第60話 聖女の身の振り方
朝日が瞼の向こう側から差し込んできた。
横になった身体の上に何かが乗っていて重い。しかもベタベタする。ユサが薄っすらと目を開けると、胸の上にヒルマの顔が乗っていた。ユサは昨夜は巫女のペラッペラの服のまま寝てしまっている。その為剥き出しになっていた腹にはヒルマの無精髭が当たっていてチクチクする。どうもユサの身体半分の上にヒルマがうつ伏せに乗って寝ていたらしい。重い筈だ。
あまりヒルマが寝ているところをまじまじと見たことはなかったが、そういえばよくうつ伏せ寝をしていた様な記憶があった。癖なのだろう。だからうつ伏せで寝ることに対して文句はない。だが、問題はその少し開いた口から垂れているものだった。
ベタベタしているものの原因はこれだ。
「おいヒルマ」
寝ているヒルマの頬をつねった。痛覚は昨日戻った。だからこれで起きる筈だろう、そう思って爪の先をきゅ、と回転させる。
が、起きない。余計にヒルマの口の端から
「おいってば、起きろ」
ユサが起き上がればいいのだが、如何せんヒルマが重すぎて抜け出せそうにない。頬をグイグイ引っ張った。ようやくヒルマの瞼が動き出した。こいつ、痛覚戻ったんじゃなかったのか。それとも感覚をなくしている間に鈍りでもしたのだろうか。
「おい、いい加減起きろ」
ヒルマの瞼がようやく開き、青い目がしばらくユサの胸の膨らみに注がれた後、ゆっくりと見上げてユサと目が合った。にへら、と笑う。次いで、口の中に残っていたのだろう、涎をジュル、と吸った。汚い。
「ユサおはよう。具合はどうだ?」
「気分は最悪だ」
ヒルマはその体勢のまま心配そうな顔をしてみせた。
「どうした? まだ疲れてるのか? 今日は寝てるか?」
「そうじゃねえ。お前の涎が腹の上に垂れてる」
「あ」
ヒルマが慌てて顔を上げた。ヒルマの頬にも付いていたのだろう、少し顔をしかめてから袖で頬を拭い、それからユサの腹に残った涎を拭き取った。
「すまん」
「それから、重いからどいてくれ」
「おう。――あ、その前に」
ヒルマの顔が近付いてきてユサに軽く口づけて、はにかんだ様に笑った。
「朝の挨拶。はは」
相変わらずの乙女な行動だった。ユサよりも余程乙女なのだ、この大きな男は。ユサは思わずクスリと苦笑いした。
「なに」
心外そうにヒルマの眉が下がる。
「乙女だなって思ってさ」
「またそれか。言っただろ、乙女でいいんだって。その代わりユサが男前だからな」
「何だそれ」
ユサはまた笑った。ヒルマとこんな風に近付いたまま恐れることなく、こんな風に軽口を叩ける日が来るとは思ってもみなかった。
ヒルマの安心しきった顔。これをいつも不安なものにさせていたのはユサだ。それにも気付いてなかった自分の何と愚かなことか。ユサは大分伸びてしまったヒルマの青黒い前髪に手を伸ばした。これもその内切ってあげたいな、そう思った。
ヒルマがユサの手を握る。じっとユサを見つめ続けている。またユサに近付いてくると、今度はユサの下唇を軽く食み、そのまま舌を入れてきた。
ユサもそれに応え、腕をヒルマの頭に回して軽く抱き締める。漏れる吐息、寝起きで少し不味い口の味ももう全部ユサのものだった。これがこれからずっとユサの手の中にあるなら悪くない、そう思うと笑顔になった。それを見てヒルマも笑顔になった。ずっとこうしていたいな、そう思いながらヒルマを堪能していると。
「あ、あのっちょっといいかしらっ」
衝立の奥からクリスティナの声がした。すっかり忘れていた。
ヒルマも忘れていたのだろう、一瞬誰だっけ、という表情になった。
「ヒルマ、上からどいてくれ」
「へいへい」
少し不満そうな顔をして、それでもヒルマがユサの上からどいた。離れた部分が急にひんやりとした。こんな服を着ていたら本当に風邪を引いてしまいそうだった。早々に風呂に入って着替えるべきだろう。
「クリスティナ、ちゃんと寝れたか?」
ベッドから起き上がり、衝立の向こうにいるクリスティナを覗き込んだ。ベッドに腰掛けて両頬を手のひらで挟み顔を真っ赤にしているクリスティナがいた。こちらも相変わらず巫女のペラッペラの服だ。そういえばこいつは着替えを持っていなかった。今日は買いにいかないとならないだろう。この格好で町を
「あっうん、寝れたわありがとうユサ。もうどのタイミングで声をかけたらいいか分からなくて」
ずっと隣でユサとヒルマのやり取りを聞いていたのだろう、この顔の赤さはそれが原因だ。まあ、クリスティナがいることをすっかり忘れていたユサ達のせいである。なので素直に謝った。
「悪い、お前がいることをすっかり忘れてた」
「ほっ本当よもうっびっくりしちゃったわよ」
あはは、とクリスティナが照れ笑いした。そう、この世間知らずの聖女様の身の振り方も考えなければならないのだった。彼女の出自についてもまだヒルマに説明していない。
今日やらねばならないことは多そうだった。この問題を解決しない限り次には行けない。
「とりあえず風呂だ風呂。俺の服、男物だけど貸してやるから風呂入って着替えろ」
「やっぱりこの巫女の服は駄目よね?」
さすがにそれくらいは分かるらしい。ユサは頷いた。
「こんな服着て歩いてたら襲ってくれって言ってる様なもんだからな」
「え」
クリスティナの表情が凍りついた。やはりそこまでは気付いていなかったか。まあ男のいない国で生まれてからずっと過ごしていたらこうなってしまうのも仕方ないのかもしれなかったが、だからといってユサがずっと面倒を見る訳にもいかない。
ユサは溜息をついた。やはりやるしかなかった。
「後でゆっくり男ってのはどんなもんだか教えてやる。ヒルマは比較的無害だけどな、あいつだって始めは相当やらかしてたぞ」
「ユサ、あの話するの? あれはもう忘れてって言ったじゃないか」
衝立の奥からヒルマの情けない声がした。
「うるせえ。事実は事実だ」
「お手柔らかにね」
言われたくない様なことをした方に問題があると思うのだが、ユサはもう取り合わないことにした。ヒルマを間に挟むと進むものも進まなくなる。ヒルマの鞄をガサゴソと漁り服を取り出す。マージのところのカイルのお古だ。薄いは薄いが巫女の服よりはマシだ。下着も取り出す。人の下着を身に着けるのは抵抗があるだろうが仕方ない。服をクリスティナに渡した。
「ほれ、入ってこい」
「ありがとう、急ぐわね!」
ヒルマが横から口を挟んだ。
「ゆっくりでいいぞ」
「え? あ、はい、まあじゃあ普通に入ってくるわ」
ヒルマが発した余計なひと言は、クリスティナにはその奥にある意図は伝わらなかったらしい。クリスティナが風呂場に消えると、ユサはじろ、とヒルマを振り返った。
「お前なあ」
「はは」
ヒルマは両手を広げてにこやかに待っていた。ユサはそれを見て苦笑すると、その腕の中に飛び込んでいった。
3人は朝食を食べながら今日の予定を話し合った。
その間にざっとクリスティナの親の話をヒルマにしたが、ヒルマは「ふーん」と大して興味のない返事をしただけだった。こいつは本当に権力というものに興味がないらしかった。
食事を終えるとヒルマを宿の部屋から追い出した。あいつがいると言いにくいこともある。借りていたランタンを持っていったので、今頃宿の主人とでもお喋りしていることだろう。
まず、ユサが
「よく分かったわ。男には肌をいっぱい見せちゃいけないってことね! 見せていいのは好きな人にだけってことよね!」
「まあ、そういうことだ」
カイルのお古を着たクリスティナの雰囲気はガラッと変わり、ひとつにまとめた髪のせいもあり聖女というよりは少年だ。どちらにせよもてそうであるが。
「まずは住むところと働くところを探せばいい訳よねえ。そう簡単に見つかるものなのかしら?」
「お前だとふらっと女郎宿に入っていきそうだから、見つかるまでは面倒みてやる」
「女郎宿? 何それ」
ユサがまたもや詳しく説明すると、クリスティナの唇が羞恥のせいかわなわなと震えていた。心配になる程
「じゃあ次は服を買いに行こう。その持ってきた宝石類の換金方法を先に教えるから、一緒に行くぞ」
「ユサって逞しいのねえ。私も早くユサみたいにしっかりしないとね!」
クリスティナはそう言うと拳を握りしめて笑った。ユサも笑った。
「お前は前向きだからすぐに慣れるさ」
こんな元気いっぱいの聖女様など、遅かれ早かれ神殿の内部に引き留めておくことは出来なくなっていただろう。ユサに会えて、もしかしたらクリスティナは幸運だったのかもしれない。
「ユサ先生! 頼むわよ!」
クリスティナが元気に立ち上がった。
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