耳まで赤い。クリスティナがユサをチラリと見ると、小さくウインクをした。
本当に逞しい。ユサは口の端を少しだけ上げた。
「やることは多いぞ。さっさと行こう」
「あっはっはい!」
ヨルクが慌てて靴を履いた。
ユサの心が温かくなった気がした。ユサは人の為には泣けないかもしれない。でも、人を見てよかったな、嬉しいなと思えたじゃないか。そんなこと、今まで思ったことがなかった。
そんな気付きをユサに与えてくれたのは、この破天荒な聖女様だった。
さすが聖女だな。ユサはそう思うと破顔した。
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