第61話 実業家
3人は町に買い物に出ることにした。
人の良さそうな初老の宿の男性主人と楽しそうに雑談していたヒルマは、部屋から出てきたユサとクリスティナに気付くと嬉しそうにユサの腰に手を回して主人に手で挨拶をした。主人は昨日のヒルマの様子を知っていたからか、嬉しそうに小刻みに頷いていた。
「お前本当に一体何往復したんだ?」
「数え切れん」
ヒルマがあっさりと答えた。ユサが帰って来ないかと何度も何度も宿と国境を往復したのをずっと見せられていては、宿の主人もさぞや迷惑だったことだろう。
外の風は思ったよりも冷たい。外套を羽織ってはきたが、ユサはブルッと震えると暖を取る為ヒルマに身体を寄せた。ヒルマはいつも体温が高いので、こういう時は便利だった。
「俺、湯たんぽ?」
「お前は肉たんぽだな」
「何だそれ」
それでも嬉しそうに口元を緩ませて更にユサを引き寄せると、ヒルマの外套の中にユサを入れた。温かい。ユサはヒルマを見上げて笑いかけた。
「お前はいつも温かいな」
「ユサは肉も筋肉もないからなあ。始めに脱がせて見た時よりは大分付いたけど、でもまだまだ」
「お前遠慮なく身包み剥いだもんな……」
ユサは遠い目になった。初対面で腹を殴られ身包み剥がされた男と恋人同士になるなんて、ただそう口に出したら聞いた者はユサの正気を疑うに違いなかった。ユサだってそう思う。
「もっともっと旨い物いっぱい食べような。それに台所に並んで一緒にイカを
「お前本当に捌けるんだろうな?」
「当然だ、俺は海の国の出身だぞ」
「ならいいけど」
日頃のヒルマの手先の不器用さを隣で見ているとかなり疑わしいのだが、本人が大丈夫というならきっと大丈夫なのだろう。
「米が詰まったやつ、あれ旨かったな! また食べたい」
「おう、全部片付いたら急いで
「じゃあ頑張って全部片付けないとな!」
「はは、頼りにしてるぞ」
ユサとヒルマがイカの話で盛り上がっていると、後ろからクリスティナが遠慮がちに口を挟んできた。また存在を忘れていた。
「あのお……ふたりの世界に浸っているところ申し訳ないんだけど」
「どうした?」
クリスティナを振り返ると、クリスティナがひとつの店舗を指差していた。小さいが服屋だった。そうだ、クリスティナの服も見るんだった。
「換金がまだだけど先に見るか?」
「いいかしら? ちょっと気になって」
「? ああ」
クリスティナが店に向かう。近付くと、そこは絹で出来た服を取り扱っている店だと分かった。その服には一体どうやったんだと思うような見事な刺繍が施されている。ガラス窓の外側からじっと飾られている服を見ていたクリスティナが、顔を
ユサとヒルマは顔を見合わせてからクリスティナの後に続いた。
中に入ると、店の中はカウンターの手前が店舗、奥が作業場となっていた。作業場には若い男がひとり、座りながら刺繍をしていた。壁に展示されている服にも皆見事な刺繍が施されている。これをこの男がひとりで刺したのだろうか。
「あの、すみません!」
クリスティナが男に声をかけた。針と布を持っていた男の手が止まり、クリスティナを見た。少し褐色の肌、金色の直毛は長く後ろにひとつに縛られている。目は青く、全体的にほっそりしており女性的ではあるが、作りは悪くない。
その気弱そうな表情を除いては。
「あ、お客様ですね、いらっしゃいませ」
声も弱々しい。それでもこの見事な仕事をこなすだけあって美醜にはうるさいのか、クリスティナをひと目見るとハッと息を呑んで見つめ始めた。
「あのー?」
クリスティナはこういった視線には慣れていない。というよりも意味が分からないのだろう、首を傾げて男に声をかけた。
「あ、す、すみません! つい見惚れてしまって」
「見惚れる? 何に?」
クリスティナが怪訝そうに首を傾げたが、男はもじもじしていて返答しない。クリスティナは早々に諦めたらしかった。
「まあいいわ。あの、この刺繍って全部貴方の作品なのかしら?」
「さ、作品という程の物じゃありませんが、は、はいそうです」
気弱そうに男が笑う。クリスティナはその返事を聞いて眉間に皺を寄せた。
「この絹。
クリスティナはそう言うと、壁に掛けられた服のひとつの値札を掴んで引っ張った。
「え、いや、仕立ても僕がやってますし、卸業者のワンさんも相場はこれくらいだって」
「はあ? あんた絹の値段分かってるの?」
クリスティナがカウンターまでつかつかと戻ると男を睨みつけた。男はたじたじだ。
「ま、まあワンさんから買ってるから分かりますよ。確かに高いですけど、でもワンさんが」
クリスティナがカウンターに両手をバン! とついた。
「ワンさんワンさんって誰よそれ! 知らないわよ! あんたこんな値付けじゃ儲けなんて殆ど出ないじゃない!」
いきなりクリスティナが切れた。ユサとヒルマは顔を見合わせると、一歩下がって様子を伺うことにした。こういう諍いには関わらない方が得策である。
「えっでもワンさんが」
「ワンさんはもういいから。絹の卸値は基本変えてないのよ。それでこの値段。あんた自分の完成品がどれ位の値付けされているかとか調べてない訳?」
クリスティナが靴を脱いでズカズカと作業場に入り込んだ。
「あっあのっ僕ちょっと女の人が近いと緊張するんでっそのっ」
「うるさい! 帳簿見せなさいよ!」
クリスティナは勝手に他所の店のカウンターの裏を漁り出した。元々度胸があるクリスティナだ。鍛えたらいい盗賊になりそうだった。
男は少し距離を取りつつオロオロとしている。
「ちょ、帳簿? いや、特に付けてないんですけど」
クリスティナの手が止まった。男をゆっくりと振り返る。男はずり這いで後ろに下がった。
「あんた……商売はやる気あるのかしら?」
「えっいや、まあそりゃありますが」
クリスティナが男に詰め寄る。
「よく今まで事業破綻しなかったわね」
「まあ、食費を切り詰めればなんとか。親から相続した遺産もまだ少し残ってますし」
クリスティナが男の胸ぐらを掴んだ。
「あんたそれって赤字出してんじゃないのよ! ……はあ。ねえ、この店、他に人はいないのかしら?」
「雇うお金もないですし、あははは」
男の胸ぐらを掴んだまま、クリスティナはまた溜息をついた。男の顔は引きつりながらも、クリスティナの顔に釘付けになっている。薄い褐色の肌で分かりづらいが、顔も赤くなっているようだった。
「そのワンさんて方、どういう方なの?」
「ほぼ毎朝来られますよ、あ、噂をすれば」
カランカラン、とドアのベルが鳴った。クリスティナが掴んでいた胸ぐらを離すと、パンパンと服を
ワンさんと呼ばれた中年のぽっちゃりとした小さい男がおや、という表情をする。
横でユサとヒルマは黙って様子を窺う。一見人の良さそうな顔つきをしているが、男の目は笑っていない。ユサは一瞬でこいつはまともな奴じゃないな、と悟った。
「おはよう。今日の生地と、仕上がり品の差額持ってきたよ。なあ、こちらの綺麗なお嬢さんはどちらさん?」
「あ、あのっ」
声をかけられて青年は慌ててカウンターに半分這いながら駆け寄ったが、クリスティナがそれを手で制した。
「私は今日からこの店で渉外と購買と会計を担当することになりましたクリスティナと申します」
姿勢をピシッと正したクリスティナがキッパリと言い切った。口からでまかせもここまで堂々としていると見事のひと言である。
しかし何をするつもりなのか。ユサは見守ることにした。まあヒルマもいる。何かやばいことになりそうだったらいざとなったらヒルマが力ずくで何とかしてくれるだろう。
ワンは笑顔のまま、馬鹿にする様にクリスティナに言った。
「貴方みたいなお若いお嬢さんが渉外? 購買? 会計まで? ご冗談を」
クリスティナは眉ひとつ動かさない。
「商才に年齢も性別も関係ないと思いますけど。ここにいる……」
横にいる青年をちらり、と見る。名前を聞いてないことに今更気付いたのだろう。
「……主人に伺いましたが、貴方はどうも相場についてあまりご存知ないようでしたので」
ブフォッ! と青年が息を吐き、咳き込んだ。クリスティナは分かっていないらしい。ワンが意外そうに青年に聞いた。
「ヨルクさん、あんた奥手そうに見えていつの間にこんな美人さんと結婚したんだ」
クリスティナの眉が小さくピクリと反応した。選択した言葉を間違えたことに気付いたらしい。
ヨルクと呼ばれた青年はまだむせていた。
「いやっゴホッそのっ」
「貴方は黙ってて!」
そのまま続行することに決めたらしいクリスティナがヨルクを止めた。
「……はい」
ヨルクが驚いた表情で返事をした。
クリスティナがワンに向かってにっこりと笑いかけた。
「そちらの生地の量、質、お値段をまずは交渉しましょうか。引き取った分の差額についても、じっくりと」
クリスティナの目が怪しく光った。
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